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第二章.浄土誘導員のあれこれ

§2.少年は大人の事情に関与する1

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 視界はぼやけ、思考は沈む。
 見えない力に引かれた瞼は、繋がっていた意識と現実を断絶する。
 抗えない衝動。次第に体からは力が抜け落ち、浅く掛けた椅子の背もたれに全体重を預けてしまう。
 唯一、仕事をしているのは首だけで、それさえも既に紙一重。ぎりぎりの力で頭を支え、ときおり油断したのか右へ左へ頭を揺らす。
 こくり、こくり。ゆらり、ゆらり。
 月宮薺つきみやなずなは眠りへと落ちていく。

「たっだいまぁ~」

 静まり返った室内に響く男の声。勢い良く開かれたドアの音に反して、男の声はどこか気の抜けたものだった。
 ともあれ、今の薺の精神状態は浮遊中。如何に男の声がやる気を欠いていようとも、彼女の思考を現実に呼び戻すきっかけには充分だろう。
 もはや聞き慣れてしまったくたびれたドアの音と、男の声に気を引かれ、現実と夢の狭間を彷徨っていた思考は元あった場所にあっさりと回帰。そして、大きく深呼吸をして平常心を取り戻す。

「ん……もうそんな時間か」

 色を取り戻した視界に佇む猫背の男。金色のショートヘアとガラの悪いサングラス。加えて、にやにやと薄ら笑いを浮かべるその姿は、未だ本調子ではない思考回路でも彼が自分の部下であることを正確に伝達する。
 久保紀光くぼのりみつ。薺が局長を務める本土保安局所属の浄土誘導員の名であり、同時に現在デスクを挟んだ真正面で薄ら笑いを浮かべている男の名だ。

「ありゃりゃ~? もしかしてぇもしかしてだけどぉ~、ナズナちゃん居眠りぶっこいてたんじゃなぁ~いの?」

 紀光はイヤらしい笑みを崩さずに、身を乗り出して薺の顔を覗き込む。
 一方の薺はというと、ずばり言い当てられてしまい思わず顔が引きつってしまう。
 とはいえ、薺はこの保安局の局長だ。部下が今の今まで現場に出ていたというのに、当の自分は居眠りしていたなど流石に示しがつかない。また、こんな皮肉な言い回しをされてしまったとあらば、素直に認めるのも憚られる。
 薺は浅く座った体勢を急いで整え、毅然とした態度で紀光に応答する。

「馬鹿をいうな。居眠りなど有り得ん」
「あひゃひゃ、涎の跡ついってまからねぇ~」
「うっ……」

 ぐうの音もでないとはこのことか。薺は頬を赤らめ、急いで口元を拭う。
 そんな彼女の動作を紀光は指を刺して笑う。

「いいから、お前は早く報告書を作成しろ!」
「へいへい」

 声を荒げる薺を軽く流し、紀光は部屋の奥へと歩を進めていった。

 狭い室内にはデスクが三台。薺の座る一回り大きい物を中心に、少しのスペースを空け残り二台の正面を縦付けする形で配置されている。
 この三台のデスクが主なワークスペースであり、紀光が今しがた薺に指摘された『報告書』の作成を行なうであろう作業場である。
 しかし、紀光が向かった先はデスクではなく、その奥。
 室内の半分を占めるワークスペースとは一転、パーテーションで区切られたその先には、本皮使用のソファがガラステーブルを挟んで二脚置かれている。恐らくは応接スペースだろう。
 紀光は窓側に面して配置されたソファに腰を落とし、ワイシャツの胸ポケットからタバコを取り出す。もはや条件反射といっても過言ではないほどの流れる動作で、タバコの箱の側面を軽く叩き、黄土色のフィルターを拵えたタバコを一本口に運ぶ。

「おい。タバコは外で吸えといっているだろうが」

 まさに火を点ける寸前、紀光の鮮やかな動作は薺の一言で静止。思わず苦笑する紀光は無言でタバコを箱の戻し、のそのそと立ち上がり薺の元へと歩み寄る。
 喫煙者としては屈辱的ともいえるお預けを喰らったことについて、文句の一つでも言うつもりだろうか。
 とはいえ、昨今の喫煙マナーを考えるに薺の言いは間違っていない。本土のみならず浄土でも、吸わない人への配慮は喫煙者の義務なのだ。

「ナズナちゃんさぁ~……白髪ふえたよねぇ」
「なっ!?」

 まったく見当はずれの物言いに薺の表情は一瞬にして凍りつく。
 確かに、薺の髪の毛に数本の白髪が混じっているのは事実。しっかりと整えられたセンターパートのショートヘアは元が綺麗な分、そこの混じった異物を如実に表してしまう。薺とてそのことは痛感しているし、まだ三十歳を過ぎたばかりの彼女にとって悩みの種でもある。
 しかし、なぜそれをこのタイミングで言われなければならないのか。なんの脈絡も無い、室内禁煙をいい渡された復讐にしてもあまりに辛辣だ。
 不意打ち過ぎて判断力が追いつかなかったが、こうしてじっくり考えてみると、ふつふつと怒りがこみ上げてくる。

「お前なぁ……仕返しにしては陰湿すぎるぞ」
「んにゃぁ、そんなつもりじゃないよ。ナズナちゃん、ちょっと無理しすぎなんじゃないかな~ってさ。ほら、さっきだって居眠りしてたわけじゃん?」

 確かに、先の居眠りやここ最近で増えてしまった若白髪を見れば無理をしているように見えてもおかしくはないし、薺自身そんなことは重々承知のことだ。
 しかし、今は体が悲鳴を上げようとも、白髪が増えようとも、止まるわけにはいかない理由がある。

「今が踏ん張りどきなんだ。すまないが辛抱してくれ」

 この保安局を立ち上げて八ヶ月。碌な休みもなく、ただ愚直に仕事へと打ち込んできた。
 その結果、景気が良いとはいえないにしても、少しずつ案件が増えてきているのは事実。ここでペースを落としてしまえば、こつこつと積み上げてきた信頼が崩れかねない。 
 元より初期状態からハンデを背負った保安局ゆえに、ここでの行動が今後に影響することは目に見えている。せっかくマイナスだった評価が上昇の兆しを見せているのだから、この機会を逃すなどあってはならないのだ。

「うん。そのスタイル自体は共感してるからいいんだけどさ、やっぱ三人じゃ限界きてると思うんだよねぇ~」
「ああ……無理をさせているのは本当に申し訳なく思っているよ」

 自分が無理をして保安局を盛り上げているということは、同時に局員にも無理を強いているということになる。無論、薺とてそのことに気付いていないわけではない。
 結局のところ、薺がどれだけ努力しようとも、実際に現場へ出るのは浄土誘導員であり、彼らの努力で報酬を得ることが出来るのだ。もちろん、薺が局長としてしっかりと案件の管理をしているからこそ現場の人間が全力で働けているのではあるが、やはり浄土誘導員あっての保安局である。
 故に、申し訳ないと思いながらも彼らには無理をしてもらわなければならない。

「いやいや、ナズナちゃんのためなら馬車馬のように働くよん。ペシペシ尻叩いてくれたっていいんだじぇ?」
「やめろ、気持ち悪い」
「あぁん、もっと罵って!!」

 心苦しさに押しつぶされそうな薺へと突き出された紀光の尻が、しんみりとした空気をぶち壊す。
 とはいえ、セクハラ問題的なところは置いておくとして、彼のこういった能天気さに救われたことは事実だろう。
 薺は気持ちを切り替えて、紀光へとまっすぐ視線を投げる。

「で……回りくどい言い方はよして、そろそろ本題に入ったらどうだ? 報告書だって作ってもらわねば困る」
「ふぅ~、マジメちゃんだねぇ。ま、そういうところもチャーミングだけどね」
「いいから早くしろ!!」

 ことごとくチャラけた態度を崩さない紀光に、薺もついつい声を荒げてしまう。
 人が下手に出ればすぐこれだ。本当に現場で上手くやれているのかが不安で仕方ない。この時期に組合からのクレームだけは避けてもらいたいものだが――
 と、そんな薺の心配を余所に、紀光はまったく悪びれない態度のまま口を開く。

「いやさ、最近ぼちぼち案件も増えてきてるわけじゃない? ぼちぼち人増やしてもいいと思うんだよね。現に、複数対応とか効率わりぃことやるくらいには案件あるんだし」

 複数対応とは、一人の誘導員が複数の案件を担当することを指す。
 例えば午前中はA区で対応し、午後はB区で別の対象者を対応するといった具合に、一日に複数の対象者を誘導する、いわゆるリスト式の誘導方である。飛び込み営業などでは当たり前のやり方ではあるが、誘導員の業務は営業のように見切りを付けて次へ行くといった配分が難しい。
 対象者とのやり取りが拗れることなど日常茶飯事だし、そもそも迅速に誘導しなければならない業務ゆえに見切りを付けるという考え方自体があまりよろしくない。
 誘導員側にしても、対象者によって抱えている問題がばらばらなだけに現場毎での気持ちの切り替えが必須。複数対応をする誘導員には相当なメンタルの強さが要求される。
 以上のことから、よほどの人手不足か超ハイスペック誘導員の在籍する保安局以外は、複数対応スタイルをまず取らない。誘導員一人につき、対象者一人というのが普通なのだ。

「ヒナちゃん、今日も直行直帰っしょ? いい加減ぶちギレられても文句はいえないぜ?」
「うっ……確かに、否めなんな……」
「でしょでしょ? コンスタントにこの案件数くるなら人経費的には大丈夫だって!」

 薺が怯んだと判断し、紀光は一気に畳み掛ける。
 しかし、薺は顔を顰めるだけで、一向に頷いてはくれなかった。

「養成所がうちにまともな人材をくれるとは思えんな……」

 現状で欲しいのは即戦力であり、新人教育に割く時間はない。
 認めたくはないが、駆け出しの保安局では案件同様に人員の補充すらまともに行なえないのが事実。せいぜい、成績下の中といったところが関の山だろう。
 そして、なにより薺と後生支援組合の関係が問題だ。

「あぁ……ナズナちゃん組合に嫌われてんもんね」
「……」

 薺は答えない。
 否、答えたくはなっかた。
 認めていないわけではないが、全てを認めるにはやり残したことが多すぎる。

「でも、味方がいないわけじゃないじゃん。少ないながらも真相を知ってる人はいっからさ」

 感傷に染まる薺の思考を切り裂く、底抜けに明るい声。
 少なくとも今目の前にいる人間は自分の味方だと思える、そんな優しさを秘めていた。

「この際、贅沢はいえんか。資格持ちは諦めて、ヒューマンスキル重視で募集を掛けよう」
「おぉ!!」
「求人誌に記載するのはちと面倒だな……ノリ、宛はあるか?」
「オレに任せんしゃい!!」

 底抜けに明るい紀光に感化されてか、薺の表情も明るい。
 このようにして複雑な過去を抱えた女の保安局は廻っているのだ。
 そして、このようにして『月宮本土保安局』の人材獲得作戦はスタートするのだった。

♦︎♦︎♦︎

 つい先日までの寒さはどこへやら。
 四月も下旬に指し掛かろうかという浄土の気候は、まるで春を忘れてきたかのような日差しが降り注ぐ。これも年々温暖化が進んでいるなによりの証なのだろうか。
 とはいえ、寒いよりは幾分もマシだ。
 オンボロアパートである『ウッドストック』にとって、冬とはまさに天敵。経年劣化による隙間風、構造上に問題があるとしか思えない壁の薄さなど。あらゆる面でこのオンボロは冬との相性が悪い。
 暖房器具で凌げないわけではないのだが、やはり金銭的な面を考えると表情が引きつってしまうのも致し方あるまい。
 最近入居してきた若造など、そもそもの金銭的余裕を持ち合わせておらず、室内でもコートを着て過ごすといった暴挙に出ている。内心では不憫に思いつつも、ヒーターを購入しない本人の責任だと割り切ってはいたのだが。
 ともあれ、そんな光景も目にしなくなった四月下旬。春の陽気――むしろ夏の訪れさえ感じさせる昼下がり。部屋で独り、物思いに耽っていた真理亜の元に思わぬ来訪者が訪れた。

「……あんたが来るなんて、どういう風の吹き回しだい?」

 テーブルを挟んで真理亜の正面に座る男。金髪にサングラス、真理亜の感性からいってお世辞にも趣味が良いとはいえない菊の花が描かれたシャツ。さながらどこぞのチンピラといったところだ。
 普通の人間なら、こんないかにもな人相をした男に来訪されては、例え後ろ暗いことがなくとも震え上がってしまうことだろう。
 しかし、そんないかにもな男を前にしても、真理亜の態度は毅然としている。

「つれないねぇ~。それがカウンセラーのいうセリフ?」
「元だよ、元。あんた、それ知っててわざといってんだろ?」
「あひゃひゃ、おばちゃんも相変わらずだねぇ。安心したよ」

 多少の棘はあるものの、親しげに会話をする二人。
 軽口めいた言いをする男と律儀にもしっかりと応対する真理亜。テーブルこそ挟んでいるものの、二人の内面的な距離は非常に近しいものだと分かる。

「まったく……その阿呆丸出しの口調……あんたも相変わらずってこったね」

 心底呆れた様子で言葉をこぼすと、真理亜は彼にお茶を振舞うべくキッチンへと移動する。
 こんな風貌でも一応は客人であるのだから、お茶くらい出さねば年功者のとしての威厳が廃ってしまう。相手がどれだけの無礼者だろうとも、真理亜にとってそこだけは譲れないところなのだ。
 そんな真理亜の気持ちを知ってか知らずか、男は更に追い討ちをかける。

「あ、おばちゃん! コーヒーだったら砂糖増し増しのあんまぁぁぁいやつね」
「――っ!!」

 これには流石に真理亜も苛ついたのか、お茶の準備を一時中断。キッチンから即座に踵を返し、男へと肉薄する。そして、同時に振り上げた右手を全力で男へと振り下ろす。
 が、結果は空振り。真理亜の右手は物の見事にかわされてしまい、空中に虚しい弧を描く。
 一方の男はというと、軽く身を捩っただけで姿勢を一切崩していない。それどころか、真理亜の攻撃など眼中にないといわんばかりに不敵な笑みを浮かべているではないか。

「ちっちっち、浄土誘導員をナメてもらっちゃ困んぜ? ハズしてもいねぇババァの張り手なんぞ目つぶってたって避けれるっつ~の」

 人差し指を横に振り、相変わらずふざけた口調で真理亜を煽る。
 しかし、ここで怒りに支配されるほど真理亜も馬鹿ではない。彼のいうことはもっともなのだ。
 なにより、真理亜はそのことを誰よりも理解している。
 カウンセラーとして浄土誘導員を誰よりも身近で見てきた真理亜だからこそ。

「はいはい、あたしが阿呆だったよ。それで、その浄土誘導員様が組合から干されたあたしなんかになんの用だい?」
「あ~……本題に入る前に、コーヒー早くしてもらえますぅ~?」
「……」

 本当はぶちのめしてやりたいが、ここはぐっと我慢。真理亜は口をきつく結び、お茶の準備を再開するのだった。

 ――浄土誘導員。
 それは真理亜にとって切っても切れない関係にある職種だ。
 彼女が今こうしてオンボロアパートの管理人をしている理由。可愛がっていた部下に深いトラウマを植え付けた理由。信頼していた人間の人生を台無しにした理由。その全てに直結している。
 そして、それはこの男も例外ではない。
 男――久保紀光は第一線で活躍する誘導員の一人であった。案件解決率も上々、豪遊とまではいかないにしても、多少の贅沢ならば許される程度には報酬を獲得していたと記憶している。
 しかし、今はどうだろうか。
 確かに、風貌としては変わりはない。が、真理亜にはどうしても全体的なグレードが落ちている気がしてならないのだ。
 くたびれたシャツの襟は相当に着込んだ証拠だろうし、美容院で染める金がないのか、自分でブリーチしたであろう金髪は所々ムラになっている。ゆいいつ異彩を放っている腕時計も、おそらくは当時に購入したもの。真理亜もなんとなくではあるが見覚えがあった。

「ままならないねぇ……」

 自分を含めた被害者たちの境遇を思い浮かべ、真理亜はつい独り言ちる。
 無礼者で、阿呆の極みのような紀光だが、彼も不必要な苦労を強いられているのだろう。
 そう考えると邪険に扱うのも憚られる。

「おばちゃんさ、あんたも相当損な性格してるよね」

 真理亜の心中を察したのか、彼女の独り言を聞いた紀光はキッチンで作業する背中に語りかける。
 どう言葉を返したものか、と悩んではみるものの中々望む回答が浮かんでこない。相手に対する言葉ならいくらでも出てくるのだが、自分のこととなるとカウンセラーはとんと弱い。
 そんな真理亜を助けたのは、ヤカンの音。タイミングよくお湯が沸いてくれたのだ。
 真理亜は手早く火を止め、準備しておいたコーヒーフィルターにお湯を通す。そして、それをマグカップに注ぎ、片方にはオーダー通りに尋常じゃないほどの角砂糖を投入。
 一見すると、ちょっとした嫌がらせにも思える量なのだが、紀光の好みがこの量だということは知っている。真理亜と紀光の付き合いはそれくらい長いのだ。

「それがカウンセラーの性分ってもんさね――ほら、激甘コーヒー」
「ういうい」

 コーヒーの準備に託けて、真理亜はじっくりと練った回答を返す。また、これ以上の苦手分野トークを打ち切るために丹精込めて入れたコーヒーを差し出して話の腰を折る。
 紀光も適当な相槌だけ返し素直にコーヒーを受け取ると、話を展開しようとはしなかった。

「それじゃ、聞かせてもらおうかい。あんたが今日来た理由ってやつをさ」

 なんだかんだで脱線し続けていたが、それもここまで。客人をもてなす環境が整ったとあらば、客人は自分の目的を遂行せなばなるまい。
 真理亜から送られてくる真剣な眼差しを受け、紀光はニヤついていた表情を一旦解除。コーヒーを一口すする。
 口に広がるコーヒーの味、砂糖の分量がピンポイントな件について思わず脱線したい欲望に駆られるが、ここで話を逸らさない程度には紀光も空気が読める。元より、今回の目的は自分が提案したものなのだから、失敗するわけにもいくまい。
 紀光はチャラけた誘惑を断ち切り、本題を話すべく口を開く。

「ナズナちゃんが保安局始めたのは知ってるっしょ?」
「あぁ。噂程度にはね」
「オレ、今そこで働いてんのさ」

 元カウンセラーの真理亜にとって、この程度は既知のことだ。また、紀光がそこの局員ということも少し驚きはしたが、元は二人とも同局の局員。決して有り得ないことではない。
 内心では旧知の誘導員が自身の局を立ち上げるまでになったか、と感慨深い気持ちになったしまうが、それを表に出してしまえばせっかく本線に乗った話が再び脱線し兼ねないだろう。それだけ避けるべく、真理亜は平然を装って会話を続ける。

「局名は……月宮本土保安局ってところかい?」
「ご名ぇ~答ぉ~。いやぁさ、オレももっとかっちょいい名前にしない? って提案はしたのよ? でもさでもさ、ナズナちゃんってば取り付く島無しなのよこれ!」
「んっうん! あぁ……それで、その月宮さんとこがどうしたんだい?」

 残念なことに結局話は脱線。だが、気を付けていただけあって真理亜の反応は秀逸だ。
 咳払いで紀光の注意を引き付け、その隙を突いて強引に話を軌道修正する。
 そんな真理亜のやり方に溜息を吐きながら、紀光は再度口を開く。

「その月宮さんとこなんだけどさぁ~、実は超絶ブラック企業らしいのよ。なんでも、局長含めて三人しか居ない局員がほぼ休みなしで、しかも日付が変わるまで働いてるんだとかなんだとか」
「ほお。そりゃまた可哀相なこったね」
「だしょだしょ? おかげさまであんなにプリチーだったナズナちゃんも白髪交じりの初老待ったなし!」

 またも話の方向が怪しくなってきたが、そこは真理亜が物理的に睨みを利かせ抑止する。ただ、紀光に悪びれた様子は一切ない。概ね、話の先をせがまれたから仕方しに続きを話す程度にしか思っていないのだろう。
 なんとも自己中心的な人間である――

(ナズナの白髪が増えたのもあんたのせいだね、これは……)

 ふとそんなことが頭を過ぎるが、口にしてしまえば脱線は免れないだろう。
 真理亜は浮かんだ苦労の風景を押し留め、話の続きを細則する。

「まぁいいや……それであたしはなにを協力すりゃいいんだい? まさかナズナの白髪染め手伝えってわけじゃないだろ?」
「イェス! 話が早くて助かるよん」

 脱線こそしたが、ここまで出たキーワードから紀光の要件は大方予想できている。その上で、真理亜はあえて『協力』という言葉を使った。
 結果、その言葉がピンポイントにハマったことの証として、紀光の顔には不敵な笑みが浮かぶ。まさに、この言葉を待っていたのだろう。

「我らが月宮本土保安局は事業拡大に伴い、一緒に働いてくれるベリーベリーキュートな仲間を募集しています! はい、これチラシね」

 右手でシャツの胸元を引っ張り、ドヤ顔のキメポーズ。そして、空いた左手でA4のプリントを差し出す。どこかアーティスティックなポーズではあるが、残念なことに真理亜の注意はプリントの方にしか向いていない。
 すばりスベってしまったわけだが、紀光は気にした様子もなく言葉を続ける。

「おばちゃん、誰かいい子いない?」
「ん? いないこともないね」

 渡されたプリントから顔を上げた真理亜は笑みを浮かべていた。それはきっと紀光が見せる不敵な笑みと同等。否、それ以上の怪しさを秘めていることだろう。
 脳裏に蘇る少年の姿。ここ最近、真理亜を困らせている張本人。
 それすなわち、『ウッドストック』の二○一号室に住まう現代っ子、椎名太一だ。
 お世辞にもキュートとはいい難いが、真理亜が彼になにかを見出しているのは事実。そして、そんな期待を背負った太一が彼女の保安局で働く。
 真理亜にとって、こんなに興味をそそることはない。少なくともカウンセラーを辞めてからは初めてだ。

 とはいえ、懸念事項が無いわけではない。
 プリントに記載されている簡易的な募集要項、その中に隠された不安要素。
 具体的には『学歴不問、未経験者歓迎、ヒューマンスキル重視で採用します』といった、どこぞのベンチャー企業さながら、ほぼ縛りが無いといっても過言ではない内容になっている。ゆいいつ縛りがあるとすれば『十八歳以上の心身共に健康な男女』という項目だろうか。
 しかし、その程度のことはなんの問題にもならない。
 そもそも、なぜ年齢制限を設けているのかといえば、単純に業務上どうしても運転免許が必要であり、免許を取得できる年齢が十八歳からになる。
 故の年齢制限であり、その辺りは本土の法律と遜色はない。
 実際のところは人員、人件費ともに余裕のある大手保安局は、十六歳から募集を掛けている場合もある。免許取得まで事務をやらせたり、現場に出す場合は免許所持の誘導員とチームを組ませたりと、大手ならではの余裕を持ったやり方だろう。ちなみに、紀光が以前所属していた局もそういったやり方を採用していた。
 だが、現状の月宮本土保安局はそうではない。事務を雇う余裕もなければ、二人で一つの案件を担当するなどもっての外。しかしながら、既存の誘導員だけでは回らない程度には忙しい。
 まさに四面楚歌。そして、そういった企業が求める人材は即戦力と決まっている。
 つまり――

「資格持ってなくてもいいのかい?」

 太一は誘導員に必要な資格を一つも持っていない。浄土に来てまだ二ヶ月しか経っていないため仕方ないといえば仕方ないが、即戦力を求める企業にとってこれは大きなネックになる。
 本来ならば浄土誘導員養成所にでも通って資格の取得を目指すのが順当なやり方なのだが、真理亜は諸事情からそれを良しとしなかった。太一としても資格取得までに数年も通うことを嫌がっており、その点では意見の相違がないのだが、結果的には茨の道となってしまった。
 なにより、太一は一度保安局の募集に落ちている。資格支援制度を導入した保安局ゆえに、無資格が直接的な原因とは一概にいえないが、できることなら次こそは決めて欲しい。
 故に、真理亜は事前に懸念事項を把握しておきたかった。

「そらぁ~資格持ちならうれしいけどさ、無理にとはいわないよ。つーか、ぶっちゃけその辺は期待してない」
「ほう。あの完璧主義者のナズナがよく納得してもんだね」

 紀光の言いはもっともで、真理亜の知人に資格を持て余している人間はいない。それ以前に、誘導員不足のこのご時世、そんな人間がいるとすれば他の保安局が放ってはおかないだろう。

「愛するオレからの頼みだもの……って、いいたいとこだけど……あんだけ組合に目の敵にされちゃどんな頑固者でも折れるって。養成所から送られてくる人材資料見たら、流石のおばちゃんでもおしっこ漏らしちゃうぜ?」
「あ、あぁ……そうかい」

 珍しく苦笑を浮かべる紀光を見て、真理亜は現状がどれだけ酷いものなのかを察する。
 自分も組合から干された身である以上は人ごとではない。現在進行形で管理させられているこのオンボロアパートがなによりの証拠だ。

 ともあれ、月宮本土保安局の皆様には悪いが、彼らの劣勢が今回ばかりはプラスに作用しているのは事実である。
 普通の保安局なら養成所の紹介をもらうところなのだろうが、月宮にはそれが使えない。また、それをカバーできるようなツテもない。組合から干された真理亜の元に紹介を求めている時点でそれは明白である。
 人材を欲しているのに宛がない。現在の月宮はそういった状況であり、逆になんの経歴もない太一にとってすれば千載一遇のチャンスなのだ。

「つってもさ、その紹介してくれる子ってメンタル強いの? 誘導員としてのメンタルもそーだけど、組合からうちへの応対もかなぁ~り辛辣よん?」

 紀光の言いはもっともで、現状の月宮と組合の関係は口が裂けても良好とはいえない。また、組合から案件をもらって仕事をしている立場上、下手に反抗するわけにもいかないという、まさに究極的板ばさみ状態。
 ただでさえストレスの多い職種に加え、上からの過剰すぎる圧力だ。仮に誘導員の素質があったとしても、すぐに耐え切れなくなって退職してしまう可能性は決して低くないだろう。
 そうなれば局の雰囲気は一気に最悪なものになってしまい、下手をすればあの頑固女が今後一切の募集を打ち切ってしまうことさえ考えられるのだ。

「ん~、そこはなるようになるとしかいえないね」

 しかしながら、真理亜の返答は適当なものだった。
 てっきり真理亜の紹介なのだから、その辺りは保証済みの人材だと考えていただけにとんだ肩透かしだ。
 これには流石の紀光も空いた口が塞がらない。

「うっへ、超ひとごとじゃん?」
「あたしは紹介するだけだよ。あとはあんたとナズナでうまくやんなよ」

 そう言って真理亜はプリントを四つ折にし、割烹着のポケットへと放り込んでしまった。
 この話はここで終了ということだろう。

「なんにしてもまずは会ってみなよ。どうせ面接するのはナズナなんだろ?」
「そうだけどさ……ま、いいか。根性なさそうならナズナちゃんが切るだろうし、今回はおばちゃんの紹介を信頼するとすんよ。不採用喰らっても恨まないでよぉ~」
「はいはい分かったよ。じゃあ、今日中に本人から連絡させるから、そっちも面接の準備すすめときなよ」
「あ~い、よろしくぅ~」

 軽い口調で返事をした紀光は残ったコーヒーを一気に飲み干し、立ち上がる。それを見た真理亜も一拍遅れて立ち上がり、せめて玄関まではと見送りに立つ。
 と、そのときだ。真理亜の脳裏にふと疑問が過ぎった。

「そういえば、局員は全部で三人っていったよね? あんたとナズナ、あとひとり誰だい?」

 太一のことを優先的に考えるあまりスルーしてしまったが、先の会話で紀光は局員は三人だといっていた。
 今この場にいる紀光と局長の二人には真理亜も面識があるゆえ、ぱっと顔も思い浮かぶ。しかし、もう一人が分からない。
 養成所も使えない、人望も薄い、それでいて駆け出し。そんな局に入る物好きのビジョンが、真理亜にはどうしても思い浮かばなかった。

瀬川日向せがわひなた。おばちゃんも知ってるっしょ?」
「っ!?」

 玄関口へと移動し、靴を履き終えた紀光が振り向き様に放った言葉――正確にはそこに含まれていた名前が真理亜の思考を激しく揺さぶる。
 故に、真理亜は咄嗟に返事ができなかった。

「ありゃ? もしかして忘れちゃった系? ひっどいなぁ~」
「わ、忘れちゃいないよ。あれだろ? 昔ナズナが誘導した子」

 珍しい反応を見せる真理亜に面白がった紀光は皮肉めいた言葉を掛けてみるが、真理亜の反応はいまいち。皮肉を言われていることに気付かず、馬鹿正直な回答を返すのがやっとだった。

「ん。そのナズナちゃんが連れてきた子が、今うちの三人目にして稼ぎ頭なわけよ……って、あれ? なんか表情引きつってね?」
「き、気のせいだろ……」

 真理亜は右手で頬をこねくり回し必死に平然を取り繕う。
 そんな姿を紀光は苦笑でしばし眺めるが、すぐに見飽きて踵を返す。

「んじゃ、オレ帰るからさ。紹介の件よろしくねぇ~」
「あ、ああ。分かったよ」

 紀光は右手を小さく振り、相変わらずのチャラけた口調で念を押す。それに真理亜は作り笑いで応対し、らしくない引き攣った表情で彼の背中を見送った。

「なんていうか……こりゃ運命かね」

 去り際に真理亜がそんなことを呟いたが、立て付けの悪いドアの異音に阻まれ紀光の耳には届かなかった。
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