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第二章
何者であるべきか
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週末になった。俺はいつもより遅めの時間に起床する。
上体を起こし、思いっきり伸びをした。だが、寝起きの悪い体はなかなかベッドから抜け出そうとしない。
ぼんやりしながら部屋を眺めていたとき。ふと机の下に、赤い傘が転がっているのが目に映った。
──以前の帰り道、ボロボロの状態で駅に落ちていたあの傘だ。
あの日俺は、無意識のうちにこの傘を持ち帰ってしまった。小さく花の絵が描かれた折り畳み傘は、修復不可能なほどひどい状態だった。
彼女のものじゃないと、思っているのに。俺はなぜ、捨てずに保管しているのだろう。
たった一本の傘によって、俺はずっとモヤモヤさせられている。
「気にしても仕方ないよな……」
いつまでも考えこむのはやめにしよう。自分に言い聞かせるように、そう独り言を漏らした。
今日は十一時からマニーカフェでバイトがある。出発まで余裕はあるが、二度寝はできない。重い体をどうにか布団から引きずり出し、俺はゆっくりと支度を始めた。
母はすでに出かけていた。観光地で働く母は休日が忙しく、週末はだいたい不在である。
その代わりと言うべきか、リビングには父がいた。ソファに座り、タブレット端末で新聞かなにかを読んでいる。
とくに父に話しかけることもせず、俺は紅茶の入ったカップと朝食の菓子パンを手に、ダイニングテーブルに腰かけた。
なにげなくスマートフォンを取り出し、友人から届いていたメッセージに返信したりSNSを眺めたり、動画を見たりしながらパンにかじりつく。
リビングはしばらく無言空間と化したが、やがて父がおもむろにタブレットをテーブルの上に置き、こちらに歩み寄ってきた。さりげなく俺の向かいの椅子に座ると、顔を覗き込んでくるんだ。
「イヴァン。この前の話、納得してくれたか?」
出たよ。父の「イギリスへ帰ろう」の説得の時間が。
俺はスマートフォンを眺め続けて首を振った。
「納得するわけないだろ。俺は日本に残る」
「一人で暮らす気か? 母さんも、イギリスに帰ると言っているんだぞ」
「母さんは昔から父さんの言うことに、はいはい付いていくだけだろ。自分の意見なんてないよ。俺はこっちでの暮らし以外考えられない」
「だが、生活費はどうする? お前は進学するのか、しないのか? 将来はどうするつもりだ」
耳が痛い。
正直俺は、将来のことなんてあまり考えていないんだ。
無難に自分の学力で行ける大学を受験して、たぶん真面目に四年間通学して、その後は新卒として日本のどこかの企業に就職するものだと思っていた。
だけど、父がいきなりイギリスへ帰ると言い出すんだから驚いた。俺はこれといったスキルはないし、英語もダメ。向こうで暮らすにはリスクが高い。
なによりも祖父がいる国で暮らすなんてな。それだけは断じて無理だ。無理に決まっている!
俺は大袈裟なくらい、深い深いため息を吐いた。
「卒業後のことは自分で考えるし、自分でなんとかする。一人暮らしするためにバイトで金を貯めてみせるさ」
「高卒で就職するのか?」
「それは、まだ。決めてない」
「進学するとしたら、学費はどうする? 日本に住むなら、お前が自分の力でなんとかしないといけないぞ。まさか、奨学金をあてにするつもりか。世間はそんなに甘くはないんだ」
その父の言葉に、俺はだんだんイライラが募ってきた。
なに言ってんだ、この親父?
「偉そうに言うなよ。家族を振り回そうとしてるくせに。ずっと日本で暮らしていた息子を、無理やり母国へ連れ帰ろうしているのか? 父さんの思い通りになると思うなよ」
「イヴァン……。お前の気持ちは理解しているつもりさ。英語を話すことに怯えているんだろう? だが、いつまで逃げ続ける? 過去に囚われていては、前に進めないぞ」
「は……?」
胸がざわざわした。
父親の無神経な言葉の槍が、俺の心を突き刺してくる。
「お前はやればできる子だ。今から三年間勉強すれば、ある程度は英語力を身につけられるだろう。おれもな、お前くらいの歳から日本語を学んだんだ。なんとかなるものだぞ。不安になることはない。お前は、れっきとしたイギリス人なんだからな」
──そう言われた瞬間、全身に衝撃が走る。菓子パンの袋を握りつぶし、父を睨みつけた。
「もう、いい」
乱暴に立ち上がり、ティーカップをシンクに下げ、俺はリビングから飛び出した。
「イヴァン、待ちなさい。まだ話は終わっていないぞ!」
父の呼びかけをガン無視して荷物を持ち、俺は勢いよく家を飛び出した。
『お前は、れっきとしたイギリス人なんだからな』
父に言われたことが、頭の中で繰り返しエコーしている。
どうしても、堪えられなかった。自分で自分が面倒くさい奴だと思う。
父が言ったことは、なにも間違ってはいない。俺の血統や国籍はイギリスで、それは紛れもない事実だ。
でもな……俺が、生まれ育った場所は日本なんだ。文化も習慣も、この国の人間としてこれまで生きてきた。
だからこそ、父親の言葉は受け入れられなかった。
おかしいと思わないか? 祖父には「イギリス人のなり損ない」と言われたのに。父親は正反対のことを口にする。
自分が何者であるのか、何者であるべきなのか、時折わからなくなってしまう。気にしないようにしているのに、ふとしたとき形のない迷路から抜け出せなくなってしまうんだ。
幼い頃から今まで、そしてこれからも、俺は俺自身について悩まなければならないのか。
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