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「お疲れ様でした、ラーニャ様! あー、スッキリしました! あの王子の顔、見ました? まるで、食べようと思っていた高級肉を目の前で野良犬に奪われたような顔をしていましたよ!」
会場を後にした馬車の中で、メリルはドレスの裾も気にせず、ふかふかの座席に深く背中を預けた。
先ほどまでの「可憐な男爵令嬢」の仮面はどこへやら、今の彼女は完全に「仕事を終えた後の労働者」の顔である。
「言葉が過ぎますわよ、メリルさん。一応は王族なのですから。……まあ、野良犬に失礼だという点には同意いたしますけれど」
「さすがラーニャ様、毒のキレが違いますね。それで、約束の件ですが……本当に私、公爵家で雇っていただけるんですよね? 福利厚生完備、三食昼寝付き、有給休暇ありの、あの夢のような条件で!」
「ええ、もちろんですわ。私の個人秘書兼、対外的な『友人』枠として、正式な雇用契約書を用意させてあります。アストレア公爵家は、無能な王子と違って約束は守りますから」
「やったー! これで実家の借金も返せるし、弟たちの学費も払えるし、私は毎日おいしいケーキが食べられる! 万歳! ラーニャ様万歳!」
馬車の中で小躍りするメリルを眺めながら、私は窓の外を流れる夜の街並みに目を向けた。
あんな無能な王子に嫁いで、一生を台無しにするなど、あまりに非合理的だ。
彼との婚約は、幼い頃に決められた「義務」だったが、私はその義務を果たす過程で、彼の徹底した無能さと自分勝手さに早々に愛想を尽かしていた。
「……さて、家に着いたらお父様への説明ですわね」
「公爵閣下、怒りませんか? 王家との縁が切れたんですよ?」
「怒る? まさか。あのお父様が、あの借金まみれの王家と縁が切れることをどれほど待ち望んでいたか。あなた、何も分かっていませんわね」
馬車がアストレア公爵邸の重厚な門をくぐる。
玄関先には、すでに報告を受けたのであろう執事たちが整列し、その中心には私の父、アストレア公爵が腕を組んで立っていた。
「ただいま戻りましたわ、お父様」
馬車を降りた私に、父は鋭い視線を向け……そして、ニヤリと口角を上げた。
「ラーニャ。聞いたぞ。パーティーのど真ん中で、あのバカ王子に婚約破棄を言わせたそうだな」
「ええ。予定通り、皆様の前で高らかに宣言していただきましたわ」
「はっはっは! よくやった! これでようやく、あの『王家への特別融資』という名のドブ捨て事業を打ち切れる! よくやったぞ、我が娘ながらあっぱれだ!」
父は私の肩を叩き、豪快に笑い飛ばした。
周囲の執事やメイドたちも、どこかホッとしたような表情を浮かべている。
この屋敷の人間は皆、王子の横暴と、それに対する我が家の出費に辟易していたのだ。
「閣下、初めまして。本日からラーニャ様の秘書としてお世話になります、メリル・ランバートです。馬車の中では失礼なことを言ってしまいましたが、仕事は真面目にこなします!」
メリルが慌てて深々と頭を下げる。
父は彼女を一瞥し、満足そうに頷いた。
「君が、ラーニャが言っていた『話の通じる令嬢』か。娘をあそこまで上手くサポートしてくれたのだ、歓迎しよう。給与についてはラーニャから聞いているだろうが、特別ボーナスも検討しておこう」
「ボーナス! 一生ついていきます、公爵閣下!」
「ふむ、いい返事だ。……ところでラーニャ、あのアホ王子、最後の方は泣いていたそうじゃないか」
「泣いていたというより、現実逃避をしていたように見えましたわね。自分が愛されているという幻想が崩れて、脳の処理が追いつかなかったのでしょう」
私たちは応接室に移動し、深夜にもかかわらずお茶会を始めた。
差し出されたのは、王家では口にできないような最高級の茶葉を使った紅茶だ。
「しかしお嬢様、王子がこのまま引き下がるとは思えません。明日には、王家から何らかの抗議が来るのでは?」
老執事のセバスが、心配そうに尋ねる。
私は紅茶を一口飲み、優雅に微笑んだ。
「抗議? 何の権利があって? あちらが公衆の面前で、明確に『婚約破棄』を宣言したのです。その証人は会場にいた数百人の貴族たち。今さら『やっぱり無しで』と言い出すには、王家のメンツが許さないでしょう」
「それに」と、私は言葉を続けた。
「王子が今まで私の名義で使っていた遊興費、あれをすべて『不当利得』として返還請求する準備も進めています。明日、王宮に届くのは抗議文ではなく、私からの請求書ですわ」
「……ラーニャ様、本当に容赦ないですね。私、敵に回らなくて良かったです」
メリルがクッキーを頬張りながら、戦慄したような顔で言った。
「ビジネスに私情は禁物ですわ。……さて、明日は忙しくなりますわよ。王子の尻拭いで滞っていた私の私的事務、すべて片付けなければなりませんから。メリルさん、覚悟はよろしくて?」
「はいっ! おいしいお菓子と給料のためなら、徹夜だって辞しません!」
こうして、私たちの新しい生活が始まった。
一方その頃、王宮の自室で「嘘だ、何かの間違いだ……ラーニャが僕を裏切るはずがない……」とブツブツ呟きながら、抜け殻のようになっている王子がいたのだが。
そんなことは、知ったことではないのである。
会場を後にした馬車の中で、メリルはドレスの裾も気にせず、ふかふかの座席に深く背中を預けた。
先ほどまでの「可憐な男爵令嬢」の仮面はどこへやら、今の彼女は完全に「仕事を終えた後の労働者」の顔である。
「言葉が過ぎますわよ、メリルさん。一応は王族なのですから。……まあ、野良犬に失礼だという点には同意いたしますけれど」
「さすがラーニャ様、毒のキレが違いますね。それで、約束の件ですが……本当に私、公爵家で雇っていただけるんですよね? 福利厚生完備、三食昼寝付き、有給休暇ありの、あの夢のような条件で!」
「ええ、もちろんですわ。私の個人秘書兼、対外的な『友人』枠として、正式な雇用契約書を用意させてあります。アストレア公爵家は、無能な王子と違って約束は守りますから」
「やったー! これで実家の借金も返せるし、弟たちの学費も払えるし、私は毎日おいしいケーキが食べられる! 万歳! ラーニャ様万歳!」
馬車の中で小躍りするメリルを眺めながら、私は窓の外を流れる夜の街並みに目を向けた。
あんな無能な王子に嫁いで、一生を台無しにするなど、あまりに非合理的だ。
彼との婚約は、幼い頃に決められた「義務」だったが、私はその義務を果たす過程で、彼の徹底した無能さと自分勝手さに早々に愛想を尽かしていた。
「……さて、家に着いたらお父様への説明ですわね」
「公爵閣下、怒りませんか? 王家との縁が切れたんですよ?」
「怒る? まさか。あのお父様が、あの借金まみれの王家と縁が切れることをどれほど待ち望んでいたか。あなた、何も分かっていませんわね」
馬車がアストレア公爵邸の重厚な門をくぐる。
玄関先には、すでに報告を受けたのであろう執事たちが整列し、その中心には私の父、アストレア公爵が腕を組んで立っていた。
「ただいま戻りましたわ、お父様」
馬車を降りた私に、父は鋭い視線を向け……そして、ニヤリと口角を上げた。
「ラーニャ。聞いたぞ。パーティーのど真ん中で、あのバカ王子に婚約破棄を言わせたそうだな」
「ええ。予定通り、皆様の前で高らかに宣言していただきましたわ」
「はっはっは! よくやった! これでようやく、あの『王家への特別融資』という名のドブ捨て事業を打ち切れる! よくやったぞ、我が娘ながらあっぱれだ!」
父は私の肩を叩き、豪快に笑い飛ばした。
周囲の執事やメイドたちも、どこかホッとしたような表情を浮かべている。
この屋敷の人間は皆、王子の横暴と、それに対する我が家の出費に辟易していたのだ。
「閣下、初めまして。本日からラーニャ様の秘書としてお世話になります、メリル・ランバートです。馬車の中では失礼なことを言ってしまいましたが、仕事は真面目にこなします!」
メリルが慌てて深々と頭を下げる。
父は彼女を一瞥し、満足そうに頷いた。
「君が、ラーニャが言っていた『話の通じる令嬢』か。娘をあそこまで上手くサポートしてくれたのだ、歓迎しよう。給与についてはラーニャから聞いているだろうが、特別ボーナスも検討しておこう」
「ボーナス! 一生ついていきます、公爵閣下!」
「ふむ、いい返事だ。……ところでラーニャ、あのアホ王子、最後の方は泣いていたそうじゃないか」
「泣いていたというより、現実逃避をしていたように見えましたわね。自分が愛されているという幻想が崩れて、脳の処理が追いつかなかったのでしょう」
私たちは応接室に移動し、深夜にもかかわらずお茶会を始めた。
差し出されたのは、王家では口にできないような最高級の茶葉を使った紅茶だ。
「しかしお嬢様、王子がこのまま引き下がるとは思えません。明日には、王家から何らかの抗議が来るのでは?」
老執事のセバスが、心配そうに尋ねる。
私は紅茶を一口飲み、優雅に微笑んだ。
「抗議? 何の権利があって? あちらが公衆の面前で、明確に『婚約破棄』を宣言したのです。その証人は会場にいた数百人の貴族たち。今さら『やっぱり無しで』と言い出すには、王家のメンツが許さないでしょう」
「それに」と、私は言葉を続けた。
「王子が今まで私の名義で使っていた遊興費、あれをすべて『不当利得』として返還請求する準備も進めています。明日、王宮に届くのは抗議文ではなく、私からの請求書ですわ」
「……ラーニャ様、本当に容赦ないですね。私、敵に回らなくて良かったです」
メリルがクッキーを頬張りながら、戦慄したような顔で言った。
「ビジネスに私情は禁物ですわ。……さて、明日は忙しくなりますわよ。王子の尻拭いで滞っていた私の私的事務、すべて片付けなければなりませんから。メリルさん、覚悟はよろしくて?」
「はいっ! おいしいお菓子と給料のためなら、徹夜だって辞しません!」
こうして、私たちの新しい生活が始まった。
一方その頃、王宮の自室で「嘘だ、何かの間違いだ……ラーニャが僕を裏切るはずがない……」とブツブツ呟きながら、抜け殻のようになっている王子がいたのだが。
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