こもごも

ユウキ カノ

文字の大きさ
上 下
27 / 30
9.いちばん大事

9-②

しおりを挟む
「ここにきたってことは、聞いた? 里恵ちゃんが長崎いくって」
「……え?」
 理解が、できなかった。雪が降る。天地がひっくり返る。わたしが願わなくても、ほんとうにそれが起こってしまったかのような錯覚に陥る。
「もしかして、知らなかった?」
 真登が焦りを声ににじませる。手にしたままだったスマートフォンを、つよく、つよく握りしめた。
「川上さんの仕事の都合で、今月引っ越すって。お店も辞めるって」
 川上さん、という名前が、一瞬、だれのものだったか思いだせなかった。川上さんてだれだっけ。記憶の糸をたぐり寄せて、胸のなかの、ずっとしまいこんでいた扉を開けたとたん、情報が一気に濁流になって私を飲みこんだ。
『まゆがいちばん大事だから、いちばんに伝えたかったの』
 ゆらゆら揺れる里恵ちゃんのカフェオレと、わたしのロイヤルミルクティー。
『体調を崩してたときに、ずっとそばにいてくれたひとでね。あのときの姿見られてたら、もうなにもこわくないかなあって』
 頭に浮かんだ、溶けた時計の彫刻。
『里恵になら、自分の変なとこ、ぜんぶ見せてもこわくないって思ったんだよ』
 川上さんの、めがねの奥の瞳。
 胃のなかにはろくなものは入っていないのに、吐きだしてしまいそうだった。こんなに重要なことを、いままで忘れていたなんて。自分の都合のいいように、すべてを解釈していたなんて。
「大丈夫かよ」
 身体を折り曲げたわたしの背を、真登のおおきな手がさする。そんなふうにされると、よけいにおなかのなかからなにかが出てきそうだ。真登の声のほかは、世界から一切の音が消える。
「里恵ちゃんのことだから、まゆにはいちばんに知らせてると思ってたんだよ」
 真登のことばに悪意はない。ないのはわかっている。でもいま、わたしにとって最も残酷な台詞がそれだった。
 知らされていなかった。『いちばん大事』なはずのわたしには、なんにも伝えてくれなかった。連絡すら取ろうとしてくれなかった。長崎という場所の遠さが、想像できなくてめまいがする。今月引っ越す? 今月は、あと数日しかないのに? そんなわたしのどこが、里恵ちゃんにとって『いちばん大事』なんだろう。
「なんで、なんで……っ」
 心がぐらぐらと揺れる。姿勢を保っていられなくて、ひざのあいだに上半身を挟みこんでうめく。このままちいさくなって、縮んで、存在そのものが消えてしまえばいいのに。そう願って身体をまるめるたび、筋肉が、骨が軋んで、この願いは叶わないのだと身体が悲鳴をあげる。
 声にならない声が、ずっと口から漏れていた。口を開いていないと、おなかのなかでどろどろした感情が溜まって、溺れてしまいそうだ。
 真登がとなりにいることなんて気にならなかった。高卒認定のことを伝えたい。そう思っていたはずだということも、もうどうでもよかった。
 風だけが、わたしたちふたりのあいだを抜けていく。お互いの呼吸の音も聞こえない。
「まゆ……」
 上から声が聞こえたかと思うと、悪寒に襲われていた身体があたたかくなった。顔をあげなくてもわかる。真登が、わたしを抱きしめている。
「いいじゃん、おれがいれば。おれは、まゆが好きだよ」
 わたしよりももっとずっと、泣きだしそうな声で真登が言った。聞いているこっちの胸が引き裂かれるような、痛みに満ちた音だった。
「なんで、おれじゃだめなの」
 真登がわたしとおなじ問いをくり返す。わたしだって、教えてほしい。
 どうして、どうしてなんだろう。わたしが大切に、知られないように心に秘めていた気持ちを、どうして里恵ちゃんそのひと以外が気づいてしまうんだろう。どうして、里恵ちゃんには届かないんだろう。
 真登の腕にちからがこもって、息ができないくらい苦しかった。でもその苦しさは、真登がいま感じているものと近いのかもしれないと、肩にあたる熱い息を感じて思う。
「ま、さと」
 真登は、いつもやさしかった。わたしが痛くないように触れ、哀しまないように話しかけてくれた。そのやさしさは、泣きたくなるくらいやわらかく、わたしの心をえぐった。だからこんなふうに、真登の叫びのような思いに傷つくことはなかったのに。
「なあ!」
 揺さぶられても、なにも言い返すことができなかった。真登がだめじゃなんじゃない。わたしが、だめなのだ。自分のことしか考えられない、浅ましいわたしがだめなだけだ。
「まゆは昔から里恵ちゃんばっかじゃん。里恵ちゃんが結婚したら、今度はえるのえるのって」
 真登は、もうほとんど泣いていた。ことばがことばとして形を持っていない、気持ちだけが音になったみたいなそんな声で、わたしの皮膚に直接叫んでいる。
 このひとを好きになれたら、どんなにしあわせだっただろう。全身が訴える。「わたしも真登が好き」。そう言ったら、もうなにも考えなくていい。だけど、どうしても声にならなかった。
 こんなに好きでいてくれる真登にあげられるものは、わたしの時間だけだった。それを、わたしは真登ではないひとのために使ってしまった。わたしの夢のために使ってしまった。
「半年以上会ってなくて、おれたち、つきあってる意味ある?」
 これは、罰だ。心をあげられないことをわかっていながら、わたしが真登の手を取ってしまったから、やさしくてつよい真登を傷つけてしまった。里恵ちゃんとおなじくらい、大切に思っている真登のことを。
「指輪もしてないし」
 真登の手が、ひざの上に組まれたわたしの薬指をまさぐる。その手から逃げることも、その手を受けいれることも、どちらもできないまま、わたしは黙っていた。
 夏の終わり、ふたりでくっついているには暑すぎる気温と陽射しのなかで、わたしたちの鼓動は静かだった。重なる洋服が帯びる湿気も、どんどん冷たくなっていく。
「……ごめんなさい」
 わたしに言えるのは、それだけだった。これまでのすべてを、そしてこれからのすべてに許しを乞う。こんなときでも、わたしは真登に甘えていた。
「それが、答えなのかよ」
 ぐす、と、真登が鼻をすする音がした。きつく抱かれていた腕が解かれて、身体の半分に風が当たる。顔をあげてうかがうと、真登は反対側を向いていた。世界に音が戻って、信濃川を渡る橋がタイヤに踏まれているのがわかる。となりに座ったまま、真登はしばらく顔を拭っていた。
 どれくらい、そうしていただろう。一瞬にも、永遠にも感じられる時間、わたしたちは身じろぎひとつせずそこにじっとしていた。
 一際おおきく鼻をぐしゅぐしゅと鳴らし、真登が立ちあがった。つられて、わたしも視線を上に向ける。
「……ごめん、ちょっといまやさしくできない。悪いけど歩いて帰って」
 そう言って、真登が車に乗りこんだ。ドアを開ける背中は、ひどくちいさく見えた。
 座りこんだまま身体をひねるわたしに、真登が窓を開けて、言った。
「ほんとは、会えたらこれだけ言うつもりだったんだ。―誕生日おめでとう」
 じゃな、とダイバーズウォッチをはめた手をあげて、真登はエンジン音とともに去っていった。悲愴な気持ちで、わたしはその車を見送る。
 そうだ、今日は特別な日なのだ。誕生日で、高卒認定の合格通知がきて、里恵ちゃんに連絡できる日だった。たくさんの想いをくれた真登に、わたしはひとことも返事ができなかったのに、彼は最後に「おめでとう」をくれた。
 ひざで組んでいた手を脇におろすと、乾いた感触の紙に触れた。赤字の『試験結果在中』が、太陽のひかりに反射してよく見えない。
 高卒認定を受けていたこと、そしてそれに、ひとつだけだけれど合格したこと、なにひとつ真登に告げられなかった。「あんま根詰めんなよ」と、わたしの身体の心配までしてくれた彼に、ちゃんと報告さえできなかった。
 情けなくて、いなくなってしまいたかった。こんなわたしだから、里恵ちゃんだって、この地を離れることを教えてくれなかったのだ。
 ヴヴヴ、とスマートフォンが震えた。重い腕を動かして端末を操作する。
『まゆ、久しぶり。会えたらいいんだけど、いま、忙しいの。ほんとにごめんね。』
 それは里恵ちゃんからのメッセージだった。いつもなら最後についているはずのクマの絵文字の場所には、代わりにそっけない句点があった。
 腰についた草を払い、立ちあがる。長い時間座っていた足は、固まってうまく動かなかった。封筒を拾いあげて、じっと見つめる。今日は、えるのに会う約束をしている。トートバッグに封筒を突っこみ、最寄りのバス停に向かって、重い身体をまえに進めた。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

生徒会と陰キャの秘密

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:0pt お気に入り:0

婚約者が浮気相手を妊娠させました

恋愛 / 完結 24h.ポイント:411pt お気に入り:405

【完結】婚約破棄された地味令嬢は猫として溺愛される

恋愛 / 完結 24h.ポイント:305pt お気に入り:1,485

はりぼてスケバン

青春 / 完結 24h.ポイント:28pt お気に入り:3

嫁ぎ先は貧乏貴族ッ!? ~本当の豊かさをあなたとともに~

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:28pt お気に入り:45

家族のかたち

大衆娯楽 / 完結 24h.ポイント:113pt お気に入り:20

今更気付いてももう遅い。

恋愛 / 完結 24h.ポイント:1,157pt お気に入り:3,425

処理中です...