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代ぬいが見つからない

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 ハッピーストア鷺ノ宮店では、亜希の巻き込まれた事件に関して、誤った噂が流布し始めていた。社用車の後部座席に隠れていた車上狙いを発見した住野チーフが、犯人を車から引きずり出して1人でぶちのめし、警察に連絡した……といった具合に、である。亜希はそのことを知らなかったのだが、ある日水産部門のチーフとの会話からそのことが発覚した。
 水産チーフの竹城たけしろは、仕事が早くパートやアルバイトの使い方も上手で、管理職の覚えもめでたいのだが、商品の発注を除くバックヤード業務の詰めが甘い。調理場で使う備品の発注忘れが多いのだ。自覚があるらしく、サブチーフやベテランのパートさんに発注を任せているが、彼らの休みが発注の曜日に被ると、大概翌週に何か足りないと事務所に言ってくるのである。
 亜希が昼休憩に回ろうとしていた時、休憩を済ませたらしい竹城が事務所の小窓を開けた。

「住野さん、カウンタークロスをお借りできないでしょうか」

 カウンタークロスとは、不織布の布巾のことで、生鮮食品の部門では衛生管理上、切らすことが許されない備品と言える。
 亜希はまたかよ、という気持ちをオブラートに包まない。

「毎月事務所のストックから持ち出す記録を、今年も継続するんですか?」
「そうなっちゃうかなぁ」

 竹城はへらっと笑う。反省の色無し、である。

「3日に惣菜に貸したから1箱しか無いですよ、次の入荷まで持つんでしょうね?」

 亜希は淡々と問う。竹城は顔の横で、人差し指と親指で輪を作った。

「あっ、年末も言いましたけど、他所の部門から借りたら絶対に返してくださいよ」

 これは部門ごとの売り上げを正確に弾き出すために、大切なことである。こういう話をする時、非売上部門の自分が何故釘を刺さねばならないのかと、亜希はいつもイラっとしてしまう。しかしこれが事務所の仕事でもあった。
 竹城は相変わらずオッケー、と軽い調子で応じた。

「こんな住野さんが乗ってきた車を荒らそうとした奴、ほんとバカというか運が無いよなぁ」

 聞き捨てならない言葉に、亜希ははあっ? と思わず凄んだ。あんな怖い思いをしたのは、生まれて初めてだったのに、どういう意味なのか。
 竹城は一瞬笑いを引っ込めたが、やはりへらっとマスクの上の目が笑った。

「住野さん、犯人とっ捕まえて警察に電話したんでしょ? カッコ良過ぎる」
「えっ、何それ!」

 亜希が目を剥いたその時、ピンポン、と店内放送のチャイムが鳴った。続いたのは、レジチーフの華村の低めの声だった。

「水産竹城さん、水産竹城さん、サービスカウンターまでお越しください」

 亜希は窓越しにじろりと竹城を見つめた。華村の声から察するに、良くない呼び出しに違いなかった。呼びつけられたということは、客が商品を持って苦情を言いに来た可能性が高い。

「カウンタークロス、バックに持って行っときますから、サビカンにどうぞ」

 竹城はああ、と肩をすくめた。

「アニサキスかなぁ」
「知りませんよ、早く行ってください」

 亜希がぴしりと言うと、ようやく竹城は長靴をぺこぺこいわせながら、売り場に出るべく走って行った。
 棚からカウンタークロスの箱を下ろして、どういうことなんだと亜希は舌打ちしそうになる。あんな場面で、女1人で不審者を返り討ちにできる訳がない。あの時、こっちに向かって走って来てくれたぬいぐるみ医師の姿を、亜希は生涯忘れないだろう。それなのに、独りで全て片づけたと信じられているなんて、いろいろな意味で終わっている。

「俺はきちんといきさつを聞いたから、ああいう話を聞いたら住野さんの名誉のために否定しとく」

 店次長の楠本はノートパソコンを触りながら言ったが、どう見ても笑いをこらえている。亜希は本気で腹が立ってきた。

「私ほんとに殺されるかと思ったんですけど!」
「そりゃそうだろう、誰もいないと思ってた車で後ろから襲われたら、俺たぶん失神して小便ちびるわ」

 そうならなかった亜希を揶揄しているのか賛美しているのか、楠本の口調からは判断がつきかねた。とりあえず亜希は、カウンタークロスを持って事務所から出た。まったく、どいつもこいつも……そんな風に思われるのは、自分が築き上げてきたイメージのせいであることは理解できるし、仕方がない。だがやはり腹立たしく、少し情けなかった。
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