トップ>小説>【ことば】紡ぐ【ひとかけら】
6 / 14

しおりを挟む
 高校二年のあの梅雨の季節。

 僕は大切なことを知った。

 いつまでも忘れることのない大切なこと。

 六月中旬、例年通りこの季節はやってきた。

 あの頃、付き合っていたマユと僕は一緒に帰っていた。



「とうとう来たね、この季節」



 マユは待ち望んでいたような口調で言ったんだ。

 僕はなぜ、梅雨をそんなに楽しみにしていたのか分からなかった。



「この時期だけは本当に嫌いだ」



 僕はマユと違い、一年でこの梅雨だけが大嫌いだった。

 だからマユにどうして梅雨が好きなのか聞きたかった。



「なんで?」



 僕が尋ねる前にマユがどうして嫌いなのかを聞いてくる。

 どしゃ降りの雨で声がかき消されそうになる。

 僕は少し大きな声でマユに答えた。



「だって憂鬱になるし、移動するのも一苦労じゃないか。見てよ! もう靴も靴下もびちょびちょだ」



 そう言って僕は足元を指差した。

 強烈な雨にもはや傘も本来の役割を果たしていない。

 そんな僕の不平にマユが答える。



「雨にもちゃんと役目があるじゃない」



「どんな?」



 僕はなおも降り続く雨に苛立ちながら聞いた。



「雨が降れば作物は育つし、水不足に困ったりしないわ。それに……」



 マユはワクワクした表情で説明して最後の言葉を濁した。



「それに?」



「ううん、何でもない」



 マユは首を横に振って先程の続きを言わなかった。

 きっと、これが大きな意味を持っていたのだろう。



「それにしても僕たちみたいに普通に生活してるとデメリットばかりが目立つよ。雨に打たれるのも楽じゃない」



 僕は一つため息をついて呆れたように言った。

 マユはその言葉にクスッと笑った。



「確かにね。でも、私たちみたいな平凡な生活の中にもメリットあると思うわよ」



 マユはまるで自分が雨の良さを知っているかの口振りでそう話した。

 僕にはさっぱりわからず首を傾げた。

 そこでさっき浮かんだ疑問をぶつけてみる。



「マユはどうして梅雨が好きなのさ?」



「それはね」



 マユが答える前に僕たちはお互いの分岐点である駅に到着した。

 マユはそこから自転車で僕は電車で少し離れた地元に帰る。

 この雨の中、自転車で帰るのは大変なんだ。

 僕は考えただけで雨が憎らしくなった。

 それでもマユは梅雨が好き。どうしてなんだろう。

 疑問に思っていると、駅の階段で別れる前にマユはさっきの続きの言葉を口にした。



「雨には雨の良さがあるの。晴れに隠れていつもは見えないけどね」



 そう言って僕に手を振って駐輪場へと歩いていった。

 僕は電車に揺られながら、さっきのマユの言葉の意味を考えていた。

 雨の良さ。

 僕にはさっぱりわからない。

 人を不快にさせるこんな天気に良いところなんてあるはずがない。

 地元の駅に近づくにつれて雨は小雨になり、次第に止んでいった。いや、正確にはさっきの雨雲がこれからこちらに来るんだ。

 僕は雨雲に追いつかれないように早く家に帰ろうと改札を出た。

 駅の階段を降りるとまだ日が照っていた。

 地面にも雨が降った形跡はない。

 まだここに「雨」という不快なものはやってきていない証拠だった。

 この晴天を見ると自分が別世界に来たような気分になる。

 やっぱり晴れが良い。

 さっきの雨はなかったように思えたが、地に足を着くと靴と靴下の水が嫌な音を立てる。

 同時に足に気持ちの悪い感触が残る。

 この時、ようやく別世界ではなくもうすぐ雨雲がやってくることを思い出した。

 現実に一気に引き戻された感じだ。

 僕は駅から家まで懸命に自転車をこいだ。

 家に帰ると、びちょびちょの靴下を脱いで部屋に入る。

 ズボンも裾の方が濡れていたためハンガーにかけて部屋に干した。

 靴はどうしようもなかった。

 これから雨が降るだろうし靴を干しても意味がない。

 その流れでシャワーを浴びてサッパリすると、リビングでテレビをつけてくつろいだ。

 そうしていると次第に空が雨雲によって支配されていく。

 とうとうここにも雨が降り始めた。

 僕はテレビを消して自室に戻った。

 自室に入ると僕は本でも読もうとソファーに座りお気に入りの小説を手にした。

 もう何度も読み返している小説で少し本も古びた感じだ。

 でも、本当に好きなものはいくら読んでも飽きがこない。

 静かに黙々と読みふけった。

 聞こえてくるのはシトシト降る雨音だけだった。

 ある程度きりのいいところまで読んでしおりを挟んだ。

 何時かと時計を見ると、作品の半分近くを読んだはずなのに一時間ほどしか経っていなかった。

 おそらく、何度も読みすぎて内容が頭に入っているからだろう。

 外を見るとまだ雨は降り続いている。

 僕はふと、思い立って窓を開けた。

 窓際に座り、腕を窓の縁に置いてその上に頭を乗せた。

 雨は帰ってくる時のどしゃ降りとは違い、小雨で静かに降り続ける。

 そのため窓を開けていても雨は入ってこなかった。

 多分、窓の方向と雨の降る方向が違っていたこともあるのだろう。

 僕はその雨をただ呆然と眺めていた。



「雨の良さか……」



 マユが言ったあの言葉を思い出して空に敷き詰められた暗い雲をじっと見つめる。

 ゆっくりとした時間が流れる。

 さっきの大雨の帰り道とは全く違う時間。

 あのときは帰り道を歩くのに必死で気付かなかった時間。

 そんな時間と雨が僕を包んでいた。

 ただゆっくりと静かに降り続く雨が僕の心に染み入る。

 少し苛立って乾いていた心が潤っていく。

 晴天では感じられない穏やかなひととき。

 それは僕の心にゆとりを与えた。

 雨が降って気温は少し下がっているはずなのにどこか温かい。

 それは僕の知らない雨の世界だった。

 マユの話した雨の良さはこれだったのかもしれない。

 その人にはその人なりの感じ方がある。

 でも、きっとこの瞬間が僕にとっての雨の良さなんだろう。

 晴れに隠れてしまっている雨の世界。これが本当の別世界なのかもしれない。

 僕はそんなことを思いながら再びさっきの小説を手に取った。

 雨の静かな音と大好きな小説で僕はこの世界にのめり込んでいった。

 次の日、梅雨空は晴れ間を見せず雨は降り続いていた。学校に着くとマユが話しかけてくる。



「今日も雨だね」



 窓の外を見てやっぱりどこか嬉しそうに話す。

 きっとマユはこの別世界にずっといたいのだろうと思った。

 僕は昨日知った雨の世界とマユの言った雨の良さを感じながら言葉を返す。


「梅雨だからね」



 昨日の苛立ちで溢れた言葉ではなく、雨の世界を知ってしまった心で和やかに言ったんだ。

 そして数週間後、梅雨は明けた。

 蝉の鳴き声がうるさい夏がやって来た。

 雨の世界はまた晴れの世界で隠れてしまう。

 一年で一度だけ訪れる影の役者が主役になれる季節を、穏やかでゆったりとした時間を僕もマユもまた待ち続けるのだろう。

  


 あれから十年近く経った今、また今年もあの季節がやってきていた。



「梅雨だってさ」



 僕は毎年この季節になるとこのセリフを口にする。

 そして、毎年その言葉には嬉しそうな言葉が返ってくるんだ。



「今年も来たわね」



 そんなマユの隣で四歳になるワタルが嫌そうな顔をする。



「あめ、やだ」



 この子もいつか僕のように雨の世界を知ることになるのだろう。そして、いつしかこの季節を待ち望む日がやってくるのだ。



「よし、ワタル! 絵本読んでやろう!」

 ‐完‐
しおりを挟む