琉球お爺いの綺談

Ittoh

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お爺の一考

歴史を勉強するには、日本の環境では厳しいのです

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 昔々、高槻にある日吉台小学校が建てられた時、竪穴式住居が見つかり、一時的に工事がストップして、土器とか貝殻っぽいものとか、地面の穴なんかも見に行ったことがある。結果的に、小学校の建設工事が遅れて、プールの授業が出来なかったか遅れたような状況だったと思います。
 個人的に、歴史とかは好きであったので、住居跡とか見て、勉強をしたいなぁと思った小学生時代だったように思います。世界一の墓が仁徳天皇陵(現在の資料では、大仙陵古墳とか大山古墳と言うそうです)だと聞いて、電車を乗り継いで、見に行ったことがありました。とってもでかくてよくわからない感じで、中に入れないかなぁと思ってうろうろとしていたのですが、入ることはできない雰囲気がありました。



 昭和40年代に感じたのは、歴史って勉強してはいけないんだという感覚でした。皇国史観があって、戦後史観があって、どちらも冷静に相手を評価することができない状況でした。
 個人的に、これはダメだなと子供心に思ったものです。
 シミュレーション関連に係わっていると、ゼロ戦は、強かったかどうかとか、F4Fは弱いのかとか色々と議論をする時にも問題が多かった。ゼロは強かったという方々と、ゼロは弱いという方々の議論と言うのは、かなり不毛だったとの実感があります。
 これもまた、冷静に相手を見ることができないために生じるのだろうと思う。
 最近は、刀剣についても、色々と思い入れが増えている方も増えてしまったようで、これも冷静な判断ができない分野となってしまった。



 戦争に関しても同じで、琉球お爺ぃは、シミュレーションゲームの話は沖縄ではできません。冷静に話ができないませんからです。両親ともに沖縄ですから、母親は米軍の撮影した記録映像に載っています。父親は、米軍に相手にされなかった山原やんばるの田舎です。結果として、同じ沖縄戦を経験した両親なのですが、二人の会話は、なかなかに噛み合いませんでした。
 日本で歴史の勉強ができないと思うのは、様々な立場の方々がいて、冷静な議論をすることが国内的にも国際的にも難しいというのがあります。


 観光に来ていた、沖縄戦のシミュレートをする話を聞いていた、現地のガイドさんが笑って、「わかってないねぇ、何をしても勝てないよ」と憐れむように言っていました。ただ、困ったことにそれを聞いていた私は、おそらく沖縄戦のシミュレートをしていた方は、勝てないことは理解していて、米兵を殺す数を史実より何人増やせるかを検討していただけだと判断しています。
 沖縄戦は、太平洋戦争と同じくというよりも酷く、開始時点でというか始まる前から、負けが確定している戦争でした。
 沖縄戦の目的は、米軍に勝つことではなく、米軍が本土に侵攻した場合に、戦死する米兵の数を試算した時に、米国経済が耐えられない数の米兵が犠牲になると判断させて、停戦させることにありました。そのうえで、少しでも和平交渉を有利にすることにありました。日本軍の戦略目標は、一人でも多くの犠牲を米軍に強いることであり、沖縄を護ることでも、民間人を護るために戦うことでもありませんでした。それこそが、悲劇を生んだのです。また、民間人の犠牲者が多くなれば、アメリカの世論を動かせるかもしれない、という戦略的な思考もあったかもしれません。
 そういった意味で、沖縄戦で米軍が敗戦したという理論が生まれるのです。一億総玉砕を掲げて、悲壮な状況に追い込まれていく日本国土を、戦場にした場合、米兵の犠牲者は、ベトナム戦争の比ではない可能性までシミュレートしただろうと思われます。



 逆に言えば、南方諸島や沖縄戦の結果が、広島、長崎に核兵器を投下する原因となったと否定しきれないのは、ベトナムで北爆やら枯葉剤やらを投下したような国の判断基準からすると間違いとまではいえないだろうというのもあります。
 もうひとつ推測を述べるならば、核兵器という新型爆弾の使用結果は、あまりにも従来の兵器とは異質過ぎて、使用前に仕様結果を認識することができるとは、とうてい想定できなかったと、個人的には判断しています。



 歴史の勉強とは、残酷な側面が多くあります。戦場という環境は、異常な極限状態であったのだろうとも思います。今の日本では、想像することすら難しいのではないでしょうか、先だって、爆弾騒ぎあり、亡くなられた方の自殺であったようですが、ニュースを見た時に、日本でもテロが始まったと思ったものでした。



 正直に言って、日本という国ほどに、冷静に歴史というものを勉強をすることが、これほど困難な国は無いと思います。
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