宵月桜舞

雪原歌乃

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第六章 追憶と誓言

第五節

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 一時間弱ほど車を走らせると、ようやく実家が見えてきた。一カ月も離れていなかったのに、辺りの光景がやけに懐かしく映る。密集するように立ち並ぶ家々、古びたブランコや滑り台が備えられている小さな児童公園、道路を挟む街路樹。一つ一つを噛み締めるように眺めていたら、自然と涙腺が緩んできた。
 ふと、運転席にいる南條が美咲にチラリと視線を送る。
 ちなみにずっと運転をしていた雅通は、彼の自宅に着いてから降り、それからは南條が運転席に移動した。
 美咲もまた、後部座席から助手席に移った。そのまま後ろにいても良かったのだが、南條に、『前に来い』と半ば強引に促され、黙って従った。
 雅通が降りてからは沈黙が続いた。雅通もずっと喋り通しだったわけではないのだが、それでも、二人きりの時に比べると遥かに会話の数が多かった。口の利き方はともかく、雅通は南條よりも気さくだから話しかけやすいというのも確かにあった。
「どうした、疲れたか?」
 ぼんやりしている美咲に、南條が穏やかに訊ねてくる。
 美咲は小さく微笑みながら、「いえ」と首を横に振った。
「ほんとに帰ってきたんだな、って。そう思ったら、ちょっと嬉しくなってうるっとしちゃいました」
 隠し立てする必要もないと思い、正直に告げる。
「そうか」
 南條は短く答えたきり、実家に着くまで黙っていた。素っ気ないようだが、南條の良さは無駄口を叩かないことだ。短い一言の中にも、南條が美咲の今の想いを強く汲み取ってくれたことはしっかりと伝わってくる。
 ほどなくして、実家が見えてきた。住宅地にある二階建ての一軒家。門扉を挟んでいる小さな塀には、〈AIDA〉と彫られた表札が埋め込まれている。
 南條は二台分の駐車スペースのある敷地内にバックで車を入れてゆく。すぐ隣には貴雄のミニバンが停められていたこともあり、ぶつけないようにと慎重になっているようだ。
「お疲れ」
 完全に駐車し、エンジンを停止させてから、南條が美咲に声をかける。
「ありがとうございます」
 美咲はずっと座っているだけだったから、南條に比べたら疲れはほとんどなかったものの、よけいなことは一切口にせず、素直に礼を述べた。
「さて、貴雄さんと理美さんも首を長くして待ってる。すぐに顔を見せてやらないとな」
 南條は美咲の頭を優しく叩くと、キーを抜き取る。
 子供扱いにも取れる南條の行為に、美咲は少しばかりムッとしてしまった。だが、あからさまに不貞腐れたら困らせてしまうと思い、軽く南條の横顔を睨むだけに止めた。
 車を降り、玄関の前に立つと、いつにもなく緊張した。自分の家なのだから遠慮する日通用なんてないはずなのに、やはり、しばらく離れていたからだろうか。
 南條が隣の美咲を見下ろし、覗ってくる。どうやら、美咲の想いを察してくれたらしい。柔らかな眼差しを向けながら口元に小さな弧を描き、頭に南條の右手を載せながら、左の人差し指でインターホンのボタンを押す。
 ほどなくして、スピーカー越しに『はい』と素っ気なさを感じさせる女性の声が聴こえてきた。考えるまでもなく、その声の主は母親の理美のものだ。
「南條です」
 南條もまた、理美に負けず劣らず短く名乗る。だが、相手が南條だと分かったとたん、理美の声音が急に変わった。
『あらやだ和海君だったのね! ちょっと待っててー!』
 ブツリと受話器を置く音がしたかと思ったら、間もなく玄関のドアが開かれた。
「いらっしゃーい! ――って、まあ!」
 ハイテンションで挨拶した理美は、美咲を見るなり、これでもかというほど目を見開いた。
「まさかとは思ったけど、ほんとに美咲を連れて帰ってくれたのね! さすがだわ和海君! やっぱあなたは私が見込んだ通りの男だったわっ!」
 理美は甲高い声を上げ、そのまま南條の両手首を理美の両手で掴んで乱暴に上下させる。年甲斐もないはしゃぎようを目の当たりにした美咲は、つい先ほどまでの緊張を忘れ、理美に対してすっかり呆れ返った。
 不意に南條を見上げてみれば、南條は微苦笑を浮かべている。やはり、理美の強引さに多少なりとも引いているのだろう。かと言って、腕を振り払うことも出来ず、なすがままにされている。
「――お母さん、南條さんを解放しなよ……」
 いつまでも南條の腕を離さない理美に痺れを切らし、美咲が静かに突っ込む。
「あ、あらつい。やあねえもう!」
 理美はケラケラと笑いながら、やっとで南條から両手を離した。
「とにかく入りなさいな。お父さんもずっと待ってたのよ。でも、お土産付きなんてうんとビックリするわね、きっと」
 〈お土産〉とは間違いなく美咲を指している。ここは美咲の家なのに、美咲は理美の実の娘のはずなのに、扱いがずいぶんとぞんざいな気がする。
(けど、これがお母さんなんだよね……)
 初めて南條を家に招いた時のことを想い出し、美咲はひっそりと溜め息を吐く。
「お父さん、和海君よ。お土産も持ってきてくれたわ」
 リビングのドアを開けるなり、理美はグイグイと南條の背中を押して中に入れている。
 美咲はそれを冷ややかに見守りながら、理美に続いて足を踏み入れた。
「――美咲……?」
 胡座をかいて寛いでいた貴雄が、南條の〈お土産〉に瞠目し、腰を浮かせる。
 美咲はゆっくりと貴雄に歩み寄り、側まで行くと貴雄の前で両膝を折った。
「ただいま、お父さん」
 微笑みながら挨拶すると、貴雄は嬉しそうに破顔させる。そして、「大変だったな」と何度も頭を撫でた。
「もう、子供じゃないんだから」
 そう言いつつ、貴雄に撫でられるのは嬉しかった。南條が相手だと子供扱いされたくないと思うのに、やはり、血の繋がった父娘だからだろうか。
「ね? 和海君はちゃーんと約束を果たしてくれたでしょ?」
 全身で喜びを表す貴雄に、理美が得意げに告げる。
 そんな理美に、貴雄は肩を小さく上下させながら、「そうだな」と頷いて見せた。
「もちろん、和海君のことは信頼してたけどね。もちろん今も。ただ、相手が相手だ。こんなにすんなり事が運ぶなんて考えられないだろ?」
「あら? やっぱりあなた、和海君を信用してなかったんじゃないの?」
「誤解だ。俺はほんとに信用してたよ」
「ふうん……」
 なおも疑わしげに睨む理美に、貴雄はガックリと項垂れる。見慣れた二人のやり取りに、美咲は、ほんとに帰って来たんだ、と心からホッとした。
「貴雄さんの心配はごもっともだと思いますよ」
 微苦笑しながら、南條が穏やかな口調で割って入った。
「俺自身、まさかこんなにすんなり美咲さんを返してもらえるなんて考えてもみませんでした。――お恥ずかしい話、応じてくれなければ、瀧村と強硬手段に出るつもりでいましたから」
「あら……」
 南條の隣に立っていた理美は、目を丸くしてまじまじと南條に視線を注いだ後、声を上げて笑い出した。
「もう、和海君も普通に男の子なのねえ! 雅通君はやんちゃに見えるけど、和海君はとてもそんな風に見えないものー! 和海君ってばもうっ!」
 一人で笑いながら、南條の腕を何度も叩く理美。叩かれている南條は、手首を掴まれた時同様、困惑している。
「――お母さん、和海君を休ませてやらないと……」
 今度は貴雄が理美にやんわりと突っ込みを入れた。
 貴雄が先に突っ込んだことで美咲は何も言わなかったが、代わりに大きく頷くと、理美はやはり、「あらあら」と笑ってごまかしてきた。
「ごめんね和海君、悪気はないの。あ、ほら座って座って! 今すぐにお茶を出すから。それと夕ご飯も食べてってちょうだいな。急で用意してなかったらたいしたものは出来ないけどね」
 南條を半ば強引に座らせてから、理美は今度は美咲の肩を強く叩いた。
「はい、美咲は私の手伝い! 和海君をお待たせしちゃ悪いでしょっ?」
「え……、私帰って来たばかりなのに……」
 顔をしかめて不満を口にするも、「いいから!」とあっさり却下されてしまった。
「和海君はお客様、あんたはこの家の子。お手伝いするのが当然! いいから立ちなさい! 帰って来た以上は甘やかしたりなんてしませんからね! どうせ本家ではなーんにもしないで過ごしてたんでしょっ?」
 理美の鋭い指摘に、美咲はグッと言葉に詰まった。確かに本家では、家事は朝霞と優奈がやっていたし、手伝いを強要されなかったから何もしなかった。ただ、藍田や藤崎、綾乃というストレスの元凶と戦っていたのもまた事実だ。
(こんなこと言って、『あらそうだったの』なんてすんなり納得してくれるお母さんじゃないしなあ……)
 美咲は小さく溜め息を漏らし、ゆっくりと腰を浮かせた。
「さ、いらっしゃい。まずはお茶よお茶!」
 逃げるとでも思ったのか、理美はキッチンまでの短い距離の間、美咲の手首を掴んで放そうとしない。しかも、意外と握力があるから痛くて仕方ない。
(まあ、本家よりは何百倍も何千倍もマシだけどさ……)
 そう思いながら、美咲は理美と共にキッチンに入った。
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