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「……計算が合いませんわ。何度叩いても、一円足りませんの」
相談所のデスクで、私は頭を抱えていた。
普段なら一秒で解決するような単純な家計簿の集計が、三十分経っても終わらない。
原因は明白。
部屋の隅で、事務的に「騎士団の活動報告書」を書き続けているゼノの存在だ。
昨夜のバルコニーでの出来事以来、私の脳内メモリは常に「ゼノ」という名の巨大なデータに占有されている。
それなのに、当の本人は今朝から「仕事中だ」と素っ気ない態度。
私が「ゼノ、この書類の不備を……」と話しかけても、「後にしてくれ。今、予算の検分中だ」と視線すら合わせない。
「……無視。……無視ですわ。私の時給が、彼の沈黙によって一分ごとに削り取られていきますわ……」
「お姉様、お顔が死んでおりますわよ。まるで、特売の最終日に目の前で最後のキャベツを奪われた主婦のような、絶望に満ちた表情ですわ!」
リルが心配そうに(と見せかけて面白そうに)私の顔を覗き込んできた。
私はガタッと椅子を鳴らして立ち上がった。
「リルさん。……私、気づいてしまいましたの」
「何にですの!? 新種の節税対策ですか!? それとも、王子のマントの裏地を剥ぎ取って雑巾にする効率的な方法ですか!?」
「いいえ。……私、あのジュリアス殿下に『婚約破棄』を突きつけられた時、これっぽっちも怖くありませんでしたわ。むしろ『やった、残業代の出ない仕事が減ったわ!』と歓喜しましたの」
私は、自分の胸に手を当てた。
心臓が、不規則なリズムを刻んでいる。
「ですが、今。……ゼノに、たった一時間無視されただけで。……私の世界が、まるで国家破産に追い込まれたかのような、言いようのない不安に包まれているのですわ」
「……あ。お姉様、それ。……完全なる『陥落』ですわね」
リルが、何やら尊いものを見るような目で私を見つめた。
私は、部屋の隅のゼノを睨みつけた。
彼はまだ、ペンを動かしている。
私のこの「精神的損失」に気づきもせずに!
「ゼノ・アルタイル!!」
私はデスクをバン! と叩き、彼の元へ歩み寄った。
ゼノがようやく顔を上げ、不思議そうに眉を寄せた。
「なんだ、アクア。……急に大声出して。今、一番ややこしい数字の計算を……」
「ややこしいのは私の心境ですわ! いいですか、ゼノ。あなたのその『沈黙』という名の無形資産。それを独占して、私を放置するのは不当な契約違反ですわ!」
「……契約? なんの話だ」
「昨夜、あなたは私の人生を運用するとおっしゃったではありませんか! それなのに、初日からクライアント(私)を無視して他の業務(報告書)に没頭するなんて、運用担当者として失格ですわ!」
私は、勢い余って彼の胸ぐらをつかんだ。
ゼノは目を見開き、やがて噴き出すように笑い出した。
「……はは! なんだ、お前。……寂しかったのか?」
「寂……!? ち、違いますわ! 資産価値の低下を懸念しただけ……」
「俺を無視されるのが、そんなに嫌か?」
ゼノが私の手を取り、その指先にそっと唇を寄せた。
「……嫌、ですわ。……殿下に断罪されるより、あなたに一言も声をかけられない方が、私の人生にとっては最大級の『赤字』なんですの」
私は真っ赤になった顔を隠さず、真っ直ぐに彼を見据えた。
三白眼に、涙が滲む。
……あぁ、また無駄な水分を排出してしまいましたわ。
「……降参だよ。お前のその『経済用語を借りた告白』、本当に心臓に悪い」
ゼノは私を強く抱き寄せた。
鎧越しではない、彼の体温が直接伝わってくる。
「……悪かった。仕事に集中して、お前のことを考えないようにしてたんだ。……そうしないと、今すぐお前を連れ去って、どこかに閉じ込めておきたくなるからな」
「……閉じ込める? ……食費と家賃がかさみますけれど、よろしいかしら?」
「……お前、本当に台無しだな」
ゼノが私の頭を撫でる。
その心地よさに、私はようやく深い息を吐いた。
恋とは、論理的な思考を停止させるバグ。
ですが、そのバグによってもたらされる幸福という名の「特別利益」は、私の生涯賃金を遥かに上回るものになりそうです。
「お姉様ぁぁ!! 最高ですわ! 今、この瞬間を絵画にして、王都の広場で一枚銀貨十枚で売り出したいですわ!!」
「リルさん、肖像権の使用料は後で請求しますわよ」
幸せな静寂。
ですが、そんな甘い空気を切り裂くように、相談所の扉が再び勢いよく開かれた。
「アクア! やはり貴様は、その野蛮な男に毒されていたか! 今すぐその男から離れろ! 私という真の資産の元へ戻るのだ!」
……ジュリアス殿下。
またしても、私たちの「利益」を邪魔しにやってきたようです。
ですが、今の私は無敵ですわよ。
私はゼノの腕の中で、最高に「悪役らしい」微笑みを浮かべた。
「殿下。……残念ながら、私の心はすでに全株式を彼に譲渡済みですわ。……さあ、不法侵入の賠償金、昨日の三倍で精算していただきますわね!」
相談所のデスクで、私は頭を抱えていた。
普段なら一秒で解決するような単純な家計簿の集計が、三十分経っても終わらない。
原因は明白。
部屋の隅で、事務的に「騎士団の活動報告書」を書き続けているゼノの存在だ。
昨夜のバルコニーでの出来事以来、私の脳内メモリは常に「ゼノ」という名の巨大なデータに占有されている。
それなのに、当の本人は今朝から「仕事中だ」と素っ気ない態度。
私が「ゼノ、この書類の不備を……」と話しかけても、「後にしてくれ。今、予算の検分中だ」と視線すら合わせない。
「……無視。……無視ですわ。私の時給が、彼の沈黙によって一分ごとに削り取られていきますわ……」
「お姉様、お顔が死んでおりますわよ。まるで、特売の最終日に目の前で最後のキャベツを奪われた主婦のような、絶望に満ちた表情ですわ!」
リルが心配そうに(と見せかけて面白そうに)私の顔を覗き込んできた。
私はガタッと椅子を鳴らして立ち上がった。
「リルさん。……私、気づいてしまいましたの」
「何にですの!? 新種の節税対策ですか!? それとも、王子のマントの裏地を剥ぎ取って雑巾にする効率的な方法ですか!?」
「いいえ。……私、あのジュリアス殿下に『婚約破棄』を突きつけられた時、これっぽっちも怖くありませんでしたわ。むしろ『やった、残業代の出ない仕事が減ったわ!』と歓喜しましたの」
私は、自分の胸に手を当てた。
心臓が、不規則なリズムを刻んでいる。
「ですが、今。……ゼノに、たった一時間無視されただけで。……私の世界が、まるで国家破産に追い込まれたかのような、言いようのない不安に包まれているのですわ」
「……あ。お姉様、それ。……完全なる『陥落』ですわね」
リルが、何やら尊いものを見るような目で私を見つめた。
私は、部屋の隅のゼノを睨みつけた。
彼はまだ、ペンを動かしている。
私のこの「精神的損失」に気づきもせずに!
「ゼノ・アルタイル!!」
私はデスクをバン! と叩き、彼の元へ歩み寄った。
ゼノがようやく顔を上げ、不思議そうに眉を寄せた。
「なんだ、アクア。……急に大声出して。今、一番ややこしい数字の計算を……」
「ややこしいのは私の心境ですわ! いいですか、ゼノ。あなたのその『沈黙』という名の無形資産。それを独占して、私を放置するのは不当な契約違反ですわ!」
「……契約? なんの話だ」
「昨夜、あなたは私の人生を運用するとおっしゃったではありませんか! それなのに、初日からクライアント(私)を無視して他の業務(報告書)に没頭するなんて、運用担当者として失格ですわ!」
私は、勢い余って彼の胸ぐらをつかんだ。
ゼノは目を見開き、やがて噴き出すように笑い出した。
「……はは! なんだ、お前。……寂しかったのか?」
「寂……!? ち、違いますわ! 資産価値の低下を懸念しただけ……」
「俺を無視されるのが、そんなに嫌か?」
ゼノが私の手を取り、その指先にそっと唇を寄せた。
「……嫌、ですわ。……殿下に断罪されるより、あなたに一言も声をかけられない方が、私の人生にとっては最大級の『赤字』なんですの」
私は真っ赤になった顔を隠さず、真っ直ぐに彼を見据えた。
三白眼に、涙が滲む。
……あぁ、また無駄な水分を排出してしまいましたわ。
「……降参だよ。お前のその『経済用語を借りた告白』、本当に心臓に悪い」
ゼノは私を強く抱き寄せた。
鎧越しではない、彼の体温が直接伝わってくる。
「……悪かった。仕事に集中して、お前のことを考えないようにしてたんだ。……そうしないと、今すぐお前を連れ去って、どこかに閉じ込めておきたくなるからな」
「……閉じ込める? ……食費と家賃がかさみますけれど、よろしいかしら?」
「……お前、本当に台無しだな」
ゼノが私の頭を撫でる。
その心地よさに、私はようやく深い息を吐いた。
恋とは、論理的な思考を停止させるバグ。
ですが、そのバグによってもたらされる幸福という名の「特別利益」は、私の生涯賃金を遥かに上回るものになりそうです。
「お姉様ぁぁ!! 最高ですわ! 今、この瞬間を絵画にして、王都の広場で一枚銀貨十枚で売り出したいですわ!!」
「リルさん、肖像権の使用料は後で請求しますわよ」
幸せな静寂。
ですが、そんな甘い空気を切り裂くように、相談所の扉が再び勢いよく開かれた。
「アクア! やはり貴様は、その野蛮な男に毒されていたか! 今すぐその男から離れろ! 私という真の資産の元へ戻るのだ!」
……ジュリアス殿下。
またしても、私たちの「利益」を邪魔しにやってきたようです。
ですが、今の私は無敵ですわよ。
私はゼノの腕の中で、最高に「悪役らしい」微笑みを浮かべた。
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