宵月桜舞

雪原歌乃

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第三章 胎動と陰謀

第五節-02★

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 女性の気配が完全に遠のいてから、青年は部屋の中央に置かれた座卓の前まで行き、そのままどっかりと胡座をかいた。
「お前も座れば?」
 青年の〈お前〉呼ばわりは気に食わなかったが、確かに木偶の坊のように突っ立っているのもどうかと思い直し、青年と向かい合わせになるように正座して、隣に通学カバンを置いた。
 まだ完全に陽は落ちていないのに、辺りは不気味なほど静まり返っている。肩肘を突いた青年が、もう片方の手で手持ち無沙汰に座卓の上を爪で叩くと、室内に煩く音が反響した。
 ふと、青年と目が合った。青年は音を鳴らすのをやめ、美咲に向けて口の端を上げる。
「――何……?」
 美咲は眉根を寄せ、不快感を露わにした。
 青年はなおも不敵な笑みを浮かべ、「やっぱりな、と思ってな」と口にする。
「何が『やっぱり』なの……?」
 青年に興味なんて欠片ほどもなかったのに、つい、追及してしまった。そして、その美咲の問いに青年は満足を得られたのか、ニヤニヤと笑い続ける。
「俺と同じ力を持った野郎がお前に骨抜きにされちまった理由さ。たかが高校生のガキに現を抜かしちまうってのが理解出来なかったけど、お前とこうして逢ってみてようやく分かった」
「あんたと、同じ力を持った……」
 言いかけて、青年は南條のことを言っているのだと察した。
「――南條さんを、侮辱してんの……?」
 あんたのような下劣な奴が、という言葉は辛うじて飲み込み、吐き出す。だが、南條を悪く言われたことで身体の震えは抑えられなかった。
「侮辱? 別にそんなつもりはねえよ」
「だったらどんなつもりで……」
 重ねて問い続けると、青年は立ち上がった。かと思ったら、美咲の前まで歩み寄り、その場に片膝を折る格好で顔を近付けてきた。
「――何の真似……?」
 危険を察知し、美咲はそのまま後ずさろうとする。しかし、青年は美咲の右腕を力任せに掴み、自由を奪ってしまった。
「は、放してよ……、痛い……」
 身動ぎして必死で抵抗するも、やはり、青年を振り払うことが出来ない。
 青年は右腕は拘束したままで、自らの空いている右手を美咲の顎に添えた。
 青年の吐息が近付き、美咲は顔を逸らしたが、強引に青年へと向けさせられる。
「お前さ、どこまでやったの?」
「――何を……?」
「そのまんまの意味に決まってんだろ? キス止まりか、それとももう、やるコトやっちまったのか」
 ずいぶんと下世話な質問だ。美咲の不愉快さはさらに増し、青年を激しく睨み付けた。
「あんたに答える権利なんてない」
「ふうん……。否定しないってことは、キスぐらいは済ませちまってるっつうことか」
「だからあんたにこ……!」
 言葉を紡ぎかけた美咲の口を、青年のそれで塞がれた。
(イヤだ……、やめてよ……!)
 口が利けない代わりに心の中で訴えるが、当然、青年にその声が届くはずもない。
 そのうち、青年の舌が美咲の口内へと侵入してきた。南條にも同じように強引なキスをされたが、相手が南條ではないと思うと吐き気さえ覚える。
(やられっ放しでたまるか!)
 美咲は辛うじて自由の利く口の中で、暴れる青年の異物に噛み付いた。
「うっ……」
 さすがに、相当な痛みがあったらしい。低く呻くと、青年はやっとで唇を放した。
 解放された美咲は、肩で息を繰り返しながら青年を睨む。
「てめ……」
 だが、青年が怯む様子は全くなかった。先ほどにも増して目をギラリとさせ、美咲を畳の上に組み敷いた。飢えた野獣のような形相で馬乗りしてきた青年を仰ぎ見ながら、美咲は全身に戦慄が走るのを感じた。
「大人しくしとかねえと、もっとひでえ目に遭うぜ?」
 耳元で囁かれ、背筋がゾクリと凍る。
(どうしてこんなことされなきゃなんないの……?)
 悔しさで涙が出そうになるのを、美咲は唇を強く噛み締めながら必死で耐える。南條とでさえキスしかしたことがないのに、こんな所で好きでもない男に〈初めて〉を奪われてしまうのか。これならいっそ、今すぐに青年の日本刀で命を絶たれた方がいいとさえ思った。
 その時だった。
「何をしているんだね?」
 美咲の耳に、低い中年男の声が飛び込んできた。
 青年は慌てたように美咲から離れると、チッと舌打ちする。
「何でもねえっすよ。ちょっとふざけただけです」
「『ふざけただけ』? それにしてはちとやり過ぎではないかね?」
 中年男の冷ややかな指摘に、青年はグッと言葉を詰まらせる。結局、何も反論が浮かばなかったのか、唇を尖らせてそっぽを向いてしまった。
 美咲はゆっくりと身体を起こした。中年男の正体は確認しなくても分かっていたが、改めて居住まいを正して見据えると、やっぱり苦手だな、と再認識する。
「大丈夫かね?」
 中年男――藍田史孝の問いに、美咲はゆっくりと首を縦に動かす。
 藍田は、「そうか」と納得したように頷いて、ごく自然に上座へと向かって腰を下ろす。続いて、藍田を呼びに行った女性が、青年と並んで正座した。
 藍田はそれを見届けてから、おもむろに口を開く。
「とにかく、未遂で済んだようで安心した。我々の存在を忘れて暴挙に出ようとした彼に問題があるが、彼と二人きりにしてしまった我々にも非がある」
 そう言って、青年を一瞥する。青年は苦虫を噛み潰したように藍田を睨むも、眉間に皺を寄せる藍田にギロリと見返され、肩を竦めて再び視線を逸らしてしまった。
 藍田は小さく溜め息を吐いてから、美咲に向き直った。
「こうしてお前と逢うのは十年ぶりか。貴雄も理美君も全く連絡を寄越さないからどうしているのか心配だったが、どうやら元気そうにしているようだな」
 女性と同じだ。口先では、美咲と家族を気にかけていたようなことを言っているが、気持ちが全く伝わってこない。上辺だけの優しさに、美咲は複雑な想いを抱きつつ、それでも口を噤んだままでいるのもどうかと考え、「お陰さまで」と返した。
「お父さんもお母さんも元気ですよ。私もこうして無事に毎日を過ごしています」
「そのようだな」
 藍田は顎を擦り、口元を歪めた。微笑しているつもりだろうが、美咲から見たら嘲笑っているようにしか見えず、不快感が増す。
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