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1巻

1-3

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 初の休日は昼くらいまでゆっくり寝る予定のはずが、鳥の鳴き声が東京に比べて尋常じゃなく、ぱっちりと目が覚めてしまった。うるさいくらいにせみも元気に鳴いている。

「う~ん……涼しい~」

 布団の上で伸びをする。窓から入る朝の空気が清々すがすがしくて気持ちいい。
 この二日間、柚仁の指示通りに何とか家事をこなし、昨夜は店番のことも教わった。
 料理は……かなり適当に作ったので、もしや叱られるかもと心配したんだけど、彼はひとつも文句を言わずに完食してくれた。でもなかなか美味おいしいとは言ってくれないので、幸香姉から借りてきた料理本を熟読して、もっと研究しようと決意する。

「六時すぎか~。いいやもう、起きちゃおっと」

 午後にお昼寝でもしよう。時間を確認したスマホをローテーブルに置き、私は布団を畳んだ。
 Tシャツとデニムのショートパンツに穿き替えて階下に下りる。物音はしない。そういえば、柚仁はどこで寝ているのだろう。起こしては悪いので廊下をそろそろと歩き、洗面所へ向かった。

「お散歩でもしようかな。まだ海見てないし」

 歯を磨き、顔を洗ってつぶやく。

「……うーす」
「きゃ!」

 後ろから声をかけられ、思わず悲鳴を上げてしまった。

「あ、おはようございます」
「そんなに驚くことないだろ。休みなのに早いな」
「何か、目が覚めちゃって」
「鳥がうるさいからな」

 Tシャツの袖が触れ合うくらいのすぐ横で、歯ブラシと歯磨き粉を手にした柚仁に、どきりとする。なぜかこの前の作務衣さむえ姿の彼を思い出し、また顔が熱くなった。あーもう何なの、これ。

「まぁいいや。俺、出かけるから」

 柚仁の髪は寝癖がつきやすいのか、ぼさぼさだ。

「どこに行くんですか?」
「海まで散歩」
「私も行きたい!」

 歯ブラシをくわえた柚仁が、嫌そうな表情をした。

「……一緒に?」
「まだ海を見てないから行きたいな~と思ってたんですけど、道がわからなくて」

 柚仁はガシガシと磨きながら、鏡越しに私の顔を見ている。見ているというか、にらんでいるというか。

「ダメなら別にいいんですけども」
「……」

 何の返事もせずに、柚仁は口をすすいで、顔をバシャバシャと洗っている。返事を諦めかけたそのとき、タオルで顔を拭いた彼がぼそりとつぶやいた。

「すぐ出るからな。玄関で待ってろ」
「やった、ありがとうございます!」

 朝が早くて人も少ないだろうから、一人でぶらぶらするのが実はちょっぴり怖かった。これで海までの近道もわかるし、一石二鳥だ。
 急いで屋根裏部屋に上がり、押入れにしまっておいたビーチサンダルを取り出した。

「これこれ」

 ビーサンで歩き回るのって、海のそばに住む人っぽいじゃん? そう思って、引っ越し直前に近所で買った特売品だ。色がちょっと気に入らないけど、百円だったので贅沢ぜいたくは言わない。つばの広い麦わら帽子を頭に乗せて、スマホをポケットに入れた。


 玄関を一緒に出た柚仁はTシャツにハーフパンツ、そしてやっぱり下駄げたを履いていた。そこは外せないのね、こだわりなのね。
 花岡家の前にある路地を歩いて行く。この辺はどこまでも平坦な道が続いていて、自転車で移動するのもラクそうだ。
 涼やかな空気に包まれた町は静かで、犬の散歩をする人やジョギングをしている人とたまにすれ違うくらいだった。ゆったりした住宅街の雰囲気が心地いい。
 カラコロと下駄の音を鳴らして進む柚仁は早足だった。慣れもあるんだろうけど、ついて行くのが大変。というか……どうしよう。ビーサンがれて足が痛くなってきた。
 とりあえずは我慢して、その背中を追いかける。一度もこちらを振り向いたりしないところが彼らしいというか何というか。私のことは本当にどうでもいいんだろう、なんて卑屈な気持ちが湧いてくる。

「あ」

 川沿いを曲がり、しおの香りを強く感じた瞬間……海が現れた。

「わぁ、綺麗!」

 朝早くの夏の海は水色がかっていて、穏やかな白い波がきらきらと輝いていた。
 横断歩道を渡って、砂浜に下りる階段の手前で立ち止まる。砂浜には犬の散歩をしている人たちが数人と、サーファーが何人か海に入る準備をしているだけだ。たくさん建設された海の家も静まり返っている。
 海を見つめている柚仁へ質問をした。

「結構泳ぐんですか?」
「真夏の海には入らない」
「何でですか?」
「夏休みの湘南なんて地獄だぞ? どこもかしこも人人人で、ろくに泳げやしない」
「まぁ、そうですよね」

 この道路は鎌倉かまくらしまに続いている海沿いの道だ。車で走ったら気持ちよさそうだけど、確かに人は多いかもしれない。

「夏休み直前の暑い日に少し入るくらいだな。海は見てるだけのほうが好きかもしれない」
「私もプールは入りますけど、海ではあまり泳がないです」

 ふーん、と興味なさそうに返事をした彼と、しばらくの間海を眺めていた。
 こんなに近くで波の音を聞くのって本当に久しぶりだ。時間の経過とともに、水色だった空と海の色が、青く青く染まっていった。
 ぼんやりしていた私は、耳に届いた下駄げたの音にハッとした。
 何も言わずに歩き出した柚仁に、慌ててついて行く。もう行くぞ、くらい言ってくれてもいいのに、何だかなぁ。
 先ほどの信号に戻って渡り、道路沿いの歩道を進んで行く。逗子の海は湾になっていて、波がとても穏やかだ。しばらく歩いて海とは真逆の道へ曲がった。
 それにしても足が……ビーサンにあたっている指の間と甲の痛みが限界に近くなっている。我慢できずに、ずりずりと足を引きずらせて歩くと、柚仁が私を振り向いた。

「俺は、そこの店でコーヒー飲んで帰るから」
「あ、そうなんですか」
「お前は?」
「私、お金持ってないんで帰ります」
「あそ」
「はい。それじゃあ失礼します。連れてきてくださってありがとうございました」

 お辞儀をして、そそくさとその場を離れた。足を引きずっているのを見られたら、益々嫌がられそうな気がする。自分からついて行きたいって言ったクセに、このざまだもん。道行く人も増えてきたし、もう怖くはないから、さっさと帰ろう。
 本当は私もコーヒー飲みたかったな。というか、ここからどうやって帰ればいいんだろう。何となく、こっちだろうかという方角へ、のろのろと歩き出して、地図を見るためにポケットのスマホを探る。
 突然、カラコロという音が後ろから聞こえた。振り返ると、彼が目の前にいる。

「ったく、しょうがねぇなぁ」
「あ、わ……ごめんなさいっ」

 思わず謝った瞬間、手をぎゅっと掴まれた。

「給料から引いてやるから、一緒にこい」
「え」

 手、つないじゃってるんですけど……。足が痛いのなんて一瞬で吹っ飛んでしまう。ずんずんと歩く柚仁に引っ張られて、私はよろめきながらお店に入った。

「いらっしゃいませ~。あ、花岡先生」
「おはようございます」
「おはようございます。お好きなお席へどうぞ~」

 どうやらここは柚仁の馴染みのお店らしい。窓の大きい明るい店内が素敵。ずいぶん朝早くからやってるんだ。コーヒーの香りにまじって焼き立てパンの匂いもただよっている。
 海が見える窓際の席に着いた。

「座ってれば、少しはよくなるだろ」
「すみません」

 私の足のことに気づいて、気を遣ってくれたの? 彼の意外な言葉に戸惑った。

「お待たせしました」

 オーダー後、無言でいた私たちの前に、口の広い瓶に入ったアイスコーヒーが運ばれてきた。最近、このスタイルを雑誌でよく見かける。とても美味おいしそう。
 店員さんは、肌も髪も日焼けした、いかにも海の男って感じの人。サーフィンもやってそうだ。

「珍しいですね花岡先生。可愛い女の子と一緒とか」

 からかうように笑いながら店員さんが言った。いえいえ、ただの家政婦なんです、と柚仁が答えるのを予想していたのに――

「可愛いってさ」

 そう不機嫌な声で言われても、何て答えればいいのかわからない。家政婦だってことを知られるのが嫌なのだろうか。

「……はは」

 苦笑いする私に、店員さんがにっこり笑った。真っ白い歯がまぶしいです。
 美味おいしいアイスコーヒーで満たされた私たちは、おしゃべりをするでもなく、お店を出た。しかし……五十メートルも進まないうちに、また足が痛くなってきた。どうしよう。

「ゆ、柚仁」

 声をかけた途端に、大きくため息をかれた。あきれられそうで怖いけど、言わなくては。

「先に帰っててください。私、マイペースで行きますんで。休ませてくれたのに、ごめんなさい」

 彼に向かって頭を下げる。

「乗れ」

 ところが、立ち止まった柚仁が私の前にしゃがんだ。

「え、え?」
「ちんたら歩かれると逆に恥ずかしいんだよ。いいから乗れ」

 おんぶってこと!? そっちのほうが恥ずかしいんじゃ……!?

「早くしろよ」

 逆らえば余計に彼の機嫌が悪くなりそうで、お言葉に甘えて、私は彼の肩に掴まり体を寄せた。それを合図に柚仁が立ち上がる。おんぶって、こんなに体が密着したっけ……?

「やっすい、使い捨て目的みたいなビーサンなんか買うからダメなんだよ」
「ですよね」

 叱られつつも別のことばかり気にしていた。
 私はショートパンツだから、柚仁の手が直接太腿ふとももの裏に触れていて、今さらだけどすごく恥ずかしい。……重いだろうし。
 リズミカルな下駄げたの音が体に響く。歩く速度は家を出たときと変わらないように感じた。

「下駄でこういうことできるって、すごいですね」
「お前にも買ってやろうか、下駄」
「え、えーとそれは、遠慮しときます」

 私の返事を聞いた柚仁が、ふっと笑った。彼の柔らかな表情に、私の心臓がきゅっとなる。こんな顔、するんだ。
 海に出るまで早足で追いかけていた背中が、今目の前にある。柚仁の肩に乗せた私の手のひらに、Tシャツ越しの彼の熱い体温が伝わった。そっと顔を傾けると、彼の頬に汗が流れ落ちているのが見えた。
 そのとき、何かが頭をよぎった。小さい頃に、こんなことがあったような――。おじいちゃんでもお父さんでもなく……歳の近いお兄ちゃんみたいな存在の人におぶられて。って、そんなことあるわけないか。私には姉が二人いるだけで従兄弟いとこもいないんだから。


「遅いなぁ、どこまで行ったんだろう」

 散歩から帰ったあと、葉山はやまに行くと言って柚仁が出かけてから数時間。時計の針は二時半になろうとしていた。今朝おんぶをさせてしまったお詫びとして、お昼ごはんを作って待っています、と出かける柚仁に玄関で伝えたんだけど……彼はなかなか戻ってこない。もうどこかで食べてしまったのだろうか。
 和室のテーブルに置いた、土鍋でいたおこげごはんの塩むすび。ラップのかかったそれを見つめてため息をく。あとは肉じゃが、胡瓜きゅうりとミョウガの酢の物に、お味噌汁を台所に用意してある。お腹が減ったし、もう食べちゃおうか。
 と、思ったそのとき、玄関の引き戸が開き、廊下を歩いてくる足音が近づいてきた。座っていた体の向きを変えて彼を迎える。

「お帰りなさい」
「ん」

 柚仁が袋を差し出した。

「? 何ですか」
「開けてみ」

 彼はたたみの上にどかっと座り、胡坐あぐらをかいて私を見た。袋の中身を取り出すと、そこには。

「あ、ビーチサンダル!?」

 色は淡い桜色で鼻緒が白のビーチサンダル。葉山にある有名なビーチサンダルのお店のものだ。

「可愛い色……! 桜貝みたい」
「お前が履いてたやつよりも、ずっと履きやすいはずだ。そっちの袋も開けてみ」

 言われた通り、もうひとつあった紙袋を開ける。手に触れた柔らかなものを引き出した。

「か、可愛い~! これは、鹿?」
「犬だろ。犬飼ってる店のロゴだから」

 首回りがグレーで、全体はエメラルドグリーンのタンクトップ。真ん中に、鹿に似た犬のロゴが入っていた。タンクトップだけどシルエットが女の子らしくて、とっても可愛い。

「家政婦の制服にな。着ろよ」
「こんなに可愛いの着て仕事できませんよ! お出かけ用にします!」
「まぁ勝手にしろ」

 ボトムはパンツでもスカートでも何でも合いそう。
 柚仁は持っていたペットボトルのふたを開けて、スポーツドリンクをごくごくと飲んだ。外、今日はすごく暑かったはず。

「あの」
「ん?」
「これを買うために葉山へ行ってたんですか?」
「俺も欲しいのがあったんだ。お前のはついでだ、ついで」
「お金はコーヒー代と一緒に、お給料から引いておいてくださいね」
「いいよ。それはやる」
「……え」
「コーヒー代はもらうから、それでいいだろ。その代わり、しっかり働け」

 ぶっきらぼうに言い放つ彼の言葉が、とてつもなく優しく感じるのはなぜ……? 胸に何かが込み上げ、なかなか言葉が出てこなかった。

「どうした?」
「あ、ありがとうございます……! 大切に着ます。ビーチサンダルも大事に履きます」
「おう」

 どうしちゃったんだろ、私。
 これを着て桜貝色のビーチサンダルを履いて……柚仁と一緒にどこかへ出かけたい。そんなことを思うなんて。


     + + +


 花岡家へきて二週間が経った月曜日の朝。最近は日ごとに暑さが厳しくなり、寝苦しい夜が続いていた。
 顔を洗って、窓の開いた縁側へ行く。麦わら帽子を被った柚仁が庭の小さな畑にいた。

「おはようございます。早いですね」

 サンダルを履いて庭に出る。

「日が高くなると暑いからな。今の内に収穫」
「これ、もう採っちゃうんですか? まだ青いのに」
翡翠ひすい茄子なすって言って、紫にはならないんだよ。普通の茄子は最初から紫色だ」
「へぇ」

 綺麗な色。お漬物にしたら美味おいしそうだ。

「日鞠、帽子被ってこいよ。収穫するの手伝ってくれ。杉田さんにもお裾分すそわけしたいからさ」
「ほんとに? おじいちゃん喜びます」
「杉田さんにはお世話になってるからな。時々差し入れしてるんだ」
「そうだったんですか。ありがとうございます」

 屋根裏部屋に戻って麦わら帽子を被る。階段を下りて廊下を歩こうとした瞬間、ふらりと軽い眩暈めまいが起きた。

「寝不足かな~。あとで昼寝しよ」

 再び庭に出て柚仁に軍手とはさみを借り、彼の横にしゃがんだ。大きな胡瓜きゅうりが何本もぶら下がっている。黄色いお花が残ってて可愛い。スーパーに売っているのと違って不恰好だけど、新鮮で美味しいんだろうな。柚仁は鋏を持って、茎から胡瓜をさくさくと切り離している。
 私も胡瓜に触りたくて大きな葉をめくると、そこに何かがいた。何かが……!

「ぎゃー!」
「何だよ!?」
「へ、変な虫が……!」
「軍手してんだから大丈夫だろ。つまんで畑から出しとけ」

 つまんでったって……。何の幼虫だろう、これ。芋虫ちゃん、ちょっと触りますよ~。……太ってるなぁ。きっと蝶だね。そうだよ、綺麗な蝶に変わる芋虫なんだよ。よく見れば可愛いような気がしなくもないような。

「あ、それの幼虫だな」
「ひい!」

 柚仁の言葉を全部聞く前に遠くへ投げてしまった。ご、ごめん! でも蛾は無理!

「ひでぇな、お前は。害虫だからいいけど」
「蛾、はちょっと。蝶は平気なんですけど」
「どっちも変わらないだろ」
「変わりますよ! 飛び方とか見た目とか」
「ほれ」
「?」

 柚仁が差し出した生物と、至近距離で目が合ってしまった。

「きゃああああ!! ト、トトト、トカゲッッ!!」

 飛び上がるようにして立ち上がり、後ずさった。顔にくっついたらどうしてくれる……!

「ははっ! どこまで行くんだよ~」

 あ、笑った。ここにきて初めて、彼が大きな声を出して笑ったのを見た。おんぶしてくれたときも思ったけど、笑ってるほうが……ずっと素敵なのに。

「トカゲもダメなのかよ」
「は、爬虫類はちゅうるいは、ちょっと」
「そっか。ま、早く戻れ。トマトもがせてやるから」

 柚仁は私がいる場所とは反対方向に、ぽいっとトカゲを投げた。
 畑へ戻って指示に従い、真っ赤なトマトにそっと手をあてる。張りがあって、つるりとしたトマトが本当に美味おいしそうだ。

「こうやるんだよ」
「ここを押さえるんですか?」

 彼のやり方を見ながら、私もトマトもぎに挑戦した。トマトを支えているのとは反対の手で、ヘタの部分を押さえる。

「そう、その節みたいなとこな。そんで、こっちの親指で押す」
「こう?」
「あー全然違う。野菜を傷つけないように優しくしろ」
「はい」

 慎重に、慎重に。力を入れすぎないように。

「あ! できました! できたできた!」

 力を入れなくても、簡単にトマトをもぐことができた。
 手に乗せた重みに自然と笑みが零れてしまう。柚仁にトマトを見せようと振り返ると、すぐそばに彼の顔があった。柚仁はなぜか帽子を取り、真面目な表情で私を見つめている。
 え? 何? 何も言わない彼の言葉を待って、そのまま見つめ合っていると、急にその顔が近づいた。

「!」

 避ける間もなく唇を軽く重ねられた。え、ちょっと、え、え……!?
 じーじーと鳴いていたせみの声が、しゃわしゃわという鳴き声に変わっている。
 すぐに離れた柚仁に向けて、何とか言葉を吐き出した。

「な、なんで……」

 混乱してる。持っていたトマトが手から零れ、土の上にぽとんと落ちた。

「わかんね。何でだろな?」

 こっちが聞いてるんですけど! 

「犬とか猫にするのと同じだな」

 照れるでもなく、赤くなるでもない柚仁が立ち上がってぼそっと言った。
 突然すぎる出来事に言葉が出ない。

「それ、そこのかごに入れて両隣と前の家に配っといて。あと、こっちは杉田さんちな」
「……はい」

 意味わかんないよ。どういうこと? 犬とか猫ってペット扱い? 私の反応見て楽しんでるだけ?
 ドキドキが止まらない。何か、顔が熱い。体も……頭がくらくらする。キスなんて久しぶりすぎて、だから、のぼせちゃっ、た……

「日鞠? おい……!」

 あー……空が、綺麗。


「軽い熱中症だね。スポーツドリンクを口から飲めるし、ここでゆっくり休んでいれば大丈夫だ。花岡先生の応急処置がよかったね。夜はエアコンつけて寝てるかい?」
「……いえ」

 おじいちゃんと同じくらいの歳のお医者さんが優しい声で、布団に横たわっている私に質問する。

「この家は涼しいほうだけど、暑いときは無理しちゃダメだよ。よく眠れていないんだろう」
「……」

 はい、その通りです。東京にいた頃はいくら暑くても、こんなことはなかった。

「体力が落ちていると熱中症にかかりやすいんだよ。普段から睡眠と栄養と水分をしっかりること。疲れすぎないようにね」
「はい」
「つらかったら病院で点滴するけど、どう? 筋肉痛とかあるかい?」
「どこも何ともないです」

 ふらっとしたのは一瞬で、意識はすぐに戻っていた。それでも何かあったら大変だと、柚仁が近所の病院へ電話をしてその場で対処法を聞き、応急処置をしてくれたのだ。柚仁とは懇意のお医者さんらしく、電話後に家へ駆けつけてくれた。

「花岡先生、また何かあったら連絡くださいよ」
「ありがとうございました。お忙しいのに申し訳ありません。助かりました」
「いえいえ。困ったときはお互い様だ」

 立ち上がった先生に向けて、私は横になったまま会釈えしゃくをした。

「ありがとうございました」

 寝てなさいよ、と笑った先生は柚仁と話をしながら和室を出て行った。天井を見つめて、静かなエアコンの音を聞く。情けないなぁ、雇われている身で迷惑かけて。
 先生を見送って戻ってきた柚仁が私のそばに座った。

「お前のとこ、暑いよな。今夜から絶対にエアコンつけろよ?」
「すみません」
「どうせ電気代がかかるとか、いらない遠慮してたんだろ。本当は畑に出る前も疲れてたんじゃないのか。……気づかなかった俺も悪いけど」

 すっかり忘れてしまったような口調に少しだけ腹が立って、つぶやいた。

「のぼせたんです。……あんなことするから」

 タオルケットの端を持って柚仁の顔を見つめる。

「あんなことってなんだよ」
「……キス」

 恥ずかしくなって口を引き結ぶと、難しい表情をした彼が再び立ち上がった。

「それは……悪かったよ。もうしない、ごめん」
「……」
「今日は一日寝てろよな。メシは俺が作るから」
「ありがとう、ございます」

 自分からキスしておいて、何でそんな複雑そうな顔をするわけ? こっちはどう悩んでいいかもわからないくらいなのに……


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