グロビュール

棚引日向

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1 砂

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 いまでは一つになっている大きな国が、まだ幾つもの小国に分かれていた頃。いずれの国も、ある時は隣国同士で小競り合いをしたり、ある時は連合軍を組織して大がかりな侵略戦争をしたり、またある時は名ばかりの盟約を結んでほんの一瞬の平和を得たりしていた。一体何のための争いであり、和睦であるのか、実際に戦場で殺し合いをしている兵士や、後に残された女性や子供たちには、分かるはずもなかった。恐らくは一部権力者の私利や名誉のためなのであろうが、それとて、先刻よりも名が上がったとか、前日よりも財産が増えたとか、そんな刹那的な状況の変化があるのみで、少しばかり長い目で見れば、どんな階層のどんな人間も、程度の差こそあれ、みな疲弊して擦り減っていく一方だった。
 この時代、広い視野と高い視座と、そして自らの人生よりも長い時間の意識を持った者など、皆無に等しかったのだ。
 何度目かの徴兵で、農作業を中断させられて戦場に駆り出された高鵬ガオペンも、もちろんその一人だった。

 視界のほとんどは砂塵だった。人と馬と、馬の牽く戦車が、地面にへばり付いている砂を、無理やりに、そして執拗に引き剥がしては真夏の空中へ放り投げている。
 高鵬は、砂が飽和したようなその空気の中を、ただただ夢中で走っていた。雨がいつ降ったのか、彼の記憶にはっきりとしたものはない。
「やあい、そこのあんた」
 脇から声が聞こえたが、よそ見をする余裕もなく、彼は走り続けていた。
「ほら、そこのあんただよ。妙なものを身に着けている、あんただよ」
 戦場らしからぬのんびりとした声に促されて、ひょいと見ると、左に並んで走っている小男が、顔を高鵬の方に向けたまま器用に走っていた。
「何か用か」
 荒い息のまま、何とかそれだけ答えた。
「いやあ、鎧の下に妙なものを着ていなさるようだから、気になってなあ」
 立派な体格に恵まれた高鵬でも進軍の速度に付いていくのがやっとなのに、彼よりも年かさの小男は、いやに軽々と走っている。その上、息も上げずに話しかける口調を聞いていると、まるで下半身と上半身が別の生き物のようだった。
 進軍速度は、馬が牽く戦車が基本なので、歩兵が付いていくには全速力でもまだ足りない。
「今でなければならないのか?」
「へっ?」
「その話は、走りながらしなければならないのか、と聞いている」
 高鵬は、精一杯の虚勢を張って、なるべく太い声で問い返した。
「そんなことはねえけどよ。気になり出すと我慢できねえ性質たちなんでよ。取り込んでるようなら、後にするわ」
 その場所で懸命に走っている者の中に、取り込んでいない人間などあろうはずはない。何を惚けたことを言っているのだろうか、と高鵬が考える間に、どういうわけか小男を含む一隊は、彼からどんどんと離れていった。

 何度か太鼓が叩かれ、鉦が打たれた。その度に前進したり方向転換したりしているうちに、高鵬の意識の中には、小男との短い会話の居場所などなくなっていった。
 その日の彼の部隊は、それまでの何日かとまったく違う経験をしていた。高鵬には、ただひたすら走るだけのようにしか思えなかったものが、いきなり敵軍と交戦し始めたのだ。大きな刀を持たされてはいるが、鍬や鋤しか使ったことのない高鵬は、敵と切り結ぶことなど想像もしていなかった。戦争なのだから、敵と遭遇しない方が不自然であったのだが。
「わー、あー」
 立派な体格にもかかわらず、大声を上げて泣きながら刀を振り回す高鵬は、しかし気付かぬ者には、勇者のように見えなくもなかった。敵とて、大半は彼とさして変わらぬ嫌々連れてこられたにわか兵士だった。向かって行くとしても、なるべくは弱そうな者に、というのが当然で、高鵬に近づく者はほとんどなかった。
 ところがたまたま足を滑らせた敵兵が一人、どうぞ切ってくださいとばかりに高鵬の目の前で倒れ込んだ。恐ろしさのあまり思わず振り下ろした刀が、敵兵の首に当たった。大きいだけのなまくらが、グギッという嫌な音を立てた。骨に阻まれてなかなか首は落ちない。ガッ、ギリギリ、ゴッゴゴ。腕の悪い兵士に首を断たれそうになっている敵兵は、意識があれば、さぞ苦しかったことだろう。
「あ、あー」
 高鵬は泣き叫びながら、繰り返し刀を振り上げては力任せに首に打ち付ける。何度目かで、たまたま都合の良い箇所に刃が入り、首があっさり胴体から分離した。吹き出す赤黒い血しぶきが地面に辿り着くと、砂はまるで待ち望んでいたかのように勢いよく、そして貪欲にその液体を飲み込んでいった。
 驚いたことに、その首は敵の小隊長のものだった。
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