シャングリラ

関谷俊博

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シャングリラ

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英語の授業は退屈だ。
イギリスやオーストラリアにいた俺にとって、わかりきったことを、くどくどと説明しているように思える。発音なら教師より俺の方がうまい位だ。
それがわかっているから、教師は俺を指したりはしない。英語が苦手なやつが、やっばり答えさせられる。
「小池。訳してみろ」
「あ、はい」
隣の席の小池が立ち上がった。
「えっと、あの」
小池が答えられずにいたので、俺は机の端にそっとノートを動かした。
小池はそれに気づいたようだ。
「よし。座れ」
どうやら無事に答えられたらしい。
授業が終わると、小池が声をかけてきた。
「ありがとう。荻くん」
「どういたしまして。だけど恩に着せるつもりはないよ」
「荻くんって、英語ができるのね」
「一年前までオーストラリアにいたからな」
「すごいなあ。帰国子女なんだ。それに優しいのね」
どうも苦手だ。こういう真面目さは。俺は優しくなんかないから、居心地が悪い。 勝手に勘違いしてるのを見ると、からかってやりたくなる。
「シアリアスネス•イズ•ザ•オンリー•レフュージ•オブ•ザ•シャロー」
「なあに、それ?」
「オスカー•ワイルドの言葉だよ。真面目さとは、浅はかさの、唯一の隠れ家だ」
小池はきょとんとしていた。

学校の外で、俺が小池と出会ったのは、その週の日曜日。俺が近くの教会の前を通りかかったときだ。
教会から出てくる小池と目があった。
「へえ。小池、クリスチャンなのか」
「ちがうわ」
「だけど、神を信じているんだろ」
「どうかしら?」
「じゃあ、何故教会へなんか行くんだよ」
「わけがあるのよ」
「わけって何だよ」
小池は少し考えていたようだったが、
「一緒に来て、荻くん」
そう言って、俺の手をとった。
「私が祈っている、そのわけがわかるわ」

小池は、俺を引っ張って、早足でずんずん歩いていった。
「おい、どこまで行くんだよ?」
「いいから、着いてきて」
やがてたどり着いたのは、高台にあるNヶ丘病院。
「おい、ここって」
「そう、ホスピスよ。ここに弟が入院してるの」
受付を済ませ、俺と小池は二階にある病棟へ向かった。
西病棟の一番奥、そこが小池の弟の病室だった。
「葉月」
小池が声をかけると、ひどく痩せこけたガキが振り返った。
「お姉ちゃん」
ガキの顔がぱっと輝いた。こいつが小池の弟か。
「そのお兄ちゃんは誰?」
「お姉ちゃんのお友達よ。荻くん」
「お兄ちゃんって呼んでもいいかな?」
「ああ」
小池の弟は小池に言った。
「お姉ちゃん。今日は折り紙をしたよ。鶴を折ったんだ」
サイドテーブルに、折鶴がひとつ。
「お姉ちゃんにあげるよ」
「ありがとう。葉月」
小さな折鶴は、小池の弟の命そのもののように、はかなげに見えて、俺は顔をそむけた。
少しの間、小池の弟と話をした。
「じゃあ、また明日来るね。葉月」
「うん」
小池の弟は俺に声をかけてきた。
「お兄ちゃんもまた来てくれるよね?」
「ああ、またな」

病室を出ると、小池は言った。
「医者からは余命三ヶ月って言われてる。この冬は越せないだろうって」
「そうか」
「これが私が教会へ行く理由よ」
「祈ってるって訳か。奇跡が起こることを」
「あの子が何をしたって言うのよ。何も悪いことはしていない。なのに何故死ななきゃならないの」
「人は死ぬときは死ぬし、死なないときは死なない。俺も小池もいつかは死ぬんだ」
「今のあの子にそれが言える?」
小池は繰り返した。
「荻くんは苦しんでいる人間に、本当にそれが言える?」

「お姉ちゃんはいつの季節が好き?」
小池の弟が言った。
あくる日も、俺は小池と、小池の弟の病室に来ていた。
「冬、かな? クリスマスもお正月もあるから」
「お兄ちゃんは?」
「俺も冬だ」
「みんな、おんなじだ。ぼくも冬が好き。雪が好きだ」
「クリスマスには雪、ふるかな?」
「お姉ちゃん。ぼくが空から雪を降らしてあげるよ」
小池の弟は、ぽつりと言った。
「クリスマスには、もうぼくはここにいないだろうから」
「そうよね。葉月はクリスマスには元気になって、退院してるわよね」
「ちがうんだ」
小池の弟は首をふった。
「ちがうんだよ」

病室を出ると、小池は言った。
「わかる? あの子は気づいてるの。自分の病気がもう治らないだろうって」
「そうだな。良くあることだ」
小池は俺が思ったような、クソ真面目な奴ではなかったらしい。
こいつはこいつなりの葛藤を抱えているのだ。
「だけど私が絶対に天国へなんか行かせない。葉月を天国へなんか行かせない」
「アイ•ドント•ウォント•トゥー•ゴー•トゥー•ヘブン•ナン•オブ•マイフレンズ•アー•ゼアー」
「何、それ?」
「オスカー•ワイルドの言葉だよ。私は天国へは行きたくない。私の友達はそこにいないだろうから」
「私も天国へは行きたくない。あの子をあんなに苦しめた神様のいる所へなんか」
「小池は神を信じているんじゃなかったのかい?」
「神様なんて、くそったれよ」
「はは。地獄に堕ちるな、小池」
笑いながら、俺は思った。
俺は小池の弟になんの感情も持ち合わせていないが、人一人救えない神になんの値打ちがあるものか。
俺は神を信じない。天国も信じない。俺は何も信じない。
かつて、親友と呼べるやつが一人いたが、もうそいつとは別れてしまった。
「苦しんだ人間が、無条件に幸せになれる。そんな場所がこの世界に用意されてなければ、私は嘘だと思う」
小池は言った。
「この世界にってことは、天国じゃないな? 小池は本気でそう思ってるのか?」
「わからない」
小池は首をふった。
「だけど、そうでも考えなければ、葉月は浮かばれない」
「シャングリラ、か」
「シャングリラ?」
「この世界のどこかにある理想郷のことだ。苦しみのない世界さ」
「そんな場所が本当にあるのかしら?」
「空想に決まってるだろ」
「空想でもなんでもいい。私は信じる。苦しみのない世界があることを」
こいつの目を覚まさせるのは、神でも無理だ。
「マン・キャン・ビリーブ・ザ・インポシブル・バット・キャン・ネバー・ビリーブ・ザ・インプロバブル」
「いったい何なの?」
「人はあり得ないことを信じるが、ありそうもないことを、決して信じることはできない」
「あなたは、いつもそうやって、まわりの人をからかっているのね」
小池の真面目さは、何故か俺をいらだたせる。
だから、俺は言ってやった。
「オンリー・ザ・シャロー・ノー・ゼムセルブズ」
「今度は何よ!」
「軽薄な奴だけがおのれを知る」
「もう、うんざり。勘違いしてたわ。あなたのこと」
「光栄だね」と、俺は言った。

数日後。俺が教会の前を通りかかると、小さな看板に目がとまった。
講題は「目の前の神と悪魔」。
興味はなかったが、入ってみる気になったのは、小池の顔がふと浮かんだからか。
話は予想した通り、つまらなかった。神様は退屈だ。俺は悪魔と遊んでいたい。
神父の説教が終わって、みんないっせいに帰り始めた。それでも、頭を垂れて、一人祈り続けている奴がいた。
小池だった。
「神様なんて、くそったれよ」
そう言いつつ、弟のために祈り続けている小池が、俺は気に食わなかった。

小池の弟の容体は、急速に悪くなった。
「ごめんね。お姉ちゃん」
目を開けるのがやっとで、ときどき、うわ言のようにつぶやく。
「底なし沼に落ちていくみたいだ」
そして、また目を閉じる。
「あの子は必死で闘ってる」
小池の声は暗かった。
「あの子に言ってしまいたくなるの。もういいよ、葉月。十分だよって」
「小池。なぜ祈る」
俺は問いただした。
「もうやめろ。そんなことは」
「わからないの」
小池は首をふった。
「私はあの子にいてほしいと願っている。生きてほしいと願っている」
「両親はどうしてる? 自分の子供がこんなになっているのに、なぜ顔を出さない?」
「二人とも働いてるから、夜遅くに来るわ。あの子の医療費や差額ベッド代は馬鹿にならない額なのよ」
何かを言おうとして、俺はやめた。
俺は小池にいらだっていたわけではなく、何もできないことにいらだっていたのだった。

次の日曜日。その日はクリスマスだった。
オスカー•ワイルドの「幸福な王子」を読んでいると、スマートフォンが鳴った。
「はい」
電話は無言だった。
「小池か? 小池だな?」
俺は言った。
電話の向こうから、ようやく声が聞こえてきた。
「葉月が死んだ」
小池の声は震えていた。
「死んでしまった」
「いま、どこにいる?」
「いつもの教会」
そこで電話は切れた。

教会へと俺は走った。
神父の前で、小池は祈っていた。
奇跡は起こらなかった。今さら祈って何になる! なぜ祈る! 小池!
「あの子の為にそっと泣きなさい。死に安らぎを見出したのです」
神父は言った。
「このクソ神父!」と、俺は思った。
そんな言葉が、何のなぐさめになるものか。
腹が立って、俺は教会の長椅子を蹴飛ばした。
「出ていきなさい」
神父が低い声で言った。
「ここをどこだと思っている」
俺はもう一度、長椅子を蹴飛ばして、小池の手を引っ張った。
引きずられるままに、小池は着いてきた。
外へ出ると、俺の顔に当たるものがあった。
「小池。雪だ!」
空を見上げて、俺は言った。
「雪が降ってきた!」
街は一面の雪野原になろうとしていた。小池の悲しみを、優しく覆い隠そうとしていた。
「雪合戦をしよう。雪だるまをつくろうよ」
小池の弟の声が、どこかから聞こえた気がした。
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