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春
七
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黄のかかった淡い色の着物に濃い色の帯を締めて灯子は傘を差して雨の中を歩く。帯のお太鼓には月夜に舞う蝶が描かれている。夢路は灯子から後ろに下がったところを、同じように傘を差して歩く。夢路のどこか影を秘めた黒い目は、月夜に舞う蝶の姿を見ていた。
川沿いに咲く桜は、雨に打たれて、それでも尚美しかった。夢路は桜の枝を手折って灯子に渡したいような気持ちになる。しかし、桜の枝は折るには向かない。弱い木である。
夢路がやってきたのも春の季節だったと、育ての親から聞いた。育ての親夫婦は、夢路が捨てられた赤ん坊、とは言わなかった。神様が落としたのを拾い上げたのだと言っていた。抱き上げてみると生み落とされたばかりの熱がまだ残っているようで、それが愛しく感じられた。育ての親夫婦は生まれたばかりの夢路を抱いて、どこまでも駆け出していきたいような気持ちになったという。恐ろしいほどの衝動で、狂おしいほどの赤ん坊への愛おしさだった。
夢路は、自分が神様の落とし子ではないということくらいは分かっている。人間の親が人間の子を生み落とし、人間の屋敷の前に捨てたのである。生みの親には、夢路を育てられない事情が何かあったのだろう。或いは、最初から愛などなかったのかもしれぬ。それでも、誰かが拾ってくれるようにと人間の屋敷の前に捨てるだけの情はあったのだ、と思うことにしている。
育ての親夫婦の間には、望んでいても子どもは出来なかった。そこにやってきたのが夢路だった。母に乳は出なかったので、近所の乳の余っている女房に乳を分けてもらったり、重湯などを与えて育てた。夢路はスクスクと育っていった。物心がついてくると、自分が両親のどっちにも似ていないことを不思議に思うようになった。例えば、夢路は癖っ毛だが両親は共に直毛である。例えば、夢路は切れ長の一重瞼だが両親は二重瞼である。他にも、細かいところが違っている。両親に訊いてみると、それは夢路が神様の落とし子だからだ、と言う。そのとき夢路は、自分が拾われた子であることを知った。捨て子であることを知ったのは、もっと後になってからである。
両親と血が繋がっていなくても、夢路はそのことで卑屈になったり、悩んだりすることはなかった。ただ、自分が捨て子だったという暗い影は、常に夢路の足元にくっついていた。そこから、夢路の現実が脆く崩れていきそうだった。今いる夢路の世界が実は夢で、本物の夢路は、今も春の空に向かって弱々しい小さな手を伸ばしているのではないか、と。
例えば、灯子という存在も、夢路にとっては一つの夢と感じることがある。灯子も、両親に似ていない娘である。しかし、夢路のような捨て子とも思えなかった。それこそ、神様の落とし子のような美しさだった。
傘を差して灯子がゆっくりと歩く度、灯子のお太鼓の蝶もゆらゆらと舞うようだった。薄暗い空の下で、灯子はポゥッと明るい。夢路は眩しい気持ちになる。
「今年も……」
灯子が一本の桜の木の下で立ち止まり、枝についた花に手を伸ばそうとするような仕草をする。
「桜が、ね……」
灯子は夢路を振り向いて、儚げな微笑を浮かべた。桜の色を映して、柔らかそうな頰が輝くようだった。
「咲きました」
夢路は表情を変えずに頷いた。
「雨で散らないかしら」
「本当の桜の季節は、まだ先ですよ」
傘の下から空を見上げながら、夢路は言った。灰色の空から、パラパラと細かい雫が降ってくる。
「お嬢さま、寒くはありませんか?」
「寒くはないわ」
灯子は答えて、着物の上から胸を押さえた。
「今は、温かいくらい」
灯子の、雨の日の散歩道はいつも大体決まっている。川沿いの道をぐるりと周り、住宅街に出て、屋敷に戻るのだ。偶に寄り道をすることもあるが、夢路がついているので、道に迷うこともない。今日の灯子は、少し周り道をするようだった。
「お嬢さま」
歩きながら、夢路は言った。雨は段々と、勢いを増していくようだった。灯子の足袋が少し濡れているようだ。
「お嬢さま」
呼んでも、灯子は止まらない。灯子のお太鼓の蝶が、灯子をどこか遠くへ連れ去っていこうとするかのようだった。
夢路は傘を捨てて、灯子に駆け寄った。雨が、夢路の体を濡らした。
「お嬢さま」
夢路は、灯子の肩に触れようとして躊躇った。灯子は夢路を振り返った。夢と現実の境にいたような淡い顔色が、少しずつ元の血の色を取り戻していった。
「夢路」
灯子は、心配そうな声で夢路の名前を呼んだ。
「夢路、雨が……」
そう言って、灯子が自分の傘を夢路の方へ傾けようとするのを、夢路は制した。夢路は駆けてきた道を戻って、傘を拾って差した。振り返ると、寂しそうな灯子が立っていた。
「帰りましょう」
夢路が言うと、灯子は怯えて、抗うような表情を見せた。
「奥さまが心配なされます」
「…………」
「こんなに雨が降ってきて……」
「夢路、私はもっと遠くへ行きたい」
「しかし、雨が……」
「濡れても構わないの」
そう言って、灯子は差していた傘を下ろした。夢路は自分の差していた傘を、灯子へ傾けた。夢路は灯子よりかなり背が高い。夢路の差し出した傘は、灯子の体の殆どを覆った。
「お嬢さまが濡れては、私が切ないです」
灯子に傘を差し出して、自分は濡れながら、夢路は言った。
「切ないです」
もう一度言う。乞うように。愛しむように。
灯子が、夢路の袖を掴んだ。
「夢路、逃げよう」
「なりません」
「どこか遠くへ……」
「なりません」
「夢路がいるなら、怖くないの」
灯子の目から一滴、美しい涙が転がり落ちた。片手には傘を差し、もう片方の手は灯子に握られているので、その美しい涙が地に落ちる前に、掬い上げることも出来ない。涙は地に落ちた。
「お嬢さま、次に縁談が来たときは」
夢路は言った。
「そのとき、使用人を連れて行くときは、お小夜を連れて行ってください」
「…………」
「お小夜は私よりも信頼できます。お嬢さまの味方です。きっと、お嬢さまがどこにお嫁に行っても、支えてくださいます」
「夢路は……?」
灯子の、濡れて輝く両目が、夢路を見た。
「私は捨て子でした」
夢路は言った。
「どこへでも、生きていけます」
灯子は、美しい涙を、ハラハラと流した。灯子の頰に、涙の筋がいくつもできた。顎から滴り落ちた涙は、傘の中で、いくらでも降る雨のように降った。
夢路はその涙を掬い取ることも出来ないまま、じっと、涙を流す灯子の小さな黒い頭を見下ろしていた。
川沿いに咲く桜は、雨に打たれて、それでも尚美しかった。夢路は桜の枝を手折って灯子に渡したいような気持ちになる。しかし、桜の枝は折るには向かない。弱い木である。
夢路がやってきたのも春の季節だったと、育ての親から聞いた。育ての親夫婦は、夢路が捨てられた赤ん坊、とは言わなかった。神様が落としたのを拾い上げたのだと言っていた。抱き上げてみると生み落とされたばかりの熱がまだ残っているようで、それが愛しく感じられた。育ての親夫婦は生まれたばかりの夢路を抱いて、どこまでも駆け出していきたいような気持ちになったという。恐ろしいほどの衝動で、狂おしいほどの赤ん坊への愛おしさだった。
夢路は、自分が神様の落とし子ではないということくらいは分かっている。人間の親が人間の子を生み落とし、人間の屋敷の前に捨てたのである。生みの親には、夢路を育てられない事情が何かあったのだろう。或いは、最初から愛などなかったのかもしれぬ。それでも、誰かが拾ってくれるようにと人間の屋敷の前に捨てるだけの情はあったのだ、と思うことにしている。
育ての親夫婦の間には、望んでいても子どもは出来なかった。そこにやってきたのが夢路だった。母に乳は出なかったので、近所の乳の余っている女房に乳を分けてもらったり、重湯などを与えて育てた。夢路はスクスクと育っていった。物心がついてくると、自分が両親のどっちにも似ていないことを不思議に思うようになった。例えば、夢路は癖っ毛だが両親は共に直毛である。例えば、夢路は切れ長の一重瞼だが両親は二重瞼である。他にも、細かいところが違っている。両親に訊いてみると、それは夢路が神様の落とし子だからだ、と言う。そのとき夢路は、自分が拾われた子であることを知った。捨て子であることを知ったのは、もっと後になってからである。
両親と血が繋がっていなくても、夢路はそのことで卑屈になったり、悩んだりすることはなかった。ただ、自分が捨て子だったという暗い影は、常に夢路の足元にくっついていた。そこから、夢路の現実が脆く崩れていきそうだった。今いる夢路の世界が実は夢で、本物の夢路は、今も春の空に向かって弱々しい小さな手を伸ばしているのではないか、と。
例えば、灯子という存在も、夢路にとっては一つの夢と感じることがある。灯子も、両親に似ていない娘である。しかし、夢路のような捨て子とも思えなかった。それこそ、神様の落とし子のような美しさだった。
傘を差して灯子がゆっくりと歩く度、灯子のお太鼓の蝶もゆらゆらと舞うようだった。薄暗い空の下で、灯子はポゥッと明るい。夢路は眩しい気持ちになる。
「今年も……」
灯子が一本の桜の木の下で立ち止まり、枝についた花に手を伸ばそうとするような仕草をする。
「桜が、ね……」
灯子は夢路を振り向いて、儚げな微笑を浮かべた。桜の色を映して、柔らかそうな頰が輝くようだった。
「咲きました」
夢路は表情を変えずに頷いた。
「雨で散らないかしら」
「本当の桜の季節は、まだ先ですよ」
傘の下から空を見上げながら、夢路は言った。灰色の空から、パラパラと細かい雫が降ってくる。
「お嬢さま、寒くはありませんか?」
「寒くはないわ」
灯子は答えて、着物の上から胸を押さえた。
「今は、温かいくらい」
灯子の、雨の日の散歩道はいつも大体決まっている。川沿いの道をぐるりと周り、住宅街に出て、屋敷に戻るのだ。偶に寄り道をすることもあるが、夢路がついているので、道に迷うこともない。今日の灯子は、少し周り道をするようだった。
「お嬢さま」
歩きながら、夢路は言った。雨は段々と、勢いを増していくようだった。灯子の足袋が少し濡れているようだ。
「お嬢さま」
呼んでも、灯子は止まらない。灯子のお太鼓の蝶が、灯子をどこか遠くへ連れ去っていこうとするかのようだった。
夢路は傘を捨てて、灯子に駆け寄った。雨が、夢路の体を濡らした。
「お嬢さま」
夢路は、灯子の肩に触れようとして躊躇った。灯子は夢路を振り返った。夢と現実の境にいたような淡い顔色が、少しずつ元の血の色を取り戻していった。
「夢路」
灯子は、心配そうな声で夢路の名前を呼んだ。
「夢路、雨が……」
そう言って、灯子が自分の傘を夢路の方へ傾けようとするのを、夢路は制した。夢路は駆けてきた道を戻って、傘を拾って差した。振り返ると、寂しそうな灯子が立っていた。
「帰りましょう」
夢路が言うと、灯子は怯えて、抗うような表情を見せた。
「奥さまが心配なされます」
「…………」
「こんなに雨が降ってきて……」
「夢路、私はもっと遠くへ行きたい」
「しかし、雨が……」
「濡れても構わないの」
そう言って、灯子は差していた傘を下ろした。夢路は自分の差していた傘を、灯子へ傾けた。夢路は灯子よりかなり背が高い。夢路の差し出した傘は、灯子の体の殆どを覆った。
「お嬢さまが濡れては、私が切ないです」
灯子に傘を差し出して、自分は濡れながら、夢路は言った。
「切ないです」
もう一度言う。乞うように。愛しむように。
灯子が、夢路の袖を掴んだ。
「夢路、逃げよう」
「なりません」
「どこか遠くへ……」
「なりません」
「夢路がいるなら、怖くないの」
灯子の目から一滴、美しい涙が転がり落ちた。片手には傘を差し、もう片方の手は灯子に握られているので、その美しい涙が地に落ちる前に、掬い上げることも出来ない。涙は地に落ちた。
「お嬢さま、次に縁談が来たときは」
夢路は言った。
「そのとき、使用人を連れて行くときは、お小夜を連れて行ってください」
「…………」
「お小夜は私よりも信頼できます。お嬢さまの味方です。きっと、お嬢さまがどこにお嫁に行っても、支えてくださいます」
「夢路は……?」
灯子の、濡れて輝く両目が、夢路を見た。
「私は捨て子でした」
夢路は言った。
「どこへでも、生きていけます」
灯子は、美しい涙を、ハラハラと流した。灯子の頰に、涙の筋がいくつもできた。顎から滴り落ちた涙は、傘の中で、いくらでも降る雨のように降った。
夢路はその涙を掬い取ることも出来ないまま、じっと、涙を流す灯子の小さな黒い頭を見下ろしていた。
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