宵月桜舞

雪原歌乃

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第五章 呪縛と執愛

第四節-02

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「ま、あんたのことはこっちもよく分かってるつもりだしね」
 ようやく一息吐いたところへ、今度は主人がのっそりと現れた。よく見ると、新たな瓶ビールと陶製の銚子がそれぞれ一本、そして、銚子と揃いの猪口が二つ載った盆を持っている。
「ああ、そっちの兄さんはぬる燗が好きだもんね」
 主人の無言の気遣いを察した女将は、盆ごとそれを受け取る。
 主人は南條にチラリと視線を送ると、無言のままでカウンターへと戻って行った。
 南條は主人の背中に軽く会釈してから、女将から渡された猪口を受け取り、先ほどと同じように酌をしてもらう。南條に続いて、雅通もビールをコップに注がれている。
「それじゃ、あとは二人でごゆっくり。何かあったらいつでも呼んでちょうだい」
 女将は、よっこらせと腰を上げ、カウンター席で飲んでいる常連客の元へ行った。
「いやあ、見事なタイミングでしたね、オヤジさん」
「全くだな」
 女将が常連客と話し込んでいるのを遠巻きに眺めながら、ぬる燗を手酌で注いで一息に流し込んだ。
「女将の身体を一番心配してるのは主人だろう。長いこと、苦楽を共にしてきた大切なパートナーだ。無駄口を叩かなくても、その分、女将をさり気なく見守って支えている。
 酒の追加を持ってきたのも俺達常連へのサービスもあると思うが、何より、女将を興奮させ過ぎて無理をさせたくないという主人なりの配慮だ」
「ふうん……」
 雅通はビールを三分の一ほど飲んでから、「似た者同士だからかな」と南條を真っ直ぐに見据えた。
「似た者同士、とは?」
 怪訝に思いながら訊ねると、雅通は片肘を着いた姿勢で頬杖を突き、口元を緩める。
「南條さんとオヤジさんが、ってことですよ。南條さんはまるっきり自覚なさそうですけど、南條さんも将来、オヤジさんのようなオッサンになれますよ。いや、今も充分、オヤジさんそっくりですけどね。――美咲のこと、相当心配でしょ?」
「心配してるように見えるか?」
「どんだけ南條さんと付き合いがあると思ってるんですか? 最初はあまり喋らないし、感情もなかなか表に出さないから取っ付きにくかったですけど、今はさすがに、南條さんの微妙な表情の変化も分かるようになってきましたよ。けど、より分かりやすくなったのは、美咲と関わってからかな? 美咲のことが話題に上がると、南條さん、表情がいつにも増して柔らかくなるんですよ」
「――そうなのか?」
「そうなのですよ」
 雅通は得意げに首を縦に動かした。
「南條さんはその外見で、昔っから女の影が絶えなかったですけど、執着を見せてるのは明らかに美咲だけですしね。美咲と出逢ってからは、他の女との縁もスッパリ切ってしまったんでしょ? けど、正直、そこまで南條さんが一途だとは思いませんでしたよ」
「――からかってるのか?」
「とんでもないっすよ。むしろ、そこまで想う相手がいるってのが羨ましいぐらいですわ」
 自分で勝手に作曲したであろうセンスのない鼻歌をフンフンさせながら、雅通は、先ほど女将が運んできた串刺しの鶏つくねに手を伸ばし、美味そうに咀嚼する。
 南條はまた、手酌で酒を猪口に注ぎ、それを口に含みながら雅通に視線を注いだ。
 十年近い付き合いとはいえ、南條の深層心理を看破している雅通には、腹が立つのを通り越して感心してしまう。そして、それまで惰性で付き合いを重ねていた女達との関わりを一切断ち切ったのを知っていたことも。もちろん、隠しているつもりはなかったが。
「お前はどうなんだ、瀧村?」
 いつの間にか雅通のペースに巻き込まれていることを癪に思い、逆に問い返す。
 雅通は口をモゴモゴさせ、喉仏を動かして中のものを飲み込んだ。
「訊かなくったって分かってるでしょ? 俺はまだ、本気になれるほどの女に出逢っちゃいません。たまーに近付いてくる女は……、言ってしまえば南條さんの〈お下がり〉みたいなもんですからね。南條さんがまともに相手してくれないから俺に近付く。けど結局は、女の方が俺に飽きてポイ。その繰り返しっすよ……」
「――なら、美咲がお前に近付いたら……?」
 酔いが回ってきたのか、とんでもないことを訊いていた。自らの失言に南條は眉をひそめたが、出てしまったものはどうしようもない。
 雅通はコップを握ったまま、南條に真っ直ぐな視線を向ける。
「そうなったら、俺に美咲を譲ってくれますか?」
 挑むような言い方に、南條の全身が熱を帯びた。美咲の気持ちは自分に向いている。それは分かっていても、不安は完全に拭い切れるものではない。
「プッ!」
 雅通は南條から顔を背け、クツクツと笑い出した。そして、横目で南條を見ながら、「冗談ですよ」と続ける。
「美咲には友情のようなものは感じますけど、恋愛感情は全く湧きません。これだけははっきり言えます。あ、別に南條さんに遠慮してるからってわけじゃないですよ? だからって、南條さんのように、運命の相手と出逢えるとも思いませんけど。
 とにかく、今は楽しく毎日を過ごすだけです。藍田本家との対決は別にしてね」
「仕事とプライベートは使い分ける、ってことか?」
「そう教えてくれたのは南條さん、あなたでしょ?」
「――これじゃあ、どっちが上の立場か分からないな」
 南條は、敵わないとばかりに苦笑いを浮かべ、首を横に振った。
「俺は最近、寝ても覚めても美咲ばかり考えてしまっている。まるで、初恋に目覚めたばかりのガキのように。――いや、もしかしたら、俺にとっての本当の初恋は美咲ってことになるのかもしれない。我ながら滑稽だな……」
 南條の言葉に、雅通は笑いもせず黙っていた。ただ、居住まいを正して南條に向き直り、銚子を手に取る。猪口はもう一つあるから、自分で飲むのだと思っていたが、それを南條の猪口に傾けてきた。
 南條もまた、何も言わずに酌をしてもらう。時間が経ったぬる燗は、口に含むと中途半端に冷たくなっていた。
「まだ、時間はありますよ」
 雅通はポツリと漏らし、女将を呼び付けて酒の追加を注文した。
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