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2 待ってください

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「しつれーしましたー」


 独特の、少し緊張感漂う室内に向けて頭を下げる俺。下げるっていってもそんな畏まったお辞儀ではなく、形式的な挨拶の一種みたいな軽い礼だけど。
 その動作に俺を呼びつけた本人は


「おー次は頑張れよ」


なんて簡単な言葉をかけて手元のプリントに目を向けていた。
 一歩踏み出した職員室前の廊下はシーンと静まりかえり、人っ子一人見あたらない。けれど校舎に反響して聞こえる部活生の掛け声のおかげか、この悲しげなシチュエーションも和らいだ空気へと変化していた。俺は足早に歩を進め、教室に置きっぱなしなカバンの元へと急ぐ。
 放課後、さっさと帰ってれば良かったものの友人たちとワイワイやってしまっていた俺は、ご苦労な事にわざわざ引き返してきた担任に話があると捕まってしまった。話の内容は分かってる。どうせこの間あった古典のテストで壊滅的な点数を叩き出してしまった事だろう。
 そのまま職員室に連行され、案の定話されたのは予想通りの内容で。俺の一番苦手な教科の担当が担任だなんて俺ほんとついてない。帰宅するタイミングを逃したまま"もっと勉強せんか"とか"お願いだから30点以上はとってくれ"など説教なのか懇願なのか分からない話を聞かされ、やっと解放され今に至る。


(あー肩こった)


 古典だけの話かと思ったら最後の方は世間話になり、思いの外時間の掛かった担任とのお話。窓から見える空は既に茜色に染まり始め、夜の訪れを告げようとしている。
 でも前もって一緒にいた友人たちには先に帰るよう告げたから別段時間の経過は気にならない。今日はこの後の予定もないのでゆっくりでいいのだが、一人長々と学校に留まるのも変な気分なので足を早めに動かしていた。
 なのに、案外早めにたどり着いた目的地のドアを潜り抜けた俺は、中の様子にぴたりと歩みを止めていた。別に異常があった訳ではない。俺の言葉通り友人たちはさっさと帰ってしまっているし、我が教室に不審者が侵入して室内を荒らし回ってる訳でもない。それどころか誰の話し声もなく、他の教室と見比べてもあまり違いは見あたらない筈。聞こえるのは微かな寝息だけ。
 そう、寝息だけ。生き物特有の深い呼吸音がこの静寂にのまれた教室内に違和感を醸し出しながら存在している。
 それだけならまだ良かったが、いかんせんその寝息の主が俺の歩みを止めさせる程の重大な原因となっているのだ。寝息だけなら俺の足音にかき消される程か細くて、実際この音が聞こえたから足を止めた訳じゃない。そんなの足を止めてから気づいた謂わば二次産物だ。
 だけど、俺は見てしまった。左目の端の方にちらりと写った整頓されて並んだ机と机の間にある不思議な物体を。そして、その不思議な物体の正体を。


「こ、小向…」


 俺の視界に入ったのは横向きで丸まっているクラスメイト。大の苦手……と言うか今のところ世界で一番苦手な存在の小向が今、何故か床に丸まって眠っている。それも枕に頭を乗っけて。
 最初はいじめかと思った。クラスの誰かにボコられて潰れているのではないかと。けど、机は乱れてないし衣服の乱れもない。それに……殴った奴を枕に乗せてやるなんて聞いたことがない。
 それが意味するのは、これは事件じゃないって事。自主的に彼は地面に沈んでいて。緩やかに胸元が上下している。そう、小向は気持ちよく寝息をたてて眠っていた。


「こ、むかい…?」


 静かに歩み寄りそっと声をかけてみるが、返事はない。手を口元で束ねて丸く眠る様はまるで日向で眠る猫の様だ。
 だがここは放課後の教室。心地よい日差しがあるわけでもないし、寧ろもう夜になる。それなのに無防備に口を半開きにしたまま眠っているなんて。
 あり得ない。コイツはどういう神経しているのだろうか。それ以前に枕はどこから?謎は深まる一方である。
 俺は自分の席の隣、つまりは小向の枕元にしゃがみ込んで、不躾ながらもじっとその寝顔を観察した。長く野暮ったい前髪はこんな時でさえ綺麗に顔の上半分を覆い、いつも俺を睨みつけているであろう瞳を隠す。
 この薄く開いた唇から俺に向けて言葉が放たれる日はくるのだろうか。分からない。分からないけど……今この時だけでも少し距離が縮んだ気がして、俺は嬉しさを感じた。
 開けっ放しだった窓からそよぐ暖かい春風が小向の後ろ髪をひらりとすくい上げる。
 それにしても、よく眠っている。こんな所で寝てしまうくらい眠かったのか?けど枕があるところから計画的犯行にも見えなくはなくて。こんな堅い床で眠れる図太さに圧巻された。


(つか…いくら掃除した後だからって、なにも床で寝なくても…)


 そう思うが何故か起こしてやる気は起きず、ただただその姿を見つめる事しか出来ない俺。
 いつも自分へ向けている嫌悪感が今、全く感じられないから。俺以外に向けるどこかぼけっとした雰囲気のままで眠る小向が新鮮で、普段は見れないこの状況が楽しくて仕方なかった。
 と、そんな気持ちで頬を緩ませていたその時


♪なんのためーにうーまれて~なにをしーていきるのか~


 どこからともなく、某国民的あんパンヒーローの主題歌っぽい音楽がこの静かな教室内にこだました。
 それは俺の耳にも大きな音で入り込んできて。


「……ん」


 当たり前の如く足下にいる人物の鼓膜も振るわせてしまったらしい。快いリズムの息遣いが乱れ、微かな呻きと共にその横たわっていた頭がゆっくりと起きあがってくる。
 俺は予期せぬ展開に微動だ出来なかった。
 小向はのっそりと頭を上げ、不安定な体制のまま、俺を見上げる。
 見つかった。


「や、やあ……」


 苦し紛れの笑顔を浮かべながらわざとらしく手を挙げて、平然を装ったつもりの俺。


「……………」


 だけど寝起きの小向は寝ぼける事なく無言の威圧をかけながら俺を睨みつけてるみたいで。
 キッと萎まった、ような気がする小向の目。悔しげに噛みしめだした唇を視界に捉え、どっと冷や汗が溢れ出した。
 同じ男に寝顔を観察されてたとか……悪質な嫌がらせが過ぎるだろう。これじゃあ汚名の上塗りもいいとこ。益々嫌われる原因を自ら作ってしまった。
 だが、そんな焦る俺を後目に直ぐに視線を外した小向はおもむろに自分のカバンを漁りだした。
 より大きくなる某国民アニメのあんパンヒーローソング。それは小向が学生カバンから取り出した一台の長方形の塊から聞こえてくる。
 音の発信源はコイツのスマホだったらしい。小向は俺を無視したままスマホを操作し音を消すと、顔の横にぴたりと押し当て立ち上がった。


「……なに…んー……今帰るとこ」


 そしていそいそと床に落ちてた枕を拾い上げて机の上にあった大きめのバッグに詰め込んでゆく。部活をしてない筈の小向が何故か持ち歩いていたスポーツバッグは枕を持ち歩く為だったのか。
 なんて俺が新しい発見をしている間にも着々と体を動かす小向はそのバッグを肩に掛けて、スマホを持っていない方の手で学生カバンを掴むと俺には目もくれず俺がいる側とは逆方向に歩き出した。向かう先は俺が入ってきた扉とは逆の出入り口。


「別に……今帰るって言ってるじゃん」


 小向は俺を無視したまま、帰るつもりのようだった。俺は後方へ向かうしゃんとした背中をただ見つめる。


「……なんかでいー……んーん……お腹空いた」


 このままでいいのか俺。このまま……不愉快にさせたまま小向をかえしちゃっていいのか?


(っーーダメだろッ!)


「待てよっ!!」


 俺はとっさに、閉まっていた後ろのドアを開けて出て行こうとする背中に駆け寄り、思いっきりスマホを持ってる方の腕を引っ張った。
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