Advice-of-Work

椎名詩音

文字の大きさ
上 下
1 / 2

Advice-of-Work~僕と年上の幼馴染~1

しおりを挟む
 五月某日。
「……まぁ、改まった話という訳ではないんだが」
「はい、何でしょう?」
 僕こと、藤田雅之は昨今の禁煙風潮で肩身が狭い喫煙者仲間である僕の上司―田中課長である―と紫煙を燻らせながら、他愛もない世間話をしている際にそう切り出された。
田中課長は、バリバリのキャリアなウーマンで、二十代半ばにして業績をかわれ、課長に昇進したという豪の人だ。一目でわかる高級そうなスーツに身を包み、髪をかきあげる様は、異性は勿論のこと同性の目から見ても惚れ惚れする格好らしい。噂によると、一部でファンクラブなるものまであるそうだ。そんな彼女がまだ独身どころか、恋人さえいないのは、その相貌、様相からくる人を近づけぬオーラが原因らしい。そんな彼女と世間話をするなどという気安い関係な僕は、何も特別な人材という訳ではなく、たまたま、実家の隣が田中課長の実家であるという完全無欠な幼馴染というやつであるためだ。入社した直後、見知った顔が居ることにも驚いたが、一番驚いたのは彼女の人気にだった。新入社員は研修関連で研修室に入り浸りな上、田中課長本人も会議や、出張で席を外していることが多いので、社内でたまにすれ違うと、同期の野郎連中は色めき立ち、女子社員からも黄色い声があがるという一種のカリスマ上司といった立ち位置なのだった。そんな人気を誇る彼女と一般社員よりは近しい位置に居る僕との関係を知るものはおらず、自然我が身を案じ、あまり近づかないようにしていたのだが、ついに先月中旬に喫煙室でばったりと出くわしてしまったのだった。
『……お前、私を避けているだろう?』
『……そんなことは、ありませんよ』
 開口一番にそう言われてしまい、言葉を濁しながらも言い訳をしたのを、彼女がどう受け取ったのかは知らないが、喫煙室利用者が極端に少ない(田中課長の更に上の上司が数名利用する程度)ことも手伝って、喫煙室に居るときだけは、『良子さん』と『雅之』と相成ったのでした。
 閑話休題。
「私が、今度担当するプロジェクトに関する話なんだが……そこまで大きいものじゃなくてだ。丁度いいから、新入社員育成も兼ねてはどうか、と上からのお達しでな」
「はぁ、なるほど。良子さんも大変ですね。頑張ってください。すいませんが、僕はちょいとキジ打ちにでも」
 嫌な予感がするので、トイレにでも逃げ込もうと喫煙室を出かけたが、良子さんのすらりとしたモデルのような足が、僕の進行を妨害する。
「まぁまぁ、膀胱だろうと大腸だろうと、我慢させとけばいいさ。それよりも、一本めぐんでやろう。私が雅之に奢ってやることなんて滅多にないぞ? 良かったなぁ、雅之」
「は、はぁ、それじゃぁ、遠慮なく一本」
 良子さんとは同じ銘柄―良子さんの喫煙姿に惹かれて吸い始めたため、同じで道理―なので、特に躊躇もなく受け取る。
 口に咥えて、ライターを探すが、ポケットからライターを取り出す前に、良子さんが火を点けてくれた。なんだろう、至れり尽くせりだ。
「……ふぅ」
 同じ銘柄なのに、人からもらった煙草は上手いような気がする。
「……吸ったね。じゃぁ、私の仕事を手伝ってもらおうか」
 ジジ、と煙草の燃える音が耳に届く。いやね、もう分かっていたことだけどさ。


「ふぅ……相変わらずだなぁ、あの人は」
 とぼとぼと、喫煙室を後にし、研修室に戻る。『追って詳細は知らせる』とのことだが、僕はまだ研修中なんだけどなぁ、いいのだろうか?
 驚いたことにまだ、始業時間前なのである。何というか、のっけからお家に帰って寝てしまいたいほどの疲労感だ。
「まぁ、りょ……課長のことだし、何とかなる……何とかするんだろうけど」
 一度言い出したら聞かないしね。研修室に戻る前に呼び方を直さないと……。ファンクラブに聞かれてしまった日には、僕は新入社員なのに窓際族というしょんぼりな立ち位置になってしまうだろう。
 研修室に戻ると、始業前にも関わらず、何だかざわめいていた。もうすぐ、始業だというのにどうしたというのだろうか?
「あ、藤田君。ちょっと聞いて聞いて!」
「ど、どうしたのさ、荒木さん……」
 いつも賑やかな荒木さんだけど、今日は5割増の賑やかさだ。僕は、その賑やかな同僚の隣に座る。
「何かね、あ、私たち今日から、研修期間終わって、それぞれの配属が決まるじゃない?」
「……あぁ、そうだったね、忘れてた」
「お前、大丈夫か? 今日から完全にデスクワークだってのに……ミスしたら、置いてかれちゃうぜ?」
 やれやれ、とアメリカライクに肩をすくめる荒木さん逆隣りは同期の土井君だ。内定者懇親会から仲良くなった飲み仲間でもある。
「うーん……そうだね、頭切り換えなきゃ」
「でも、藤田君は何かと効率いいから大丈夫だよ、きっと」
「そうなんだよなぁ、お前試験前とかでも焦らない学生だっただろう?」
「……うーん、そう、なのかなぁ」
 急に持ち上げられても、誉められなれていないから、上手く対応出来ない。
「ん? 何でそんな話になったんだっけ……? あ、そうだ! 藤田君の性格はどうでもよくて!」
「………………」
 本人の前でどうでもいいは、いかがなものだろう。
「今回の配属の如何によっては、田中課長と同じ机で働けるかもしれないのよ! あぁ、企画部希望で入社出来て良かった!」
 流石に同じ机はないだろう、などという野暮な突っ込みは置いておいて。なるほど、ここに居る僕たちは、入社時に企画部を志望した奴らが大半だ。配属云々によっては、田中課長の課に配属されることもあるだろう。確かに、田中課長ファンの彼女が色めき立つのも無理はない。見ると、彼女以外にも時折黄色い(一部野太い)声を挙げながら身悶えている同期がちらほらと見受けられた。
「何でも噂によると、新規のプロジェクトがあるらしくてね! 勿論、プロジェクトリーダーは、田中課長なの!」
 夢見る乙女のような表情でうっとりと、荒木さんはここではない遠い所を見上げている。ていうか、その情報のソースはどこなんだろう?
 そんな荒木さんを見て土井君はまたもや、毛唐のように肩をすくめている。これは彼の癖だったり。
 ……ん? プロジェクト?
 ……何だか、数分前に同じようなことを?
「あの田中課長と一緒に仕事出来たら幸せよね……」
「そ、そうだねぇ……」
 僕は夢見る夢子さんに適当な相槌を打っておく。何故なら僕の脳内は、メダパニカーニバルの真っ最中だからだ。
「ん? どうした、藤田? お前はあぁいうの好みじゃないのか?」
「へ? な、何がだい? 土井君?」
「土井でいいって言ってるのに……いや、田中課長みたいのは好みじゃないのか、って話さ」
 ムキィ、そういう目線で見ないでよ! なんて、荒木さんが文句を言っているが、まぁまぁなんて土井君は上手くあしらっている。なるほど、荒木さんは背が低めだから、頭に手を載せて突っ張ると攻撃が届かないのか。
「か、考えたこともなかったなぁ……」
 田中課長が好みの女性かどうか、なんてことは短い人生の中でもあまり脳内において議題にあがったことはなかった。皆無といってさえいいだろう。……何故って、前述のやりとりでお察しいただけるとありがたい。
「そういう土井君はどうなのさ?」
 周りに比べるとひどく冷静に見えるけど。
「ん? 俺か? んー、好みではあるが……(ここで、荒木さんは掴みかからんばかりに勢いを増したが、土井君はバレーボールでも持つかのようにしっかりと五指で掴んだ上に、肘関節を伸ばしているので荒木さんの攻撃は依然無駄に終わっている)……あの、存在感に圧倒される方が大きいかな」
「……なるほど」
「それが、田中課長の凄い所なのよ!」
 えっへんと、土井君の五指を振り払い、何故か自分のことのように胸を張る荒木さん。張る胸の大きさが平均よりも若干下回るのが物悲しさを誘う。
あーだ、こーだ、とその後も荒木さんの話は止まらなかったが、僕は考えることが山積みなので適当に、土井君はおきまりのリアクションで相槌を打っていたが、そこでベルが鳴った。お喋りを止め、粛々と担当が来るのを待つ間もなく、田中課長が研修室に入ってきた。相変わらず時間に正確な人だ。
「お早うみんな。今日も一日頑張ってもらいたい」
簡潔に朝の挨拶を済ませる課長。チラリと荒木さんを見ると、瞳がキラキラしていた。最早、アイドルのような位置付けなんだろうなぁ……。
「さて、今日付けで諸君は各方面に配属される。説明するまでもないが、企画部とはいえ各課が多様に展開しているため、各人の希望と選考、研修の結果等で各人を振り分けた。どの配属先でも遺憾なく励んでくれ。それでは、これから配属先の発表を行う」
 なるほど。土井君が圧倒されるのも頷ける気がする。簡潔な言葉に、どことなく精悍な口調。あれでは、近づけない雰囲気というのも分かる気がする。
「荒木。君は、企画部広報事業課に配属だ。私が課長の田中だ、よろしくな。そして、これが辞令だ」
「ハ、ハイ……っ。よ、よろしくお願いしますっ!」
「うん、元気があっていいぞ。よろしく頼む。次、石渡……」
 次々に、名前と辞令を発表していく田中課長。心にくいのは、発表と同時に配属される課の課長や特徴をさりげなくセットに言うところだ。まだ、不慣れな社内で、知りたい情報を先んじて教授してくれるのは非常にありがたい。こういう所に彼女の優しさが込められている。
「……次、土井。君は荒木たちと同じく、企画部広報事業課だ。よろしく頼む」
「う、うっす……」
「……土井。その体育会系の返事は社会じゃ通用しないぞ? 以後、改めるように。はい、辞令だ」
「う、は、はい……」
 こうなると土井君も形無しだ。小さくなってしまった土井君は、荒木さんににやにやと笑われてしまっている。その後何人か呼ばれた後、僕の番になった。
「……藤田。君は、土井たちと同じく企画部広報事業課に配属だ。……肩身が狭い喫煙者同士仲良くやろう、よろしく頼む」
「あ、はい……」
「うん、辞令だ」
 受け取った辞令にも『企画部広報事業課に配属とする』と書かれている。なるほど、田中課長の元に配属か。となると……
「……辞令の発表はこれで終わりだ。諸君、速やかに各課に移動し、各課の担当の指示を仰ぐこと、以上だ。企画部広報事業課に配属されたものは残ること」
『ありがとうございました!』
 わらわらと研修室を出ていく我が同期達。少しだけ寂しい気もするが、まぁ、コミュニケーション機器が発達した昨今は、メールなり電話なりすれば会える訳だし、同じ社内だし。
『(ちょんちょん……)』
「ん?」
肩をつつかれて振り向くと、満面の笑みの荒木さんと如何にも「へっ」と鼻で笑う土井君が居た。まぁ、この面子と離れ離れにならなかったことは僥倖だろう。
「……という訳で諸君、お疲れ様。改めて、企画部広報事業課の課長の田中だ。よろしく頼む」
『よろしくお願いします!』
「よし。では、課に移ってからさらに細かい振り分けだ……」


「偶然ってあるもんなんだなぁ……」
「さすがに、俺も驚きを隠せないぜ……」
「やったやった! きっと神様が私の日ごろの行いを評価してくれたんだわ!」
 全員で九人の広報事業課だったが、僕たちは揃いも揃って、田中課長が主任を兼任する一班だった。狂喜乱舞する荒木さんは言うまでも無いことだが……これって、私情じゃないよね?
 ちなみに九人の内、荒木さんを含めた4人が田中信者だったり。
「荒木に土井に藤田か。ふむ、元気の良さはどの課にも負けない面子だな。だが、果たしてデスクワークはどうかな?」
 にやり、と笑う田中課長。剣呑剣呑。
「い、いえっ、精一杯頑張らせていただきますっ!」
「うん、期待してるぞ荒木。こら、君らもちょっとは気合を見せないか」
「う……は、はい。精一杯努めさせていただきますデス」
「み、右に同じく……」
「……全く、男共は先が思いやられそうだな」
 ふぅ、と溜息を吐く田中課長。何だか分からないけど、僕の脳内には前途多難という四文字が浮かぶのだった。


そのまま、午前は新しく用意してもらった机に座りながら、今後の業務についてのレクチャーを受けた。一班の先輩方に自己紹介等を済ましたり、逆に自己紹介を受けたりしつつ、田中課長の講義形式で話は進んでいったが、何だか学習塾のようだった。
「何だか、一杯覚えることがありそうだよ……」
「うぅ……この書類は……あれ、この書類は何だっけ!?」
「燃え尽きたぜ……真っ白に……」
 配布資料は、両手一杯。広報事業課の仕事云々、年間の予定云々、決算数字&その他数字云々。決して僕の脳内キャパシティは高い方ではないので、既に頭はフリーズを起こしかけている。流石に、荒木さんも気合ではどうにもならない量なのか、目を白黒させている。土井君に至っては、フリーズして明日のジョー状態だ。午前中で燃え尽きるなんて、午後は一体どうなってしまうんだろう。
「まぁ、流石に全部覚えろとは言わないよ。私にしても数字は細かいところまで覚えている訳ではないしな」
 田中課長は、アップアップな俺たちを見て苦笑している。ということは、数字以外は覚えているということである
「よし、新人は午前はここまでだ。昼休憩の後、この場所に最集合」
「あ、ありがとうございました!」
「ようやく、昼かい……うぉ、首があり得ない音を……!」
「いやはや、疲れたなぁ……」
 みんな思い思いの言葉を発しつつ、周りを見やると、まだ、他の班は終わっていないようだ。頃合いを見計らって皆で昼食にでも行きますかね。そう思い、鞄から財布を取り出す。
「あ、藤田は残れ」
「…………へ?」
「藤田には、新規事業のプロジェクトを手伝ってもらう。よって、午後は別枠で動くから、今日の予定を伝えるので、残りなさい」
「……はい」
 あぁ……やっぱりか。財布を机の上に置く。多分、昼食は食べられないだろう。
「か、課長! 何で藤田君だけなんですか!? わ、私も……!」
荒木さんが鼻息も荒く課長に詰め寄る。まぁ、あれだけ、朝から田中課長についての熱意を聞かされたから僕らはあまり不思議に思わないが、先輩方は『おぉ……今年の新人は熱意があるねぇ……』などと、驚いている。流石の田中課長も苦笑いで応じる。
「……荒木、君の仕事に対する熱意はかう。それは、とても大事なものだ。しかしだな、人間には向き不向きがあるのも事実だ」
「う、む、む、向き不向きぐらい根性で何とか……」
 荒木さんも食い下がるが、如何ともし難い表情で田中課長は続けた。
「荒木。再三言うようだが、これは仕事だ。根性論で結果が出たのは、古い世代だよ。それとも、荒木、朝から晩まで書類整理に明け暮れたいか? 研修の内容を鑑がみるに君は、書類整理は苦手なようだが……」
「うぅ……」
「その点、藤田は修士課程での経験が物を言うのか、能力的に問題はない。……荒木の能力が低いと言っている訳ではないぞ。君の秀でている能力を生かした場面で活躍を見せてくれ」
 諭すように田中課長は続けるが、ということは、僕に与えられる仕事って朝から晩までの書類整理なのだろうか?
「…………はい、違うところで頑張ります」
 ガックリと荒木さんは肩を落としながらそう言った。やるせない顔つきで溜息を吐いているが、ふと何かに気がついたように、顔を上げた。
「……ん? てか、修士課程ってことは藤田君年上なの!?」
「……へ? あぁ、言ってなかったっけ? 僕は博士課程前期を出てるから二十四歳だよ」
「え、うっそ……! タメだとばっかり……」
「ちなみに俺も二十四だぞ?」
「え、え、え? じゃ、じゃぁ、私だけ年下なの!?」
「……マジで? 土井君タメ年なの?」
「おぅ、だからタメ語でいいって言ってんじゃん。ま、俺は一浪、一留だから四大卒だけどな」


『――という訳で、手伝ってもらうぞ。じゃぁ、一旦休憩』
 という、田中課長の号令の下、終わったと見られる他の班の同期たちと荒木さんと土井君は昼飯を食べに行ってしまった。そういえば、僕の昼飯はどうなるんだろう?
「ふむ、では、午後の予定を伝えようと思ったんだが、先ずは一服しないか?」
「あぁ、いいですね。行きましょう」
 と、僕と田中……良子さんは、喫煙室に向かった。
 喫煙室は誰も使用しておらず、良子さんと二人きりだった。
「ふぅ……どうだ、配属されてみて覚えるべきことは死ぬほどあっただろう?」
 肺に溜まった煙を吐き出しながら良子さんはにやにや笑って言う。
「……文字通り致死量ですね。覚えきれるかなぁ」
「覚えてもらわなきゃ困る。別にテストがある訳じゃないが、プロジェクトに参加してる奴が、基本を覚えてないなんてことになると、お前への風当たりは強いものになるぞ?」
「うぅ……はい、善処します。ところで、良子さん」
「ん、何だ?」
「本当に、その、僕の仕事って朝から晩まで書類整理なんですか?」
 いや、仕事だって言うならやりますけど。能力の高さを買われたのは嬉しいが、それだって別に得手としている訳では……。
「あぁ、そのことか」
 良子さんは、ふふっ、と苦笑しながら煙を吐き出した。
「アレは、荒木を抑えるための方便だ。実際に書類整理が仕事となることもあるだろうが、何もそればっかりという訳ではないよ。……あの熱意は買うがな、彼女仕事に対してやる気に満ち溢れている。今からあぁでは、いずれ、ちょっとガス欠になるかもしれないからな」
 なるほど、先の事まで考えているのか。しかし、あの熱意が自分に向けられていることまでは……何だか良子さんらしいや。
「ま、それに、私だってやりやすい相手というか……気の置けない相手をメンバーに選んでもいいだろ?」
「………………」
 その、微笑みは、反則、では?
「ん? 何照れてるんだ? ホラ、吸ったらとっとと行くよ」
「へ、あ、は、はい……」
 良子さんは振り向きもせず、喫煙室の扉をくぐろうとしたが、
「先ずは、昼食をとろう、今日は奢ってやる。予定はそのときに話すよ」
 そう言って少しだけ歩調を緩めてくれ、僕たちは揃って喫煙室を出て、食堂に向かった。


 良子さんは、A定食(天ぷらうどんと稲荷ずしが二つついたやつ)を、僕はB定食(野菜炒めと味噌汁にご飯)を持って、食堂に陣取る。少々ご飯時とずれていたため、食堂に居る人はまばらだった。
 そんな中、僕たちはちょい遅めの昼食を取る。
「午後の予定は、外回りに付いてきてもらう」
 ずぞぞ、と豪快に良子さんは、うどんを啜る。年頃の女性がそんな食べ方でいいのか、とも思うが、それでこそ良子さんらしいといえば、良子さんらしい。
「外回り……ですか?」
「あぁ、名刺は作ってあるだろう? 今後、印刷会社との間を行き来してもらうこともあるし、早めに、顔を売っておこう」
「なるほど……」
 昼食を食べながら、外回り先の情報や、豆知識、訪問する際の心構えなどを聞いた。研修のときも思ったが、良子さんの説明はとても聞きやすいし、頭に入ってくる。何だか、やたらと出来る気がしてくるから不思議だ。
 二人で、ごちそうさまをして下膳し、僕と良子さんは外回りへ向かった。電車移動かと思ったら、何と良子さんの車での移動だった。良子さんの車は赤いインプレッサ。そこはかとなく醸し出されるスポーティな感が良子さんにぴったりだった。
「いいですねぇ、インプレッサですか。僕も車買おうかなぁ……」
「ん? 何だ車欲しいのか?」
「まぁ、今まで特に欲しいとは思いませんでしたが、こうも颯爽と乗られると、僕も少年の心がうずうずと沸き起こってきますね」
 景色が流れる様を見てときめかない男はそうそういないだろう。
「ふふ、雅之も男の子なんだな。でも、車買うならスポーツタイプはやめときな。燃費が悪くて敵わない」
 サングラスをかけた良子さんは、苦笑しながらアクセルを踏む。瞬間、グォン、と唸るエンジンに僕の心も高鳴る。うーむ……本当に検討しようかしらん。
 そんなこんなで車内では割とはしゃいだ僕であったが、そこはそれ緊張の裏返しだった。だって、社内すらまだ慣れていないのに、社外の人間に会うんだよ?
『――企画部広報事業課の藤田雅之と言います。以後、よろしくお願いいたします』
『こっちは今年度新卒で入社しました藤田です。今後、私か、この藤田が、こちらにお邪魔することになると思いますので――』
・・・・・・・・・
・・・・・・
・・・
「つ、疲れた……」
 最後に訪れた印刷会社を出て良子さんの車に乗るやいなや、緊張が解けたのか、どっと疲れが身体えを襲った。時刻は、午後四時五十分。時間的にも、今日の業務は終わりだ。
「はい、お疲れ様」
「……あ、良子さん、ありがとうございます」
 良子さんの手には、冷たい缶珈琲。買ってきてくれたようだ。こういう優しさ身に沁みます。
「結構疲れてるね、顔に出てる」
「……顔どころか、全身からも滲ませられますよ」
 違いない、と笑いながら、エンジンを回し、発進させた。缶ホルダーに入れた缶珈琲の表面に水滴が滴っている。
「フー……まぁ、精神的なものだろうから、慣れれば大丈夫さ。というか、何れ否が応でも慣れる」
「だといいんですけど……」
「大丈夫、先輩の実体験だ。あ、煙草吸って構わないぞ。灰皿はここだ」
「あ、どうも。それじゃ、お言葉に甘えて」
 僕も一本取り出し、ジッポで火を点ける。否が応でも慣れるねぇ……その前に余裕を持って慣れたいものだが。
「うん、今日は直帰でいいだろう。雅之、会社に置いてきたものなんかあるか?」
「いえ、全部鞄の中に入ってます」
「よし、じゃぁ、今日は終わりだ。送って行ってやる」
 ~♪ と、何だか上機嫌なのか、良子さんは鼻歌交じりにステアリングを握っている。
「しかし……疲れた何だと言う割には、初対面の挨拶はしっかりと出来ていたじゃないか。少しだけ驚いたよ」
「へ? あぁ、そうですねぇ……元々、初対面の人にも抵抗は少ないんですが、修士課程で色んな人に会う機会があったんで、それが良い経験になってるんでしょうねぇ」
「へぇ……そんなものか。何だ、物怖じしてるようなら尻でも引っ叩いてやろうかと思ってたのに」
 ニコニコと笑みを湛えながら良子さんは言うが、言っていることは極悪だ。どちらかと言うと、貴女の方に物怖じしそうです。
そんなこんなで他愛もない話をしながら、窓を流れる景色を見ていると、減速しながら停車した。何だか、見覚えのある景色?
「ホラ、着いたぞ」
「そう言えば、良子さんに行き先を告げた覚えが……って、実家だ!?」
「全く、寝ぼけてるのか? お前とは幼馴染なんだから、行き先を告げなくても分かるに決まってるだろう?」
 馬鹿だなぁ、なんて言いながら笑っている良子さん。いや、あの……ねぇ?
「あー、すいません、言い忘れてましたが、僕今一人暮らしをしていてですね」
「うん? それで?」
「えっと……今のお家は、ここから三駅ほど離れたターミナル駅の近くで……」
「……で?」
 段々と、良子さんの目が据わっていくのが分かる。え、ていうか、僕が悪いの?
「その……あの、ですね、何だかたまには、実家に帰るのもいいんじゃないかなぁ、なんて……」
「……それだと私が脅しつけたみたいじゃないか」
 ジッと睨みつけるように俺を見る良子さん。つ、痛恨の選択ミス……!
「ハッハッハ……」
 もう、笑うしかないよね。
「……た、たまには食事なんてどうです?」
 こ、この選択肢ならどうだ!?
「ふぅ……まぁ、雅之がそう言うなら吝かではないが、素直に自宅に届けろと言えばいいのに。そもそも私のミスなんだから。雅之の課題は主体性を持つことだな」
 僕が食事に誘うと、良子さんは溜息を吐いて、プンすかと怒り、ブツブツと溢すというアクロバティックな顔面を披露しながら、夕食を承諾してくれた。……今更言っても栓ないことだけど、そもそもこういう性格にしたのは、貴女なんですが、などとは口が裂けても言えなかった。
「……ブツブツ言っていても仕方あるまい。よし、行くぞ。ホラ、降りろ」
「へ? 行くってどこに? ご飯を食べるんじゃないんですか?」
「あぁ、だから家で食べよう」
しおりを挟む

処理中です...