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文久3年

大坂の診療所(弐)

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「お待たせ」

 出来上がった雑炊を持って、康順は食堂に戻ってくる。

 ……なんだか少女が少し殺気立っているようにみえなくもないが、なんかあったのだろうか?

 しかしそう思った次の瞬間にはそんな殺伐とした空気は消えていたので、気にしないことにした。

 少女もこちらの顔を向け、ニコリと笑いながら深々と頭を下げた。しゃべれない彼女なりのお礼なのだろうか。

「顔をあげてよ。俺は当たり前のことをしただけだから」

 彼女の肩に手を置き、体を起こさせる。少女がまたたきながら康順の方を見て、再び笑う。

「雑炊、できたよ。今、よそうから待ってて」

 懲りずに赤くなっている自分に戸惑いながら、康順は真新しいお椀に雑炊をよそう。この家には康順が使う分のほか、予備の食器もあるのだ。

 お椀を渡すと、少女はちょっと困ったような顔になった。でもすぐに笑顔になり、どこかぎこちない動きで匙で雑炊をすくい、口に運んでいく。

 そのままもぐもぐと口を動かし、やがて和んだように柔らかい笑みを浮かべる。気に入ってもらえたのだろうか。

 そのあとは気の利いた話も思いつかなかったし、康順もお腹が空いていたから少女と一緒に雑炊を食べた。

 一応少し多めに作ったが、なんの問題もなく余裕で平らげることができた。

「まだお互い名乗りもしていなかったね。俺は藤山 康順ふじやま こうじゅん、蘭方医をやっている。君は?」

 彼女はしゃべれないから、もしかして書く道具が必要かもしれない。何かとってきた方がいいか?

 そう思った矢先に、少女は膝の横で丸まっていた黒猫に目をやる。黒猫も目を開いて少女を見上げる。

 しばらくの沈黙。少女と黒猫との間では何かの会話が交わされたらしく、黒猫が小さく頷き、勝手場に降りていく。

 なにがなんだかわからず、少女の方を見ると、彼女は微笑みながら黒猫の消えた先を指差している。

 黒猫についていけ、と言っているのだろうか?

 疑問を抱えたまま黒猫のあとに続いて勝手場に降りると、そこではさっきの黒猫が、土砂でできた勝手場の床に爪で何か書いている。

 しばらくすると、黒猫はその動きを止めた。そして自分が書いた文字の上からどき、じいっと康順を見上げてきた。読め、ということか。

 康順は黒猫の書いた文字に目を落とす。

「えっと………御影 雫……みかげ…しずく……?」

 康順が声に出して読むと、黒猫は満足そうに喉を鳴らし、食堂に戻って行った。康順もそのあとに続く。

「君の名前は……御影 雫というのかい?」

 食堂でちょこんと座る少女に尋ねた。

 半拍おいて、少女、御影 雫みかげ しずくは今日見た中で一番美しい笑みを浮かべながら大きく頷いた。
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