琉球お爺いの綺談

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戦国歴史if

宵闇戦国草創異聞 戦国期以前の宵闇海外事情

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 日本が、鎌倉幕府滅亡から戦国期を迎えて終焉を迎えるまでの間、日本の海外事情としては、非常に様々な活動が行われた時期でありました。
 椿月弓張月異聞に記載されるように、日本のリアルチート代表である、源為朝が、下田沖海戦に勝利し、相国清盛公から、事実上の国外追放処分である、「海外勝手次第」の朱印状を受けたことで、大きく海外へと飛び出していった。
 伊豆諸島を中心とした権益は、為朝の嫡女一姫と清盛の嫡男重盛の子宗実を婚姻させることで、為朝の嫡女一姫と平宗実、一姫の弟小笠原為頼を中心とした、後に伊豆七党と呼ばれる、伊豆水軍衆が確立された。
 源平合戦後、伊豆三島大社に二位尼、建礼門院を宮司(病死後の安徳天皇)と共に迎えた。

 為朝は、嵯峨院への寄進として、嵯峨諸島、南方嵯峨諸島の開拓を進めた。また、この頃、北宋が滅び、大量の亡命者が和国へ流れてきた。亡命者の一部が漂流の末、嵯峨諸島に辿り着き、為朝は、島の一つを宋ヶ島として亡命者の拠点とした。
 宋国皇帝徽宗の愛妾と実子が亡命者に居たことから、宋江、岳飛といった忠臣に対し、奸臣の手によって死罪とした宋という家は、功に罪を持って報いた贖罪の霊廟を宋ヶ島へ築き、宋の家が子孫は、忠臣を祀るとしました。

 宋国の悲劇は、様々な形で伝搬し、絵草子や演劇、謡いの中で紹介されて、難波、京洛へ大きな影響を与えていました。新技術である火薬兵器、大筒や連環筒についても、梁山泊の英傑凌振が亡命したことにより日本に伝わり、大輪田泊や彦島、博多といった港湾部の防衛するために配備されるようになりました。
 源平合戦後は、鎌倉水軍の拠点となった、彦島に設置されていた大筒や連環筒を受け継いだ。第一次日元戦争時には、彦島に押し寄せた、モンゴルの先遣隊を、砲撃で叩き潰し、意気をあげると共に、彦島の砲戦距離にモンゴル艦隊を引きこんで、第一次日元戦争における撃滅戦を実施した。
 第二次日元戦争では、大筒二門を左右に乗せた大船を展開し、モンゴル艦隊の鉄苞を飛ばす回回砲との砲撃戦が行われた。これが、世界史上最初の火力戦だと言われている。

 海外では、為朝が海外に拠点都市竜胆を拓いた。為朝と西海竜王が嫡孫玲の子皐太が生まれ、竜胆では、クワクワ族などの周辺諸部族、西方より訪れたヴァイキングなどと連合体を形成していった。
 竜胆は、南方にあるアステカや周辺部族と、鉄剣や鉄槍といった武器と鉄鉱石、砂金、銅器の交易をおこなっていた。鍛造による小型の山刀が、竜胆より出荷されていた。

 また、為朝は太平洋上の島にミズチ衆が島の神カマプアアの子らとして、カマプアア衆として認められた。結果として、カマプアア衆は、中部太平洋から東部太平洋にかけて広がっていった。西部太平洋のミズチ衆と同族ではあるが、賀茂斎宮家を中心とした和国の社会体制に組み込まれているミズチ衆と異なり、西部太平洋のカマプアア衆は、カヌーに乗って、海を自由奔放にして気ままに旅する一族となっていた。
 新たなハワイキ島には、徽宗の娘趙香雲と岳飛の娘岳安娘が、新たな島を拓いていった。

 為朝を家祖とする八幡衆は、時代が下がると共に、太平洋全域に広がっていったのであった。為朝の足跡は、太平洋一帯の島々からさらに南米にかけて残されていた。八幡衆の大航海時代という呼び方をする歴史家もいる。



 戦国期に入ると、モンゴルの終焉と共に、日明貿易が開始され、日ノ本経済が活性化していったのである。



 日ノ本では、為朝や八幡衆の話が様々な形で伝えられるものの、交易という意味では、小規模な交流にとどまっていた。これは、日ノ本にしても竜胆のような都市にしても、地産地消を基準とした社会体制をとっていたことにある。琉球、竜胆、嵯峨諸島などとの交易は、砂糖などの奢侈品を含めた薬樹といった貴重品取引が中心であり、生活必需品は交易の対象にはあまりならなかったと言われている。
 つまり、日ノ本にとっての交易とは、宋や明に対して行った「朝貢」型の物納に対する「返礼」品の価値に差があり過ぎたため、非対称な交易がおこなわれたという事実がある。モンゴルとの密貿易を含めて、モンゴルは、対等な交易を求めていた側面があるため、取引相手に向かなかったというのも、日元交易が不調に終わった原因とされている。


 日ノ本が戦国期が後半となる頃、欧州から大航海時代の波が押し寄せてくる。


 このことが変わっていくのは、欧州の大航海時代が始まったあたりからである。胡椒を求めて、アフリカの喜望峰からインド洋に到達し、胡椒を求めるようになったため、バスコ・ダ・ガマの乗るポルトガルの船が、インドネシアへと到達した。
 ポルトガル船にせよイスパニア船にしても、当時のインド洋で行われていた商慣行を知らず、異教徒に対する疑心暗鬼から非常に危ない交易をおこなう船という認識を受けていた。ポルトガル船に対する警戒は、インド洋を航行する交易船を通じて、各地域に伝えられていた。

 また、イスパニア船が、カリブ海や南米に到達すると、凄まじい虐殺の嵐と疫病の蔓延が中南米を襲うこととなった。既にロングアイランドやハバナに拠点を築いていた、ヴァイキング船団の攻撃を受けるなど、イスパニアとヴァイキングの戦争が始まった。イスパニアとヴァイキングとの戦争は、海上では、イスパニアが優勢であったものの、地上では数が多いヴァイキング側が優勢であった。ヴァイキングは、戦斧や手斧、弓に刀を中心に武装していて、コンキスタドールと真っ向からの対立と戦闘が発生していた。アステカやインカへの輸出品には、ヴァイキングと同様に、鋼の刀だけでなく手斧や鑓、鎌、盾が輸出されていて、鋼の武器で武装していたこのため、コンキスタドールは思った以上に強力な抵抗に合っていた。ただ、コンキスタドールによる虐殺だけでなく、疫病の蔓延によって、人口が減少するといった事態に、中南米の国々が衰亡していったこともまた事実である。
 竜胆がインカとの友諠を結んでいたことから、イスパニアは竜胆を含めた諸部族衆との戦争にまで発展することとなった。竜胆が遠方にあったため、支援が難しく、当初は亡命と防疫を兼ねて、竜胆の遥か南方にインカとの中継拠点を設けていた。中継拠点をインカディアの湊と町として、防疫体制を整えていた。アステカやインカを含めた中南米からの亡命者が、インカディアへと流れて来た。
 天然痘による疫病の蔓延は、非常に大きな被害となって顕われていた。インカ帝国は、実質的に国民の六割を疫病で失い、国家としての機能をほとんど失っていた。
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