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第二章.浄土誘導員のあれこれ

§2.少年は大人の事情に関与する2

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「鶯谷……違うな」

 寂れた六畳間の中央に胡坐をかき、両腕を組んだ太一はぼそりと言葉を漏らす。
 記憶の中に存在するはずのキーワード。それを搾り出す為に太一は帰ってきてからずっと考え込んでいるのだが、これがなかなか上手くいかない。
 すぐそこ、喉の先までは出掛かっているのはずなのだが、まるでなにかに邪魔をされているかのように出てこないのだ。

「鷺宮……いや、物理的には近所だけど、答えには全然近くねぇ!」

 ゆいいつ思い出せたキーワードは鳥の名前だったということだけ。それも、曖昧な記憶の中の一部に過ぎない。だった気がする、という程度のものだ。
 確かに、あの状況下で当時の場面を正確に記憶するのも難しいことだろう。
 突然の不幸に命を刈り取られ、本人には全くの自覚がないまま死の宣告。現に、太一もおおいに取り乱し、過剰な反応を取ってしまったのは記憶に新しい。
 しかし、それでも太一はなんとかしてこの靄を晴らさなければならないのだ。

 ちょうど今から二時間ほど前、浄土に来て三度目となる定期カウンセリングはかなりの時短を持って終了。
 トラブルこそあったもののその後の診断はスムーズに進み、近況報告と簡単なキャリアプランの相談などをして、約一時間程度で終了した。これも影で真理亜が動いているおかげだろうか。
 正直なところ、おそらく春香は完全に納得してはいまい。きっと、真理亜が太一を浄土誘導員にすると公言してしまった手前、やむを得ず鵜呑みにしているのだろう。
 カウンセラーとしての立場と尊敬する元上司からのプレッシャー。春香にとってそれは、どちらにも傾かない天秤に違いない。
 ただ、そこに彼女の本心が加わればどうなることか、それは神のみぞ知る。
 現状で深く追求されないということは、春香自身まだ決めかねているのだろう。

 なんにしても、今日のカウンセリングは滞りなく終了。強烈な眠気に襲われる太一は真っ直ぐ家路に就く。
 と、そのときだ。
 のろのろと走る各駅電車に揺られる太一の脳に電撃が走った。

 ――真由美の保安局は募集を掛けていないのか。

 元々、太一が浄土誘導員を志したのは真由美に感化されたがゆえ。
 不器用ながら直向に頑張る小さな女の子。そんな姿に魅了され、そんな彼女との再会を目指し、太一は浄土誘導員という仕事に興味を持った。
 今でこそ春香の過去や、それを取り巻く因果への興味が勝っているが、それは浄土誘導員になれば自ずと分かる。ならば、そうなるための環境くらいは選んでもいいではないか。
 なにより、もし真由美の働く保安局に入れれば、彼女との再会も春香の過去も同時に果たせる。
 まさに一石二鳥。なぜこんな単純なことに気付かなかったのか。
 そう思ったときには、太一を取り巻いていた眠気は全て吹っ飛んでいた。

「鷲宮、鴻巣、鶴川、千歳烏山……いや、とりあえず駅名から離れよう。どんどん遠のいてる気がする」

 衝撃的な閃きから実に二時間。ときおり足を組み直したり、首を回したりはするものの、帰宅時から座る位置に変化はない。
 これが超集中状態の椎名太一という男であり、春香に電話するという最も簡単な解決策に気付けない程度には自分の世界に入り込んでいるのだ。
 しかし、そんなエンペラータイムは諸刃の剣。ちょっとしたきっかけがあればすぐに崩れ去ってしまう。

 『こらっ、太一! 空けなさい!』

 鬼婆の登場である。
 壁を挟んでも分かる騒々しい足音を響かせて階段を駆け上り、ドアの前に立てばインターフォン――というなの単なるブザーに目もくれず扉を力いっぱい叩く。そして、ドスの利いたハスキーボイスが遮蔽物をぶち破る。
 これには流石の太一ワールドも跡形もなく崩壊。途切れた集中力が再び繋がる目処は一切ない。
 太一は深い溜息を吐き、やれやれといった具合に帰宅してから初めて立ち上がった。

「なんすか? おばちゃ……じゃなくて、真理亜さん」
「あんたは出てくんのが遅いんだよっ!!」
「痛って!」

 相対早々、真理亜の鉄槌が太一の後頭部に直撃する。
 おばちゃんと言いかけたことが原因か、はたまた言葉通り応対が遅かったことが原因か。どちらにしても、真理亜のテンションは限りなく限界に近い。
 短い付き合いながら、太一はこうなってしまった彼女に反抗する術がないことを知っており、理不尽なゲンコツへの反抗心を無理やりに押さえ込んで真理亜を見る。
 すると、真理亜は割烹着のポケットへ手を突っ込み、なにやら四つ折のプリントを取り出したではないか。

「はい、これ。あんたの就職先だよ」
「い、いや、いきなりそんなこといわれても……こんな紙切れ一枚で決まる俺の人生って……」
「いいから早く見なさいよっ!!」

 ぶつぶつと文句をたれる太一を、真理亜は右手を振り上げて玉砕。また殴られては堪らないと、太一は素直に折られたプリントを開く。

「天使のお仕事……?」

 まず最初に目に入ったのは、プリント上部にでかでかと書かれたキャッチコピー。字体はポップ、色はショッキングピンク。文字の周りにはファンシーな動物が数匹書かれている。
 どことなくいかがわしい印象を受けてしまうのは太一だけではないはずだ。

「俺に夜の蝶になれっていってんの?」
「馬鹿いってんじゃないよ! 保安局の求人だよ、保・安・局!! ちゃんと読みな」
「へ?」

 このフォントからはまるで予想できない単語を聞き、太一はプリント下部へと目線を落とす。
 キャッチコピーの下には緑色の線で括られた枠があり、枠内には募集要項が簡易的に記載されている。
 とはいえ、フォントがポップに統一されてしまっているゆえ、いががわしさは拭い去れない。真理亜からの強烈なプレッシャーがなければ、内容など読まずに捨てていただろう。
 正面からの禍々しいオーラに若干の胃痛を感じながらも、太一はプリントをしっかりと読み進めていく。
 ここでも役立つのが大学受験時に身に付けた早読みスキルだ。何度もいっているが、結果が付いて来なかった以上は皮肉以外のなんでもない残念なスキルである――
 太一は流れるように双眸を泳がせ、ものの数秒で募集要項、ならびに企業紹介までを読破する。

「月宮本土保安局……」
 
 一見して高時給求人の怪しい広告にしか見えないそれは、真理亜の言うとおり保安局の求人に嘘偽りない。また、未経験者歓迎やヒューマンスキル重視という項目を見るに、彼女が声高らかに太一の就職先といったのにも頷ける。
 なんの資格も経歴もない太一にとって売りにできるものといえば、精々やる気と熱意だけ。その点、この月宮本土保安局という局は、そんな内面的なところを重視してくれると書いてあるのだ。
 まさに今の太一に打って付け、こんなに条件が合致する求人は他にあるものか。
 太一とて自分の境遇の悪さには自覚がある。故に、この求人に応募したいという気持ちが芽生え始めている。
 が、太一の耳に届くのが少しばかり遅かった。

「いや……俺、他に入りたい局みつけたんですよ」

 プリントを折り直しながら、太一は言葉を紡ぐ。その表情はどこまでも真剣だ。
 今はまだ思い出せないが、あの脳裏を過ぎった閃光は間違いなく本物に違いない。
 神はいっている、真由美と同じ職場で働けと――

「ほう。いったいどこの局だっていうんだい?」
「うっ……そ、それは」

 太一の表情、声色ともに真剣であることを感じ取った真理亜もまた真剣な表情で聞き返す。
 もし本当に見付けていたとしたら、それはそれで悪いことではない。この流れに身を任せてばかりの男が、少しは自律できたということだろう。
 紀光たちには悪いが、そればっかりは本人の意思を優先してやりたい。
 本心からそう思ったのだが、どうにも太一の返答は歯切れが悪い。

「なんだい……あんた、嘘ついてるんじゃないだろうね?」
「ち、ちがう! これはその……あれだ、タイミング。そう、タイミングが悪いだけ! たまたま、偶然、間の悪いことにド忘れしちゃっただけですって!」
「はぁー……」

 期待した自分が馬鹿だった。真理亜の口からは自然と大きな溜息が溢れてしまう。
 そんな呆れ返る真理亜を余所に、太一は閃いたといわんばかりの表情で言葉を続ける。

「そ、そうだ! 真理亜さん知らないっすか? あの真由美ちゃんっていうちっこい女の子の働いてる、なんか鳥っぽい名前の保安局」
「あ?」

 太一の早口で畳み掛ける言いに、真理亜の記憶が刺激される。
 小さな女の子というのには心当たりはない。しかし、鳥の名前のつく保安局ならば心当たりがある。
 おそらく太一が訊いているのは、鳩山本土保安局のことであろう。

「そこの誘導員があんたの担当だったのかい?」
「ええ。どうせなら同じ職場がいいなぁなんて思っちゃって」

 確かに、初めての就職先に知人がいるというのは心強いことだろうし、本当に募集を掛けているのならば背中を押してやるべきなのだろう。
 だが、問題なのは志望先が鳩山ということだ。
 決して悪いところではないし、むしろ悪い話を聞く方が少ない。また、強面なのを除けば局長である鳩山はとてもできた人間である。
 ただ、真理亜の中にある鳩山本土保安局のイメージと太一のイメージとがどうしてもマッチしないのだ。というよりも、太一をそんなのびのびと仕事のできる環境に置いてしまえば、きっとこの男は成長しない。甘えきって、腐ってしまう。
 仮にも真理亜は太一の中に秘められたなにかを見つけているのだから、それを知ってて安易な道を選ばせるわけにもいくまい。ならば、逆境の月宮に放りこんで、ひぃひぃ言いながら仕事をした方がよっぽど期待に応えてくれる。
 そう考えた真理亜はゆっくりと口を開く。

「悪いけど、あたしゃ知らないね」

 太一には申し訳ないが、ここは白を切るべきところだ。
 だが、真理亜の心中などお構い無しに太一の思考は回転する。
 
「そっか……んじゃ、あとで春香さんに電話して訊いてみます」

 先の瞑想中に出てこなかったのに、なぜだかこういう場面になるとすんなり思い付いてしまうのだから人間とは不思議なものである。
 知りたかった情報を尋ねた人間から訊き出せず、即座に次の方法を考える。これこそ太一が頭の回転が早いとされる要因の一つなのだ。
 しかし、真理亜にしてみればたまったものではない。もし春香に電話されてしまえば、太一の望む情報はいとも簡単に手に入ってしまう。
 担当誘導員から担当カウンセラーへの引継ぎは必須項目であり、それを抜いたとしても真面目にやっいるカウンセラーならば各保安局の知識くらいは持ち合わせている。
 
 真理亜の背中に冷たい汗が伝う。
 太一より先に電話して春香に釘を刺すか――否、それは不可能だ。
 現在地は太一の部屋の前であり、真理亜が電話を掛けるにはいったん階段を下りて自室の固定電話へと走らねばならない。太一の性格を考えれば、きっと真理亜と別れた瞬間に電話を掛けてしまうはず。そう考えると、いくら走ったところで間に合うかは微妙なところ。
 仮に間に合ったとしても、こんな素朴な問いを突っぱねる理由がなさ過ぎる。いくら真理亜の命令といえども、流石に担当誘導員の在籍する保安局を尋ねられた程度の質問でお茶を濁すわけにもいくまい。
 だったら、ゴリ押してでもこの場で太一の希望を捻じ曲げた方がよっぽど現実的だ。
 
「名前が思い出せないってことは、あんたの覚悟はその程度なんだよ。そんなあやふやな所で働くよりも、こっちにしときなって」

 漠然として非合理的、自分でも分かる苦しい言い分だ。
 当然、太一の表情も歪む。
 だが、ここで引くわけにはいかない。
 真理亜は太一から四つ折のプリントを奪い取り、それを展開。再度開かれたプリントを太一の顔面すれすれに翳す。

「いいかい? ここは資格とかいらない上に書類審査もないんだ。今のあんたが入れるとこっていったら、この月宮本土保安局くらいしかないんだよ!」
「で、でも――」
「お客の女の子!!」

 太一の反論を掻き消す真理亜の一言。それは凄まじい破壊力を持って太一の胸に突き刺さる。
 
「もう情報は掴んでるんだ。あとはあんたが結果を出すだけさ」
「い、いやそれなら……」
「女は待っちゃくれないよ。あんたがとろとろ就活してる間に恋人の一人でもできないと思ってんのかい? 寝言は寝てからいいなよ」

 真理亜のもっともらしい言いに、思わず太一は口を噤む。
 その間も真理亜は太一を睨みつけ、辛辣な空気を演出。やがて、空気に耐えかねたのか深い溜息と共に太一は口を開く。

「わ、分かったよ……とりあえずその月宮ってとこも受けてみます」
「あぁ」
「でも、真由美ちゃんのとこも諦めたわけじゃないっすよ? 同時進行でやって、もしそっちが受かったらそっちにいきます。あくまでも第一志望は真由美ちゃんのとこ!」

 これ以上の深追いは厳禁、ここらが引き際だろう。
 真理亜は安堵の溜息とともに、小さく首を縦に振る。
 危ないところだったが、間一髪のところで最悪の事態は免れた。まさか太一がこんなキーラーパスを用意していたなど思いもしなかった。お客の女の子という切り札がなければどうなっていたことか。改めて自分の話術を賞賛したい。
 とはいえ、相手はあの太一だ。月宮より先に春香へ電話してしまうのは目に見えている。そして、情報を手に入れた彼は真理亜との約束をじりじりと引き伸ばし、自分の衝動を優先してしまうだろう。
 もう一押し、なにか決定打が必要だ。

「とりあえず、今すぐ月宮に電話しなよ。あんたのやるは当てにならないからね」
「ん、へ?」

 素っ頓狂な返答をする太一をみて、真理亜は自分の予想が間違っていなかったことを確信する。
 やはり、鳩山を優先するつもりだったのだ。
 一方、考えを見透かされてしまった太一は苦笑。なんとかこの場を切り抜ける策を探す。

「え、えっと……プ、プリペイドの残高があんまないので……」
「ほう。じゃあ、あたしんちの電話を使っていいよ。さ、付いて来な」

 ドアの前で苦笑する太一の手を強引に引き、真理亜は階段へと進む。
 抗えない馬鹿力に引かれ、太一はなす術もなく管理人室へと連れ込まれるのだった。

♦︎♦︎♦︎

 狭い事務所内に響く電話の音。何処にでもあるようなチープな電子音だ。
 しかし、ここ月宮本土保安局に於いて電話が鳴ることは珍しい。
 昨今、案件のやり取りはメールが支流になっており、余程の緊急案件ではない限り組合から電話が鳴ることはない。また、駆け出しの保安局に緊急案件が振られるわけもない。
 ゆいいつ電話が鳴るとすれば、現場に出ている浄土誘導員からの報告が考えられるが、それすらも最近はメールでやり取りしている。
 理由は単純。現在の月宮は人手不足ゆえ、いちいち電話を取っている余裕がないのだ。もし掛かってくるとしたら、余程のイレギュラー事態か、紀光あたりの単なる暇つぶし。
 もし後者だとしたら今日という今日はきつく説教してやろう。薺はそんなことを胸に秘め、受話器を持ち上げた。

「はい、月宮本土保安局」
『も、もしもし、えっと……求人広告を見てお電話したんですが』

 電話越しに聞こえるのは若い男の声。落ち着きがなく、なよなよしていて、聞いているだけで腹立たしい。
 まずは名を名乗れ。それがビジネスマナーというものだ。
 この時点で薺からのこの男への印象は最悪。いっそ電話を切ってしまおうかとさえ思ってしまう。
 しかし、彼は今なんと口にしただろうか。
 求人広告。そんなものを出した記憶は薺にはない。しかしながら、今こうして問い合わせがきているということは、紀光がなにかしらのアクションを起こしたのだろう。つまりは、紀光が昨日いっていた宛からの連絡に違いない。
 ならば、この男も紀光に唆された被害者。彼の適当ぶりを知る者としては、ここで邪険に扱うのもいささか不憫というものだ。せめて名前くらいは聞いてやろう。
 局長として、大人として、薺は電話口の男の応対を決意する。

「お電話ありがとうございます。お名前と年齢を教えてください」
『し、椎名太一、十八歳です!』

 予想通りでかなり若い。この年齢を考えれば多少の緊張は仕方のないものか。
 だが、薺の脳裏には新たな疑問が浮かぶ。

「失礼ですが、どなたのご紹介で?」

 紀光の知り合いにこんな若者がいるとは思えない。彼の私生活を知る尽くしているわけではないので断定は出来ないが、そんな都合の良い知人がいるのならとっくに紹介されていても可笑しくはないのだ。なにせ、まともな休みも与えてもらえない保安局なのだから。
 そもそも、紀光の性格を考えるに直接的な知り合いならば、一度電話させてからなどというまどろっこしいやり方を取るとも考え難い。彼ならダイレクトに局へ連込み、いきなり『今日からここがYouの職場だぜ』とでもいい出しそうなものだが。
 そう考えると、紀光の直接的な知人というよりは、間に誰か挟んでの紹介だと考える方が自然だ。
 現在の月宮本土保安局の味方は少ない。そんな中で月宮に人材を紹介してくれる仲介人。相手によっては慎重に対応せねば、ただでさえ少ない味方を失い兼ねない。

『あ、それは、えっと……』
『なにつべこべやってんのさ! もっとしゃんとしなって!』

 薺の問いに電話口の男は詰まり、それに対し後方から苛ついた声が飛んでくる。
 入り乱れる二つの声。普通の企業であればこの時点で即切電だろう。

『ちょっ、黙っててよ! 今なんて説明したもんか考えてるんだから!』
『あ? 紹介者の名前でも訊かれたのかい?』
『お、驚くべき洞察力!』

 受話器の向こうで繰り広げられるコントに薺は呆然。口を挟む隙も与えられず、ただただ聞こえてくる音声に耳を傾けることしか出来ない。

『俺、おばちゃんのフルネームとか知んないし、どうやったら上手いこと伝わるか考えてんの!』
『おばちゃんって……あんた!! もういい、貸しなっ!』

 ようやく折り合いが付いたのか、乱れていた音声が元に戻る。どうやら元々電話口に立っていた男は受話器を奪われてしまったようだ。
 就職面接の問い合わせで、なんという有様。これでは息子の会社に母親が乱入するという都市伝説と同じではないか。よもや自分の保安局にこんなみっともない志望者が来ようとは、流石の薺でも思うまい。
 これは迷う必要はない。こんな甘えきった小僧に月宮の激務、もとい浄土誘導員が務まるわけがない。いくらなんでも酷すぎる。
 薺は丁重にお断りしようと言葉を模索する。
 が、しかし――

『久しぶりだぁね、ナズナ』

 薺の考えが固まる前に、受話器の向こうからはしゃがれ声が飛ぶ。
 声は薺の鼓膜を激しく震わせ、その振動はいとも簡単に脳へと到達。まるで銃で打ち抜かれたかのような衝撃をもって思考回路を停止する。
 
「ま……りあ……さん……?」

 やっとの思いで搾り出した声は、か細くてなよなよしい。これでは電話口の男を馬鹿に出来たものではない。
 記憶の深くに巣付く暗い闇。停止してる思考とは裏腹に、目まぐるしく駆け巡る感慨。

 ――なぜこの人が、なぜ電話の向こうに、なぜ、なぜ、なぜ。

 薺の脳裏を駆け巡る謎。
 それは凄まじい早さで増殖し、すぐに脳の許容量を越えてしまう。溢れ出した謎は空気となり、喉の置くから込み上げ、口の中を熱で満たしていく。
 完全に予想外。気付けば、薺は下唇を強く噛み締めていた。
 そんな変化に気付いたのか、電話口に立つ女――真理亜はそのしゃがれた声からは想像できないほど優しい声色で言葉を続ける。
 
『声聞いただけで分かるなんて、流石はナズナだね。あたしゃうれしいよ』

 真理亜の言葉に嘘偽りはないだろう。電話越しではあるが、旧友との再会を喜んでいる姿が目に浮かぶ。
 薺とて彼女との再会が嬉しくないわけではない。たくさん迷惑をかけ、たくさんお世話になった。それはもう言葉では言い表せないほど感謝している。
 だが、いくら感謝したところで彼女に掛けた迷惑は消えない。どれだけ謝ろうとも、真理亜は本来あるべき場所に戻れないのだ。

 薺の胸は嗚咽さえ許さないほど強く締め付けられ、肺はその役割を放棄。空気の供給が止まった喉は言葉を紡ぐことさえ出来ない。
 出来ることといえば押し黙り、真理亜の次の言葉を待つことだけ。
 懺悔することも、泣き付くことも、今は許されない。
 せめて、なにを言われてもいいように心構えだけはしておこうと考えた薺は大きく息を吸った。

『それはともかく、あんたんとこ新人募集してんだろ?』
「は?」

 真理亜に限って自分を責めることは言わないだろうと思ってはいたものの、流石にこの切り替えしは想定外。薺は呆気に取られてしまう。久しぶりの会話、ここは思い出話に華を咲かせる場面ではないだろうか。
 確かに元々は求人の問い合わせではあったが、この流れでいきなり話を戻すなど、いったいどういう神経をしているのかと疑問になってしまう。
 しかし、真理亜の奇襲はこれだけでは済まない。薺がなにも言い返さないことをいいことに、次々と言葉を捲くし立てる。

『ちょうどいい子がいるからさ、あんたんとこで雇いなよ。馬鹿で甘ちゃんで世間知らずだけど、磨けば絶対に光るからさ』
「え、い、いや」
『面接は明日でいいかい? この子、夜勤があるから日中にしてもらえると有難いね。あ、持ち物は履歴書だけでいいかい? なにぶん職歴なんかない子だから職歴書なんか書けやしないよ。でも、そのぶん将来性は保証するさね。あたしが保証する』
「そ、そうじゃなくて」
『うーん、じゃあ明日の午後一時に行かせるから準備しといてくれよ。何度もいうようだけど本当にいい子なんだから。それじゃぁね』

 一方的に言いたいことだけを押し付けて、真理亜は電話を切ってしまう。受話器からは虚しく切電音が響く。
 独り感傷に浸っている間に全てが終わってしまった。否、例え思考回路が正常だったとしても口を挟む隙はなかっただろう。
 それは、さながら嵐のごとく――

「こ、こんなの断れる分けないだろうがぁぁぁぁ!!」

 声を荒げ立ち上がり、薺は受話器をデスクに叩き付けた。
 
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