上 下
68 / 119
元治元年

新生活スタート(弐)

しおりを挟む
(そういえば、昨日寝る前にいろいろやりたいことを考えてたっけ?)

 部屋から徒歩3秒の場所にある中庭におり、私はふと思いだす。

 洗濯とか、繕い物とか、部屋の掃除とか、布団をはたきとか、そんなことを明日やりたいな、と思いながら寝たな、昨日。

(しかし誰もいないんじゃあ、許可も取れないよね)
『その前に地面に字を書くんだろ?触覚がないお主には慣れが必要じゃろう』
(おっと、そうだね。サクッと書くか)

 その前にやることあったね。私はその場にしゃがみ、指を地面の伸ばす。

(ほむろー!私の指、今地面に届いてる?)
『ちょっと届いておらぬな。もう少し手を下げるのじゃ』
(こう?)

 視力は戻ってきたけど、指先に感覚がないから自分の指が地面に触れているのかどうかがわからないんだよね。

(あ、ちょっとコツつかんだかも。腕をどんどん下げて行って、これ以上下げられない状態になれば地面に触れているのね)
『良い気づきじゃが、その場合は大抵力が入りすぎておるから少しだけ力を抜け』
(了解です)

 ほむろに言われたように少しだけ力を抜き、私は指を動かす。指先に何も感じないが、私の指先はしっかりと文字を大地に刻んでいる。

(かけた!)
『よかったのう!少し時間と手間がかかるが、これで雫は妾を通じなくても、自分で自分の思っていることを伝えられるぞ』
(うん!じゃあついでに"松本先生はどこですか"って書いてみよう)

 そう意気込み、私はこの10文字を書くため再び地面に指を走らせた。




(ふぅ、かけた)

 地面にしっかりと書かれた10文字を見て、指先の感覚がない割にはよくかけたと思う。

『よくできた、と言いたいところじゃがちょいと良いかのう?お主の部屋に訪問者がきておるぞ』

 おや?もしかして朝食を持ってきたとか?

 私は立ち上がり、キョロキョロとあたりを見渡す。

 そして私の部屋の前に立っている井上さんを発見した。手にはやっぱり食事の膳を持っている。新選組の朝は早いのですね。

 おはようございますの挨拶の意味合いも込めて、私は井上さんに深々とお辞儀をする。

 そして頭をあげて、さっき書いた文章を井上さんに見せたら答えてくれるかな?と思った。

 私が井上さんに手招きし、地面の文章を指差した。

 井上さんは不思議そうな顔をしつつも、膳を置いてこっちへ来てくれ、すぐに私の意図を汲み取って地面に書かれた文章を読んでくれた。

 読み終わると、井上さんはその場にしゃがみ、私の文章の隣にこう書いた。

 "君は松本先生を訪ねてきたのかい"

 井上さんはじっとこっちを見ている。私は頷く。肝心の松本先生はお留守だったけど、どこ行ったか知りませんかね?

 すると井上さんは困ったように微笑み、さらに文章を書く。

 "松本先生は、江戸に出張に行っているよ。半年ほどは戻ってこないと言っていた"

 なんと!そりゃ道理でお留守のはずだ。

 つまり私は松本先生が出張から戻ってくるまで、最低半年はここに身を寄せることになるのね。

 "わかりました、ありがとうございます。半年間、お世話になります"

 私が書き足した文章を読むと、井上さんは嬉しそうに破顔して、私の頭を撫でた。撫でられた感触は感じなかったから視覚情報だったけど。

 何度も言うようだけど、私は皮膚の感覚がないのだ!




 そのあと、私はついでと言わんばかりにいろんなことを地面に書いた。

 井戸を使ってもいいですか、とか、裁縫道具を借りてもいいですか、とか、ここで布団をはたいてもいいですか、とか。井上さんは全部にこやかに許可してくれた。

 "トシさんには、あとで私の方から伝えておくよ"

 この一言を添えて。




 源さん………なんていい人!
しおりを挟む

処理中です...