宵月桜舞

雪原歌乃

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第七章 揺動と傷痕

第二節

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 ◆◇◆◇◆◇

 昨晩は久々にぐっすりと眠ることが出来た。美咲がいなかった間、布団に入っても落ち着かず、いつにも増して酒を浴びるほど煽った。
 それでも眠りは訪れなかった。酒に強いのは自覚しているものの、それでも、飲み続けていれば必ず睡魔は襲ってきた。やはり、美咲の状況が全く掴めなかった苛立ちで、どれほど飲んでも酔うことが出来なかったのだろう。
 その美咲は、昨日、無事に藍田本家から連れて帰ることが出来た。ただ、雅通も懸念していた通り、あっさり解放してくれたことが気になる。
 初めて本家の当主と対面したが、想像通り、狡猾で食えない男だった。口調はどこまでも穏やかだったが、ヒトを蔑んでいるのが嫌というほど伝わってきた。美咲の父親の貴雄とは実の兄弟ではあるが、外見はもとより、中身も全く似ていない。貴雄は誰の目から見ても頼りないものの、その分、周囲から愛される要素を持っている。
 〈類は友を呼ぶ〉という例えは少々違う気がするが、藍田を取り巻く連中もまた不気味だった。南條と同じ力を持つという男、美咲を伴って来た美咲に似ている少女、そして、藍田に添うように控えていた女。
 中でも一番側で控えていた女は、藍田に負けず劣らず南條に不快感を与えた。藍田ほど話をしたわけではないが、藍田以外の人間を跳ね飛ばす負の気を感じた。
(あの家自体が異常な空気に満ちていたからな)
 足を踏み入れた時からの違和感を想い出し、南條は眉をひそめる。
 美咲は子供の頃、親元を離れてあの家で過ごしたらしいが、数年とはいえ、よくも歪んだ性格にならなかったものだと改めて感心する。祖父母には愛情を注がれて育てられたとはいえ、あの家に長いこと住み続けていたら、感情に欠陥が出来てもおかしくないのではないか。そう思えるほど、あの家の空気は澱んでいた。
 不意に、亡くなった父親――博和のことが脳裏に浮かんだ。博和も生前はあの家に行っている。そして、南條に本家の現状を教えてくれた。
 藍田が博和を唆そうとしたことは想像に難くない。だが、博和は藍田に屈することはなく、結果的に自らの寿命を縮めた。
 博和を愚かだったとは南條は思わない。むしろ、藍田の意のままに操られながら生き存えている姿を見る方が悔しくて情けなかっただろう。
(俺は、親父のためにもやるべき使命を果たさなければならない)
 固く意を決した。

 コンコン――

 布団に仰向けになった格好で天井を仰いでいたら、ドア越しに乾いた音が聴こえてきた。
 南條は身を起こして立ち上がると、ドアまで近付いてゆっくりと開く。
「おはようございます」
 そこに立っていたのは、美咲だった。
「ああ、おはよう」
 挨拶を返しながら、美咲を目の当たりにしたとたん、昨晩の出来事が駆け巡る。
 美咲の柔らかな唇、ほんのりと甘い香り、そして、下着越しに触れた美咲の控えめな胸の膨らみの感触。理性で自らの暴走を止めたものの、もし、本当に二人きりだったら歯止めが利かなかったかもしれない。
「南條さん?」
 ぼんやりとしてしまった南條に、美咲が心配そうに声をかけてくる。
 南條はハッと我に返り、「ああ、すまない」と微笑を浮かべながら軽く謝罪した。
「それよりどうした?」
「えっと、朝ご飯の用意が出来たので。お母さんが、呼んでらっしゃい、って」
「そうか」
 南條は短く答えてから、美咲に視線を注いだ。
「あの、何か……?」
 不思議そうに訊ねてくる美咲に、南條は、「あ、いや」と続ける。
「その、昨晩のことだが……」
 南條が口にすると、美咲の頬がみるみるうちに赤く染まった。
「あ、えっと……、昨晩は、その……」
 謝罪をしようと、昨晩のことを口に出そうとしたのがかえって拙かった。互いに気まずくなり、南條は美咲を見下ろしてジッと凝視し、美咲は南條の視線から逃れようと瞳を泳がせている。
「――あの、そろそろ行かないとお母さんが……」
 しばしの沈黙のあと、美咲がポツリと言う。相変わらず、目は逸らされたままだ。
「そうだったな」
 結局、謝罪はせず、美咲に言われるがまま部屋を出てドアを静かに閉める。その時、不意に想い出し、「美咲」と先に歩き出した美咲の名前を呼んだ。
 美咲はピタリと足を止め、驚いたように後ろを振り返る。
「これから、二人でどこか行こうか?」
「どこか、ですか?」
 不思議そうに首を傾げている美咲に、南條は、「ああ」と口元に笑みを湛えながら頷く。
「もちろん、朝食は済ませてからな。前の約束、ちゃんと果たさないとな」
「――約束?」
「美味いメシを食わせてやる、って言っただろ? もしかして、憶えてないか?」
 美咲は少しばかり考えていたが、ようやく想い出したようで、「はい」とニッコリ笑った。
「そういえば前に言ってましたね。私は別に構わなかったのに、南條さん、おにぎりとチョコだけじゃ気がすまないから、って。でも、あの時はただの社交辞令かと思ってました」
 美咲の言葉に、今度は南條が驚く番だった。南條は、仕事絡みならともかく、プライベートでは世辞を言ったり、社交辞令などという遠回しなことはまずしない。だが、南條と関わった回数が少ない美咲ならば、南條の本質を完璧に分かっていないだろうから、あの時の約束が本気じゃなかったと思われていても無理はない。
「俺は、興味ない人間を冗談でもメシに誘ったりしないが?」
 南條は微苦笑を浮かべながら、美咲の肩に手の平を載せた。
「とにかく、今日一日は俺に付き合ってくれ。もちろん、希望があれば美咲の行きたい場所にも連れて行ってやろう。車だから、多少の遠出も全く苦じゃないしな」
「――ほんとに、いいんですか……?」
 おずおずと訊ねてくる美咲に、南條はゆっくりと首を縦に動かして見せた。
「ほんとにどこでも。ただ、さすがに海外は無理だぞ?」
「そんなぶっ飛んだこと言いませんって」
 美咲は肩を揺らし、クスクスと笑い出した。
「なら、今日は南條さんの好意に甘えちゃいます。お父さんとお母さんの方も全く問題ないですし。南條さんと色んなトコ行けたら楽しいですね!」
 先ほどまでの気まずい雰囲気は嘘のように、美咲が無邪気に喜んでいる。南條はその姿を、眩しく思いながら見つめた。
「よし、そうと決まれば早く食って支度しないとな。時間が惜しい」
「ですね」
 美咲は大きく頷き、再び南條に背を向けて先に立って歩き始めた。心なしか、美咲の足取りが軽くなっているように見える。
 素直な美咲の反応を嬉しく思いながら、南條も美咲に着いて行った。
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