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第一部 四季姫覚醒の巻

第四章 悪鬼邂逅 7

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 宵月夜の表情には、普段の余裕が皆無だった。
 目つきの悪い黒眼は、瞳孔が開いて、ますます険悪なものになっていた。歯を食いしばり、尖った犬歯を惜しみもなく見せつけ、怒りを全身で表現していた。
 未だかつてない宵月夜の形相に、榎たちは戦慄を覚えた。
「どうしよう、えのちゃん! この危険な空気、いつもと比べ物にならないわ!」
 椿が焦って、示唆してきた。今、攻撃を受けては、ひとたまりもない。榎は百合の髪飾りを、強く握り締めた。
「宵月夜の攻撃に備えないと。椿、変身するぞ!」
 椿と頷き合い、榎は陰陽師の力を、開放した。
「夏媛、ここに見参!」
「春姫、見参です!」
 変身した榎と椿は、二人並んで、宵月夜の前に立ち塞がった。
「四季姫ども。それに、おかしな人間……」
 榎たちを見下ろして、宵月夜は低く呟いた。
「宵月夜はんも、ご無事で何よりでした」
「宵月夜さまだ、宵月夜さまだー!!」
 周が脇から、宵月夜に見舞いの言葉を述べた。狸宇も嬉しそうに、宵月夜を呼んだ。
 宵月夜の視線は、まっすぐ、周の手の内にある狸宇に向いていた。
「狸宇を離せ、人間! 汚らわしい手で、俺の仲間に触るな!」
 大声で怒鳴り、宵月夜は右腕を素早く、振り翳した。
 小さな竜巻が発生し、周めがけて飛んでいった。
「委員長、危ない!」
 榎は素早く地面を蹴り、竜巻と周の間に割って入った。剣に神力を込め、竜巻を切りつけて、消滅させた。
「榎はん、大丈夫どすか!? すみません、油断しとりました」
 周が慌てた様子で、声を掛けてきた。
「今日は、酷く怒ってはりますな。私も殺気に充てられて、体の震えが止まりまへんわ」
 周は座り込み、青褪めた表情で、肩を震わせていた。
「仲間を捕われたと思って、気が立っているんだ。委員長、早く狸を返したほうがいいよ」
 榎の指示通り、周は頷いて、狸宇から手を離した。
「宵月夜はん、やめてくれなはれ。ポン吉くんはお返ししますから」
 開放された狸宇は、下敷きになっていたほうの足を引き摺りながら、榎たちの脇をすり抜けて、宵月夜へ向かって歩いて行った。宵月夜は地面に降り立ち、寄ってくる狸宇を、腕の中に迎え入れた。
「宵月夜さま、宵月夜さま!」
 嬉しそうに、狸宇は何度も宵月夜の名前を呼んで、鳴いた。宵月夜も少し安心した表情を浮かべたが、狸宇の足を見て、再び榎たちに睨みをきかせた。
「狸宇、お前、足を怪我しているのか。……お前らの仕業か、人間!」
 宵月夜の殺気が、突き刺さってきた。榎は一瞬、怯んだ。
「誤解どす! ポン吉くんのお怪我は、崖崩れに巻き込まれて……」
「黙れ! ならばなぜ、お前たちがこの山の麓にいる!? 俺達の住家が崩れて幸いと、襲撃に来たのだろう!? お前らごときにやられる妖怪ではないぞ!」
 周の言葉には耳も貸さず、宵月夜は怒鳴った。狸宇を抱き上げて、再び空へと舞い上がった。
 今の宵月夜は、追い詰められた獣も同然だった。住処が潰され、仲間の妖怪が怪我を負い、目の前に仇敵がいる。宵月夜が怒りに任せて暴れだす要素は、揃っていた。
「仲間を守るためと思って、今まで大人しくしていたが、もう我慢の限界だ。お前ら全員、この場で塵に変えてやる!」
「椿! 宵月夜は本気だ。気をつけて。委員長は物影に隠れて!」
 説得や弁明は、不可能だと悟った。榎は宵月夜の攻撃に備えて、構えの体勢に入った。
 宵月夜が真に力を発揮すれば、どれほどの威力なのか。
 榎たちに、止められるのだろうか。
 想像もつかなかったが、今の宵月夜から逃げられるとも思えない。
 真っ向から挑んだほうが、犠牲が少なく済みそうだと判断した。
「みんなを守る力を。〝守護の旋律〟!」
 椿が笛を吹き、榎たちの前方に、防衛の結界を張った。
「宵月夜さま、いけませぬ! 過剰に妖力を放出しては、〝奴〟に我等の居場所を勘付かれまする!」
 八咫が必死で、宵月夜を宥めようと試みていたが、無駄に終わった。
 宵月夜は頭上に、巨大な風の渦を作り上げた。渦の中には雷鳴が轟き、電流が激しく光り、うねっていた。何の躊躇もなく、宵月夜はその渦を、榎たちめがけて投げ込んだ。強烈な風に包み込まれ、崩れた土砂が巻き上げられ、体中にぶつかってきた。
 強烈な風による衝撃は、椿の術が防いでくれた。無防備に受けていれば、真空の刃で、体が引き裂かれていたかもしれない。榎は椿に感謝した。
 だが、徐々に竜巻の力が押し、防壁が弱くなってきた。
「駄目。椿の力なんて、すぐに掻き消されちゃう……」
 防壁が薄くなるにつれて、椿は心が折れ、泣きそうになっていた。
「宵月夜のやつ、こんなに強かったのかよ……」
 榎は焦って、舌を打った。
 どうする、どうやって戦う。
 今のまま戦って、無事で済むのか。
 弱気になりかけていた時。急に、ずしりと、体に圧力が掛かった気がした。
 同時に、風は静まり、浮き上がっていたものが全て、地面へと落ちた。
 宵月夜や八咫も、例外ではなかった。飛行能力を奪われたみたいに、地面へ落ちて、這い蹲った。
 八咫はもがいて狂い鳴きをはじめ、宵月夜も、動揺しながら、周囲に敵意を放っていた。
「何、この感じ。体の震えが、止まらないわ!」
 椿は地面に、膝を突いた。椿は膝を折って、蹲った。同時に、防壁も消滅した。
 嫌な空気が、上からゆっくりと、落ちてきていた。榎は恐る恐る上を見て、呼吸を止めた。
 山を挟んで向こう側に、巨人が立っていた。古臭い、和風の鎧を身に纏った、大男だった。
 目の部分には眼球がなく、吸い込まれそうな深い闇が、ぽっかりと穴をあけていた。口は大きく開き、中から鋭い牙が、覗いていた。 
「何だよ、このでっかい奴は。妖怪、なのか?」
 榎は困惑した。もし、この巨人が妖怪だとしたら、とても夏姫の手には負えない。椿と力を合わせても、仮に、四季姫が全員揃っていたって、勝てる気がしなかった。
「宵月夜さま、悪鬼オニでございます! とうとう、発見されましたぞ!」
 八咫が怯えて、叫んだ。八咫の嘴から突いて出た名前を、榎は自然と受け入れた。
「こいつが、悪鬼――」
 木蓮が話していた、大昔から京都に住んでいるという、謎の存在。
 こんなに大きい奴だったのか。
 見上げるだけで精一杯だった。
 あまりの恐怖に、榎の足は鉛みたいに固まり、身動き一つ、とれなかった。
 悪鬼は、榎たちなど眼中になかった。おぞましい、二つの暗い眼の穴は、ひたすらに一点を見つめ続けていた。悪鬼の視線の先には、宵月夜がいた。
 宵月夜も悪鬼を睨み上げ、激しく威嚇した。
「いつもいつも、肝心なときに邪魔をしにくる。目障りだ、消えろ!」
 宵月夜は再度、強烈な竜巻を生み出し、悪鬼めがけて飛ばした。榎たちが受けた風よりも、さらに威力の増した、強い攻撃だった。
 なのに、悪鬼には掠り傷一つ負わせられず、風は静かに掻き消えて、空気と同化した。瞬間、宵月夜の表情が、怯えに変わった。
「宵月夜の攻撃が、まったく効いていないのか?」
 信じられなかった。榎は唖然として、悪鬼と宵月夜を、息を荒げて見つめるしかできなかった。
 間髪入れる暇もなく、悪鬼の反撃が始まった。悪鬼は両手を組み、巨大な鎚みたいに、山へと振り下ろした。再び、山が崩れて、土砂が宵月夜めがけて、流れ落ちてきた。
「宵月夜さま、危ない!」
 八咫が翼で目を覆い、叫んだ。宵月夜も、狸宇を抱きしめたまま、まるで抵抗する気力を失っていた。放心状態で、落ちてくる土砂を見つめていた。
「宵月夜、伏せろ! 〝竹水の斬撃〟!」
 榎は、無我夢中で、土砂に向かって飛び込んでいた。技を放ち、襲ってくる石くれの群れを切り裂いた。山の内部にある、坑道らしき穴に向かって、道ができた。
 宵月夜の腕を掴み、榎は一心不乱に、作り上げた道を走った。どこをどう、進んだかは、まったく分からない。気付けば周囲は真っ暗で、遠くから土砂の激しく崩れる音が響いた。聴覚が奪われ、足も動かなくなった。
 背後より、爆風みたいに激しい風圧と、石礫の豪雨が襲ってきた。榎たちは前方へと吹き飛ばされた。
 地面に倒れると共に、全身に痛みが広がり、榎の意識は急激に、遠退いていった。
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