四季、折々、戀

くるっ🐤ぽ

文字の大きさ
22 / 25

しおりを挟む
 自分の幼い頃――といっても、尋常小学校五年生くらいの頃である。それほど、幼くもない。とにかくその頃、自分は父に連れられて、とある山中にある旅館を訪ねた。
 行く道には雪が降り積もっていた。自分と父は、足元でキシキシ雪を踏み鳴らしながら、山道を登った。自分と父との間は、だいぶ空いていた。自分が、お父さん、と呼ぶと父は振り返り、自分が追いつくまで、山道の途中で待ってくれていた。吸い込まれそうに、白い景色だった。自分は顎を持ち上げて、灰色の重たい空に向かって、白い息を吐いた。
 この山道を登った先の、宿に行くと、父が言い出したのは突然のことだった。真面目で、あまり笑わない人で、冗談を口にすることもしない人だった。母からしゃくを受けて、酒を飲むことはあったのだが、酔って醜態しゅうたいをさらすようなこともなかった。
 母は昔風の教育を受けた慎ましい女性だった。父は、この旅行に当然母も連れてくるものだろうと、自分は思っていたのに、父が連れ出したのは一人息子の自分だけだったから、意外だった。母は、行ってらっしゃいませと、日本髪に結った慎ましい頭を下げて、父を見送った。自分は父を見上げて、何か言おうとして、お父さん、と言いかけたが、父は帽子を被りながら、ただ一言、行ってくる、とだけ母に告げた。それは、母に対して冷淡に自分の目には映った。母が寂しそうな笑みを浮かべているのを、振り返りもせずに家を出て行くから、尚のことだった。自分は母に同情した。父を責めたい気持ちになった。
 父は、真面目な人だった。しかし、家族に対して冷たい人ではないと、自分は信じていた。しかし、このときの父はどこか、いつもの父とは違っていた。父の心は、母や自分とはどこか遠いところにあるように見えた。そんな父に、自分や母の言葉がどこまで届くのだろうかと、疑問だった。
 自分の足が雪で滑りかけると、父が自分の肘を掴んで支えてくれた。大丈夫か、という一言もなかった。父は無言だった。
 宿には黄色い灯りが灯っていた。宿に入ると下女が出てきて、愛嬌あいきょうをたたえて笑った。梅の間を予約していた者だが、と父が言うと、下女は、ええ、こちらへ、と言って父から奪い去るように荷物を受け取ると、奥にある梅の間へ父と自分を通した。襖に梅の花が描かれていて、なるほど、梅の間だ、と思った。自分はそこで、宿の者から宿に関する様々な説明を受けた。
 自分は寒かったので、お父さん、先にお風呂に入りませんか、と父に言った。父は軽く頷くような、首を左右に振るような曖昧な返しをした。自分は、お父さん、僕は先にお風呂に入りたいのですが、と言い直した。父はどこか悲しそうな目をして、お前、一人で風呂に入れるかい、と言った。自分はもう、父に対してものを言うのが嫌になって、一人で着替えを持って風呂場へ向かった。
 風呂場には自分の他に、老人が一人湯船に浸かっていた。自分は体を洗い、ザブリと湯船の中に入った。痺れるような、良い心地だった。自分は長い息を吐いて、風呂場の縁に頭を乗せて、天井を見上げた。湯は自分の冷たく強張った体を、ピリピリと痛めつけた後、柔らかく包み込むようだった。
 坊、と声がして顔を上げると、先に湯に浸かっていた老人が、いつのまにか自分の傍にまで来ていた。坊、お前、一人で旅に来たのかい、と老人は言った。頭が禿げている割に、丈夫そうな歯と、しゃがれているが艶のある声の持ち主だった。ひょっとしたら、どこかの学者かもしれない、と自分は思いながら、いいえ、父と一緒です、と答えた。老人は、そうか、と答えた。
 儂は昔、ある人とこの宿に泊まった。番頭も主人も代わったが昔と変わらずこの湯船は良い、体のあちこちが解されていくようだ、この宿で本当に褒められるところと言えば、湯船と、美しい下女を雇っているところじゃないか、お父さんにもそう言っておやり。老人は、子どもの自分相手につらつらとこんなことを語った。自分はただ、はぁ、と答えた。何となく、気味の悪い爺さんだと感じて、早く湯船から上がらなければと思った。
 老人の話は、まだ続いた。老人と泊まったその人は、病を抱えていた。ふとした弾みで湯の中に沈んでしまいそうになるのを、老人は脇の下からその人の体を抱えて支えてあげた。溺れぬようにその人の顔を上に向けさせると、その人は潤んだ目を細めて、ありがとうと言った。その拍子に、その人の目尻から透明な雫がコロンと落ちた。老人は、その人が自分の腕の中で、眠るように息を引き取るのではないかと思った。それは、悲しいというよりも幸福な夢想であった。老人は、その頃は老人ではなく、色に溢れた未来を抱く若い青年であった。そのとき老人が抱いていたのは、老人と共に宿に泊まった、病を抱えたその人だけだった。また、その人さえいれば、未来も過去もらないと思った。冗談でも、衝動でもなく、心の底からそう思った。
 子どもだった自分には、何とも言える話ではなかった。自分は、老人と泊まったというその人は、女であるに違いないと思った。自分は、病持ちの、青白い肌をした美しい女が、湯船の中で老人に抱えられている姿を想像した。ただし、禿げ上がった老人の、青年の姿を想像することは出来なかった。抱えられる女が若いのであれば、老人もきっと、若い姿でなければなるまいが。
 夕食には、山の幸が出た。
 自分は夕食を運んできた下女が美しいかどうか観察しようとした。その顔は殻を剥いたばかりのゆで卵のようにつるんとしていて、のっぺらぼうではなかったけれど、白いばかりで目鼻立ちがハッキリとしなかった。下女が愛想笑いをしたときも同様だった。子どもの自分は、こういう女の顔を、美しいと言うのだろうか、と思った。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

別れし夫婦の御定書(おさだめがき)

佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★ 嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。 離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。 月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。 おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。 されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて—— ※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。

処理中です...