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希望に光る蝶
32.
しおりを挟む「ハッ……!」
おぞましい感覚がして目が覚めた。心臓がバクバクとうるさく、落ち着いて息が出来ない。
(気持ちわりい、夢……)
そのまま天井を見ていればまたあの夢に囚われてしまいそうで、振りきりたくて横向きになる。身動きをして知る。髪にも顔にも背中にも、酷い寝汗をかいていた。
(なんだって、あんな夢見ちまうんだよ)
夢に見たのは、枳殻がまだどうにか生きていた頃の記憶だった。あれから――、あれから数日して枳殻は死んだ。傷口から何か悪いものでも入ったのか、死の間際には血を含んだ咳と嘔吐を繰り返していた。足は腐敗し、頬は痩けていた。異臭に虫が寄った。払っても払ってもキリがなかった。とても、美しいとは言えない最期だった。
思い出す。俺を呼ぶ掠れた声も、骨張った手に感じた弱さも。
「う、おぇ……」
腹の中で押し殺した強烈な吐き気まで呼び起こされる。上ってくる胃液が喉を焼く。そのくせ口を開いても外に出てこようとはせず鼻を鋭く刺すだけだから余計に気分が悪い。
(せめて橘の……)
心臓は未だ喧しく胸を打つ。立ち上がればじわじわと視界が眩んで、目を閉じてしゃがみこんだ。
ふぅー、とゆっくり息をする。悔しいが、掛長に仕込まれた対処法がしみついていた。
目を開ける。落ち着いたのを確認して、壁に手をつきながら立ち上がる。もう一度ゆっくり息を吐いて肩を回す。そして、襖を開けた。
重怠い体を引きずりたい気持ちを奮い立たせて足を動かす。階段を下りていく。いつも通りを心掛ける。体に負けたら、もう、生きることさえ放棄してしまいそうな自分が居た。
「牡丹、おはよう」
居間の卓袱台には二組の碗が伏せられており、少し焦げた目玉焼きが並んでいた。土間に立っていた牡丹は俺の声に振り向いて、割烹着で手を拭ってから駆け寄ってくる。
割烹着は橘がくれた物だ。真新しい白が牡丹色の着物によく合っている。
抱きつこうとする牡丹の肩をそっと止めて、俺は誤魔化すように牡丹の髪を撫でつけた。牡丹は気持ち良さそうに目を閉じて、それから卓袱台の方を指差す。
「ああ、飯か。先に食べてな。俺は……。もう夏だな。寝汗が酷くて。ちょっと水浴びしてくるから」
牡丹の肩を二度ほど叩いて、一人、勝手口から外に出る。夏の始まり。風は無く、ただ若い日差しがやけに明るかった。
井戸で水を汲む。小川も遠くない所に流れてはいるが、そこまで歩くのが面倒だった。
「……はぁ」
しかし水汲みも体力を使う。横着せずに小川に身を投げたほうがいくらかよかったかもしれない。どうせ足首程度しかない浅い川だ。仰向けに寝転がれば、黙っていても全身洗い流されたかもしれない。
ザンブと桶の水を被る。ポタリ、ポタリと髪の先から雫が落ちる。やはり一杯では足りなくて桶を戻した。もう一度水を汲んで、被る。足りなくて桶を落とす。何度繰り返しても、気持ち悪さは消えなかった。
「ああー」
手拭いを忘れた。持ってきていたところで懐に忍ばせたまま一緒に濡らしてしまっていたような気もするが、濡れたままでいるのは苛々する。
髪をかきあげたその勢いのまま後ろに倒れこんでしまおうかとして、ポスッと何かが頭を受け止めた。見上げれば牡丹が泣きそうな顔で立っている。受け止めてくれたのは牡丹の腿だったかと気づいた時には、バサリと頭に手拭いを被せられていた。
回り込んで牡丹は俺を跨ぐように座り、ごしごしと髪を拭ってくれる。小さな手が温かくて思わず涙が浮かんでしまう。
「優しいな、牡丹は」
どうにか微笑んでそう言えば、牡丹は手拭いごと俺を引き寄せて抱きしめた。華奢な肩に頭がスポリと収まってしまう。
「濡れちゃうよ、牡丹」
キュッと強く背に回る腕に、体を離すことも抱きしめ返すことも出来ない。トン、トン、と背中を叩いてくれるのが優しいから苦しくて、
「ありがとう」
と俯いて顔を埋めるのが精一杯だった
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