琉球お爺いの綺談

Ittoh

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お爺の一考

歴史における中世世界

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 前回、小学校の時に、高槻から、よくわからない鉄道を乗り継ぎ、目に映りきれいないくらいにでかい、仁徳天皇陵(大山古墳)を見に行った話を書きました。中学ぐらいには、枚方の百済神社で遊び、禁野というのは、お狩り場という意味合いがあったのだという話を聞いたりしていた。自転車に乗って、山を越えて、平城京へ行ってみると、ちょうど発掘が進んでいったころであった。大阪や京都、奈良は、そういった歴史が好きな者にとっては、非常に面白い地域であったように思います。



 日本の歴史は、二千年ほどの月日をかけて、江戸時代の終焉くらいに、ようやく一個の国家として認識が、全国へと浸透しきったくらいに、気が長い統一政体を築いてきたように思います。日本の場合、地方意識が強いことと、中央に対する独立心が強いという特徴があったように思います。
 宵闇日本の中央政権を、神州より始まり、出雲に移って、大和へと譲位されたと判断しています。大和を中心として、坂東のまつろわぬ国々を征討していくなかで、征討そのものが、地域政権の帰順や、地域同士の争乱、融合離散をも繰り返し、少しづつ変容していくこととなります。結果として、征討ではなく、中央が必要なのは、地方の争いを捌く(調整)する機能へと以降していきます。これが、公地公民が崩れ、私財確保や権利主張のために、中央への依存も始まっていきます。
 琉球の按司に対して、従七位を授けるとかは、中華の冊封体制の模倣でもありますが、中央体制への組み込みという意味合いも強かったのだろうと思います。



 こういった日本の政治社会体制が、大きな切り替わりを迎えて進んだのは、頼朝による日本制覇から戦国乱世終焉までであったように思います。



 中世から近世ということは、定義することそのものが難しいですが、土地や漁場、狩場、商売、様々な権利権益について、管理権限を中央へと集めることを完了していく課程が、中世から近世への移り変わりであり、管理体制の集中が、近代への移り変わりであると判断しています。
鬼頭宏著「人口から読む日本の歴史」では、宗門改帳を使った人口推定法について記載されていた。これは、1960年代に速見融氏によって確立されたそうである。その中で、家族を追跡調査する手法として用いられたのが、宗門改帳であった。
これは、西洋における、キリスト教会の小教区帳簿を元にした、家族復元法(Family reconstitution method)の応用となっている。これらの技法を用いて、結婚や出産について追跡調査を、家族単位で実施していくことが可能となる。追跡調査で、膨大な資料から、同一姓名の人が、出生から死亡に至るまでの一生を再構築するという方法となっている。
  中世から近世に減少した数字に、譜代下人の数があるそうだ。世襲の奉公人である。よく、姫さんにつけられる爺やとか付き人みたいな形で、仕える家に従属していた人達のことである。大きくは、一族郎党という呼び方の中で、世襲的に郎党となっている者達がいるが、一般的な家にもそういった者達が居たことを示している。
 また、日本の場合、表向きの記述では、奴婢と呼ばれた奴隷精度は、律令制度の崩壊過程で消滅しているが、年季奉公という形で隷属的な下男下女など、様々な形で存在している。また、人身売買については、鎌倉時代に禁止もされているようであるが、公権力が低下する鎌倉末期から戦国の動乱期には、人身売買が半ば公然に実施されていたと判断される。
 こういった形の下人と呼ばれた人達にとって、結婚等については制約が多かったと考えられる。



 宵闇日本でも、同様に、人身売買は、表向き禁止されていても、継続的に実施されていると考えられる。下人という考え方についても、眷属しんしという縛りのなかで継続されている。平安後期に始まった、御狐灯篭勧請による杜湯やしろゆによって、稲荷狐による湯屋が始まるが、これは、勧請による縛りを受けている。毎年、稲荷神社への寄進が出来なければ、御狐様は湯女狐として奉公することとなる。湯女狐の子は、本来の規定では、あやかしである稲荷狐の子となるので、あやかしである。しかしながら、平安期に大貴族の湯女狐となった者達は、子を宿した時に、稲荷社ではなく、奉公先で引き取りたいと要望されることが多かったこともあり、神楽寺が建てられ、神楽勧請戸籍が造られ、神楽寺の子として育てられた者達も増えてきました。このため、平安末期になると、神楽勧請による湯屋も造られたりしました。
 眷属しんしの約定には、人に従うことで、あやかしの生存権を確保する意味合いがありました。あやかしと人の混血が進むにつれて、眷属しんしという形態から、衆という形態へと移行して行くこととなりました。特に、愛宕権現に集う犬神系天狗衆は、愛宕修験者が増加するに従って、各地に愛宕山が生まれ、権現修験者のことを愛宕衆と呼ぶようになったため、愛宕衆の意味合いがかなり拡大されていくこととなりました。兎衆について、塩飽衆だけでなく、瀬戸内海全域を含め、海岸線をに広がったため、純粋な兎衆というのは、現在見ることができなくなっている。これに伴って、短命(十年前後)であった兎衆の平均年齢が、他の者達と変わらなくなったと言われる。



 こういった傾向は、あやかしの中でも数が多い、犬神衆、兎衆、マシラ衆などに多く見られる傾向であり、人との境界領域が拡散していった過程となっています。
 純血種のあやかしとしては、狢衆が上げられるが、かれらの場合、種族を維持するために、非常に大きな制約を受けることから、かなり特殊な扱いとなっています。平安末期あたりから、主上家直属であった狢衆は、賀茂斎宮家、伊勢斎宮家両家の眷属しんしとして配され、斎宮家が確立していく中で、拡大していく流れが生まれていきました。狢衆については、現代に至るまで、斎宮家狢衆となっています。
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