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1巻
1-2
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昨夜は実験として、実家の納戸で無理やり寝たせいか体中が痛い。扇風機を借りても暑くて眠れなかった。
「ここ、風が通り抜けて涼しい……」
振り返って広い畳の部屋を見る。田舎の古民家、って感じだ。縁側の板は古いけれどよく磨かれて黒く光り、美しかった。私はそれを手のひらでさすりながら、思わず横になる。見上げた空が、東京にいるときよりも、ずっと高く見えた。
「とんびだ……」
ぐるぐると飛び回るとんびの、ぴーひょろ、ぴーひょろという鳴き声が降ってくる。湘南のとんびって、人が食べてるものを攫っていくのが上手なんだよね。高校生の頃、稲村ヶ崎でハンバーガー獲られたことあったっけ。
垣根の向こう側を、子どもたちが騒ぎながら歩いている。ああ、小学生は夏休みに入ったのね。
瞼を閉じて夏の強い日差しを全身に感じる。蝉が近くで鳴き始めていた。ここでも微かな潮の香りがする。風が、頬を撫でていく。この感じが何となく、懐かしい。本当、気持ち、いい、な……
「……おい」
ぼんやりした視界の中で、誰かが私を見下ろしている。せっかく気持ちよく眠ってたのに……誰?
「おいそこの、金太郎!」
「え……あ、はいっ! き、金……?」
しまった、自分の家じゃなかったんだ! 慌てて飛び起き、縁側に立つ声の主を見上げる。
「不法侵入かよ。人んち勝手に上がって、ガーガー寝やがって」
「すみません! あ……あなた、さっきの!」
下駄男!!
「ああ。字の汚い女か」
「どっ、どうしてここに」
「自分の家にいて何が悪いんだよ」
花岡って、本当にこの人だったの!?
「じゃあ、あなたやっぱり、書道の先生やってる人のお孫さん?」
「は? 俺がここで書道教えてるんだけど」
「え」
「杉田さんが紹介してくれる人って、もしかしてあんたのこと?」
花岡さんは私を胡散臭そうに見下ろしていた。多分私も、彼と同じ顔をしていると思う。
だって、嘘でしょ? おじいちゃんが尊敬してるって言うから年配の人だと思ってたのに。この人が書道家? 店番だけじゃなくて、家政婦も頼みたいっていう……?
ようやくしっかりと目が覚めて、気づいた。
私が住み込みで働くことになったら、この人とここで一緒に暮らすってことになるの?
腕組みをして私を見ている花岡さんに恐る恐る声をかけた。
「あの」
「何」
「金太郎って何で、ですか?」
もっと他に聞くことあるでしょ、っていうのはわかってるんだけど、混乱しているらしい私の頭の中には、こんな言葉しか浮かばなかった。
「その頭」
彼が私の頭を指さした。ああ、髪形のことね。顔が引きつる。
「ショートボブって言ってください。大体あんなに前髪短くないですし、髪の色真っ黒じゃないですし」
「どうでもいいわ。名前は?」
ものすごい流し方に、かちんとしつつも答える。
「杉田……日鞠です」
「杉田さんの孫、ってことで間違いないんだな」
「はい」
縁側に座っていた私は、地面に足を下ろして立ち上がり、滅多に穿かないスカートの裾をさっと直した。一応面接的なものをすると思って穿いてきたんだよね。……寝ちゃったけど。
「で、うちで働きたいって?」
「はい、そうです。家政婦って、本当に住み込みなんでしょうか?」
おじいちゃんはどういうつもりで、ここに行けって言ったんだろう。この人、私と同年代な感じだよ? せいぜい二、三歳上くらい。
「杉田さんがそう言ったんだ? 俺が住み込みの家政婦募集してるって」
「え? はい、そうですけど、違うんですか?」
「……違わない」
そこでなぜか、彼は視線を外した。
「杉田さん、俺のことは何か言ってた?」
「おじいちゃんが尊敬する書道の先生だと言ってました。だからてっきり、おじいちゃんと同じくらいか、もっと年上の方かと……」
花岡さんは、うんうんと何度も頷き、満足げな声を出した。
「そうかそうか、尊敬か。まぁ、尊敬してるのは俺のほうなんだけどな。とにかく杉田さんの顔を潰すのは俺もごめんだ。靴脱いで上がれ。家の中、案内する」
「あ、はい」
すごい命令口調。こういうのを俺様っていうんだろうか。三次元で初めて出会ったよ。おじいちゃん曰く変わってる人らしいし、書道家ってこういう人が多いのかな。
靴を脱いで縁側から上がる。今は全開にしているここは、よく見ると大きなサッシ窓がついていて開け閉めできるようになっていた。これが多分、広縁と呼ばれるものだ。
襖の開いた二間続きの和室と、廊下の向こうにも同じような和室が二間。奥に行くほどひんやりとした空気になり、薄暗くなっていくのが日本家屋らしいと思った。どこからか漂ってきた蚊取り線香の匂いが、ふと鼻先を掠めた。
玄関に一番近い和室が書道教室で、隣には生徒さん用のトイレがある。玄関横の書道専門店は、想像していたよりも狭かった。
「書道教室は火、水、金、土の四時から八時。店も同じ曜日に開けてる。店に人は滅多にこないから、ほとんどがネット販売になりつつあるな。店番と、その間に在庫確認と受注、発送メールなんかもやってもらいたい」
家事をしながら店番。私にできるだろうか。
「寝泊まりする部屋は屋根裏な」
廊下にある階段の前に連れて行かれた。屋根裏……蜘蛛の巣が張ってて鼠だらけだったらどうしよう……。いやいやいや、実家の狭くて暑い納戸に比べれば天国、天国。
ぎしぎしと軋む急な階段を花岡さんについて上って行く。上がりきった先で、急に視界が広がった。
「え……!」
驚きのあまりその場で硬直し、次の瞬間大声を上げていた。
「ひ、広~~い!!」
そこは、屋根裏部屋なんて呼んだら申し訳ないくらいに立派な空間だった。立ち上がっても十分高さがある。床は半分が畳、半分が板張りだ。天井は黒い梁が剥き出しで雰囲気がいい。
網戸のついた窓に、押入れ、備えつけの本棚と、その上部にエアコンまでついている。反対側は吹き抜けで、腰の高さくらいの壁があった。オシャレなロフトのようで何の問題もない。そこから見下ろすと、さっき見た奥の和室があった。
「冬場の昼寝に使ってただけで、汚れてはいないと思うけど」
押入れの中を確認する彼に、後ろから訊ねる。
「あの、すごく素敵で贅沢すぎるくらいなんですが、私が使ってもいいんですか?」
「ここしか貸せる部屋ないから、どうぞ」
さっきまでの不安が全部吹き飛んでしまった。これは、これはよすぎる……!
その後、昭和なレトロ感漂う台所を案内され、トイレ、洗面所、お風呂を見せてもらった。お風呂はなんと檜風呂……! 木の色具合が真新しい。
「いい香りですね」
「風呂場とトイレと洗面所はリフォームしたばかりだ」
「私が入ってもいいんでしょうか……?」
「いいから見せてるんだっての」
そりゃそうなんだろうけど、今日知り合ったばかりの赤の他人に、水場やお部屋を使われるのって嫌じゃないの? まぁ、そんなんだったら最初から住み込み家政婦なんて頼まないよね。私にはお金どころか住む場所すらなくなる予定なんだから、ここは流れに身を任せよう。
お庭に面した端の部屋の前にくると、彼が言った。
「そこは俺の仕事部屋だから、絶対に入らないように」
「わかりました」
仕事部屋、ということは、そこで字を書いているのか。どんなふうになっているのか見てみたいけど、我慢だ。
屋根裏部屋の下の和室に戻り、大きな座卓の前に向かい合わせで座った。
「私の履歴書です」
差し出した封筒を受け取った花岡さんは、中から取り出した履歴書にざっと目を通した。
「働いて欲しいのは、書道教室を開ける、火、水、金、土。その日は朝七時には朝飯だから、その準備を。あと掃除とかの家事全般な。夜は書道教室が終わる八時までに夕飯の準備だけしておいてくれればいい。三時から六時は店番をして欲しい。午前十一時から二時までは昼休みだ。あとは、ご自由に」
ということは週四日の勤務で、日、月、木はお休みね。昼休みが意外と長くて驚きだ。
「で、やるの、やらないの」
花岡さんに問われた。
「三食ついてるんですよね?」
「自分で作ればね」
「お部屋は、あの屋根裏部屋を? お休みの日に、そこにいてもいいんですか?」
「別に構わない」
「本当に、あの檜風呂へ入っていいんですか?」
「どうぞ」
「光熱費は……」
「こっちで出す」
魅力的!
「で、悪いんだけど給料は十五万までしか払えないから、不満があるなら今断ってくれ」
「ありません。やります!」
「即答だな」
私の返事に目を丸くした花岡さんは、確認するように言った。
「本来なら住み込みで、この給料じゃ全然少ないんだが、いいのか?」
「構いません。おじいちゃんから聞いていると思いますが、私……プロどころか家政婦の仕事は初めてなんです。だから逆に、そんな人間が入ってもいいんでしょうか? もちろん一生懸命やるつもりではいますが」
「それ以上金は出せないから、かえって都合がいい。やることは俺がきっちり教え込む。このあと募集するのも面倒だから、このままきてくれると助かる」
きっちり教え込む、の言葉が少し引っかかったけれど、これだけの好条件はそうそうないはず。
あの広くて素敵な屋根裏部屋に、檜のお風呂。三食の食費が浮く上に、光熱費もタダ。昼間の休憩時間だって、かなり長い。年金とか保険とかスマホの通信費を引いても、十分貯金ができるだろう。当初の目的通り、半年で新居に移るくらいのお金が貯められるかもしれない。
口はちょっと悪くても、花岡さんはいい人そうだ。イケメンだし、何たっておじいちゃんが尊敬する人だもんね。この若さで給料を十五万も払えるということは、その道ではかなり有名な人なのだろう。
ほとんど気持ちは固まりつつも、最後に一点、確認しておきたいことがあった。
「今さらですが、ここには何人で住んでいらっしゃるんでしょう」
「俺一人だ」
「あ、そうですよね」
改めて目の前にいる彼を見つめて考える。細身に見えて腕に筋肉ついてるし、男なんだから当然力では絶対敵わない。いくら広い家だからって、同じ屋根の下に暮らすのは……
「何だよ」
「えっと……」
「俺と二人きりだからって怖気づいたか?」
「ええ、まぁ」
「その点は心配しなくていいよ。俺は字の汚い女に興味ないから」
「!」
そこね、そこに拘るのね。
って、ショックを受けてる場合じゃない。逆にこれで吹っ切れたんだから、ありがたいと思わなくては……
「間に杉田のおじいちゃんが入ってるから、お互い悪いことはできないだろ。問題は発生しにくいと思うけど」
「それは、そうですね」
「あとで契約書作って渡す」
「ありがとうございます。……あの、花岡さん」
「柚仁でいい。花岡さんとか、気持ち悪い」
彼がぼそっと呟いた。
「じゃあ柚仁さん」
「呼び捨てにしてくれ、頼むから」
俺様なのに自分の名前は呼び捨ててくれなんて、やっぱり少し変わってる。
「でしたら私も日鞠でお願いします。雇われてるほうだけが呼び捨てにするなんて、おかしいですよね」
「……わかった」
彼は履歴書に視線を置いてため息を吐いた。
「ひま」
「え」
三文字くらい、ちゃんと言おうよ。いくら何でも、ひまって。
「ひ・ま・り、です」
言い直した私の顔を、彼は睨んだ。それから咳払いをひとつして、私の名前を呼ぶ。
「日鞠」
「はい。ええと……柚、仁」
じっと見るから余計言いにくいんですけど。
「で、いいんですか? ほんとに」
「ああ、そうしてくれ」
「歳はおいくつなんでしょうか」
「お前の二個上。二十七歳」
お前って……。いやいやいや、家政婦初心者の私を住まわせてくれた上、お給料もいただくんだから、ここはぐっと抑えよう。
最後に柚仁から、できるだけ早くきて欲しい、とありがたいことを言われ、私はよろしくお願いしますと挨拶をした。帰り際にもらった名刺には「花岡柚仁」という名前の上に師範、と印刷されていた。なんだかすごい。
ま、何とかなるでしょ、なーんて、琴美姉に聞かれたら叱られそうな言葉を小さく呟き、私は花岡家をあとにした。
+ + +
「もっと腰入れて進め!」
「う、はいっ」
腕に力を入れて、言われた通りに姿勢を直し、どたどたと廊下を進んで行く。Tシャツにショートパンツという恰好で、四つん這いになって雑巾がけなんて、小学校の掃除の時間以来なんですが。
「雑巾はもっと固く絞るんだよ、なってねぇな~」
「すみません……!」
「もう一度行ってこい!」
絞りなおした雑巾を床に置き、上から両手をついて四つん這いになる。こうなったらもう自棄だ……!
「日鞠行きます!! うぉー!」
勢いをつけて一気に進んだ。明日、筋肉痛確定だわ。
「やればできるじゃんか。その調子でいけー」
遠くから師匠の声が聞こえた。
「返事!」
「あ、あざっす!」
ここは一体何なの? お寺なの? 私、修行の身なの?
面接から半月後の、昨日の午後。私は住み込み家政婦として、ここ花岡家へ入った。
お一人様用月曜午後便パックというので、引っ越し代金は安く済んだ。その日の夕飯はコンビニで買ったものを一人で食べ、素敵な檜のお風呂を初体験。そしてこの家の主の柚仁とはたいして話もせずに、屋根裏部屋に布団を敷いて、私は夢の世界へ。疲れもあってか、緊張の欠片もなく、ぐっすりと眠ってしまった。
目が覚めた今日は火曜日。早速朝から仕事が始まる。
七時に朝ごはんと言われていたので準備のために六時に起床すると、とっくに起きていたらしい彼は台所で腕組みをして私を待っていた。一通り台所の使い方を教わり、普段どんな朝ごはんを食べているのか聞かせてもらう。メニューは土鍋で炊いたごはんにお味噌汁、納豆か焼き魚、そして漬物、という、完全和食だった。私はお鍋でよくごはんを炊いていたので、そこは大丈夫だけど、お味噌汁は自信がない。それでも、柚仁から指導を受けて何とか初日の朝食は完成した。
朝食後の掃除から、私は彼の言っていた「教え込む」の真の意味を知ることになる。
まずは玄関回り。三和土は水を撒いてブラシで擦る。外も水を撒く。次に部屋中のはたきがけをし、三種類の箒を使い分けて掃き掃除だ。掃除機は週に一回。畳は固く絞った雑巾でさっと表面を拭く作業で、これは毎回しなくてもいい。
そしてようやく廊下と広縁の雑巾がけまで辿り着いた。それが今。
これは冗談抜きで、痩せるかもしれない。掃除は書道教室がひらかれる週に四回、私が仕事の日だけとはいうものの相当きつい。柚仁は今までこれを全部一人でこなしていたというから、本気で驚きだ。
「よーし、もういいぞ」
「は、はひ……」
息切れしまくり、汗掻きまくり。あとでシャワーを浴びさせてもらおう。
「体力ねぇなあ。これからまだ風呂掃除とトイレ掃除があるんだぞ」
「……頑張ります」
「あ、洗濯忘れてたな。風呂掃除の前にやろう。お前のもあるなら一緒に洗うか?」
「いいんですか?」
「俺は大丈夫だけど、気になるなら別々でも」
「私もずっとコインランドリーだったので全然大丈夫です」
「あ、そ。そういうところは逞しいね。とりあえずこれから、お前が掃除をやってくれるなら、その分俺は畑仕事に集中できるな」
顎に手を置いた柚仁は、口の端を上げてにやりと笑った。
水回りを綺麗に仕上げたところで十一時になった。何とかギリギリ洗濯も掃除も終わらせることができたので、心おきなく休憩に入れる。
シャワーを借りて汗を流してから台所へ行くと、お昼の用意をしている彼がいた。
「失礼しまーす。シャワーありがとうございましたー」
「んー」
アパートで使っていた小さめの冷蔵庫は台所に置かせてもらった。けれど電気代がもったいないと、柚仁が冷蔵庫を一緒に使わせてくれることになり、私のほうには電源を入れていない。電子レンジも同様だ。ここを出て行くときに必要だと思って捨てはしなかったけど、冷蔵庫って長い期間使わなくても平気なんだろうか。あとで調べてみよう。
ガス台の前に立つ彼は、鼻歌を歌いながら手際よく野菜を炒めていた。
今朝、台所の説明のときに、彼のおばあちゃんの形見の糠床を見せてもらった。他にも、お味噌は甕に入っていたし、お米は産地から直接取り寄せているんだとか。彼は……食べ物にも相当拘りが強いらしい。
何を作っているのか気にはなったけど、お互い自由時間なんだから詮索はしない。私はさっさと屋根裏部屋へ戻ろうと思った。
冷蔵庫で冷やしておいた大きいペットボトルの緑茶を、持ってきたグラスに注ぐ。
「お前、荷物少ないと思ってたけど、食器も少ないのな」
フライパンを揺らしながら柚仁が私に話しかける。
「はい。必要最低限のものだけにしてました」
「マグカップは手作りか?」
「陶芸を勉強中の友人にもらいました。お皿もお揃いなんです」
「へえ」
学生時代の友人には絵以外の創作をする子がたくさんいて、卒業後も交流を続けていた。といっても、今回私はお金がないことを理由にして、逃げるように東京からこっちへ引き揚げてきた。彼らのことを思い出すと、ちくりと胸が痛む。
きっと負け犬みたいに思われているんだろうな――
あれこれ気を遣われるのも疲れるし、これでよかったんだと思うことにする。
屋根裏部屋へ戻り、折り畳み式のテーブルにグラスを置いた。コンビニの袋からロールパンを取り出して口にする。昨日ここへくる前に買っておいてよかったとしみじみ思う。疲れちゃって、お昼を外に買いに行く気力もない。
それにしても……琴美姉にこんなところを見られたら笑われそうだ。甘い考えでやろうとするからダメなんだ、とかなんとか言われて。家事が意外と大仕事だということが、よくわかった。子どもがいたら、もっともっと大変なんだろう。今さらながら、琴美姉も幸香姉も偉いと思う。そりゃ、私のこと見てたら叱りたくもなるよね。
開けた窓から外を眺める。雲が出て、日が陰った。ここからだと海が少しだけ見える。
冷たい緑茶を飲み干して、ごろりと仰向けになり、天井を走るごつごつとした黒い梁を見つめた。
「ここ、あつー……」
これだけ忙しければ、余計なことを考える暇がなくていいのかもしれない。でも休みの日はどうしよう。ずっと前の私だったら迷わず絵を描く時間にあてていた。でも今は……
「勉強だよ、勉強!」
まずはどんな資格を取ろうか。先立つものがなくても、目標だけは決めておこう。スマホを取り出して検索を始めた。
窓から、さぁっと涼しい風が入った。濃い緑と土の匂いも一緒に運ばれてくる。スマホを手に寝転がっていた私は、いつの間にかうとうとしていたらしい。
「あ、雨!?」
飛び起きて一階へ降り、広縁からサンダルを履いて庭へ出た。降り始めたばかりで洗濯物に支障はないようだ。
「はぁ……間に合った」
昼休みの時間も、こうして気をつけていなくちゃダメだとは。
雲が厚くなったせいか部屋が薄暗くなり、やがて弱い雨は本降りへと変わった。洗濯物を畳みながら庭を眺める。
「野菜が嬉しそう」
青々とした葉の陰に揺れる野菜たちは、雨に濡れて皆心地よさそうだった。ぽたぽたと落ちる雫を、乾いた土が美味しそうに飲みこんでいる。古い家だからなのか、屋根を叩く雨の音がとても近くに感じた。蝉の声が止んでいる。
壁にかかる時計は二時を回っていた。
「もう昼休み終わりだったのね。目が覚めてよかった」
畳んだ洗濯物の自分の分を屋根裏部屋へ片づけに行くと、蒸し暑かったそこは雨のお陰ですっかり涼しくなっていた。
戻って柚仁の洗濯物をどうしようかと迷っていた私の耳に、廊下を踏む足音が聞こえる。正座をして顔を上げたタイミングで、彼が部屋に入ってきた。
「日鞠」
「あ……」
柚仁の姿を目にした途端、心臓がどきんと大きな音を立てた。
白いTシャツの上に藍色の作務衣を着込んでいる。仕事部屋で何か書いていたんだろうか。
「俺はこのあと、書道教室の準備がある。今日は初日だし、まだ店番はしなくていい。その代わり、夕飯作りに勤しめ。朝教えたように、メシは土鍋炊きな」
「あ、はい」
「買い物は、この辺でしてきてくれ。これは食費の入った財布だ。お前に預けておく」
プリントアウトされた簡単な地図に、商店街のお店の名前が書き込まれていた。……綺麗な字。
「ありがとう、ございます」
それらを受け取ったあとも、彼にばかり目がいってしまって困った。だって、初めて見る作務衣姿がすごく似合っていたから。見とれていた私に気づいたらしく、柚仁が顔をしかめた。
「何だよ」
「いえ、別に……。書道家っぽいな~、って」
目を泳がせる私の顔を彼が覗き込んだ。すぐそばで目が合って頬が熱くなる。ちょ、ちょっと、近いって……!
「惚れんなよ~?」
「ち、違います! 買い物行ってきます!」
「ああ。迷子になるなよ。玄関の傘持ってけ」
「はい」
預かったお財布と地図を手に、玄関へ走った。
下駄箱から靴を取り出し、三和土に投げるように置く。少し汚れた白いスニーカーへ足を突っ込んだ。
「何なの、あれくらいのことで」
ときめくな、私……!
「ここ、風が通り抜けて涼しい……」
振り返って広い畳の部屋を見る。田舎の古民家、って感じだ。縁側の板は古いけれどよく磨かれて黒く光り、美しかった。私はそれを手のひらでさすりながら、思わず横になる。見上げた空が、東京にいるときよりも、ずっと高く見えた。
「とんびだ……」
ぐるぐると飛び回るとんびの、ぴーひょろ、ぴーひょろという鳴き声が降ってくる。湘南のとんびって、人が食べてるものを攫っていくのが上手なんだよね。高校生の頃、稲村ヶ崎でハンバーガー獲られたことあったっけ。
垣根の向こう側を、子どもたちが騒ぎながら歩いている。ああ、小学生は夏休みに入ったのね。
瞼を閉じて夏の強い日差しを全身に感じる。蝉が近くで鳴き始めていた。ここでも微かな潮の香りがする。風が、頬を撫でていく。この感じが何となく、懐かしい。本当、気持ち、いい、な……
「……おい」
ぼんやりした視界の中で、誰かが私を見下ろしている。せっかく気持ちよく眠ってたのに……誰?
「おいそこの、金太郎!」
「え……あ、はいっ! き、金……?」
しまった、自分の家じゃなかったんだ! 慌てて飛び起き、縁側に立つ声の主を見上げる。
「不法侵入かよ。人んち勝手に上がって、ガーガー寝やがって」
「すみません! あ……あなた、さっきの!」
下駄男!!
「ああ。字の汚い女か」
「どっ、どうしてここに」
「自分の家にいて何が悪いんだよ」
花岡って、本当にこの人だったの!?
「じゃあ、あなたやっぱり、書道の先生やってる人のお孫さん?」
「は? 俺がここで書道教えてるんだけど」
「え」
「杉田さんが紹介してくれる人って、もしかしてあんたのこと?」
花岡さんは私を胡散臭そうに見下ろしていた。多分私も、彼と同じ顔をしていると思う。
だって、嘘でしょ? おじいちゃんが尊敬してるって言うから年配の人だと思ってたのに。この人が書道家? 店番だけじゃなくて、家政婦も頼みたいっていう……?
ようやくしっかりと目が覚めて、気づいた。
私が住み込みで働くことになったら、この人とここで一緒に暮らすってことになるの?
腕組みをして私を見ている花岡さんに恐る恐る声をかけた。
「あの」
「何」
「金太郎って何で、ですか?」
もっと他に聞くことあるでしょ、っていうのはわかってるんだけど、混乱しているらしい私の頭の中には、こんな言葉しか浮かばなかった。
「その頭」
彼が私の頭を指さした。ああ、髪形のことね。顔が引きつる。
「ショートボブって言ってください。大体あんなに前髪短くないですし、髪の色真っ黒じゃないですし」
「どうでもいいわ。名前は?」
ものすごい流し方に、かちんとしつつも答える。
「杉田……日鞠です」
「杉田さんの孫、ってことで間違いないんだな」
「はい」
縁側に座っていた私は、地面に足を下ろして立ち上がり、滅多に穿かないスカートの裾をさっと直した。一応面接的なものをすると思って穿いてきたんだよね。……寝ちゃったけど。
「で、うちで働きたいって?」
「はい、そうです。家政婦って、本当に住み込みなんでしょうか?」
おじいちゃんはどういうつもりで、ここに行けって言ったんだろう。この人、私と同年代な感じだよ? せいぜい二、三歳上くらい。
「杉田さんがそう言ったんだ? 俺が住み込みの家政婦募集してるって」
「え? はい、そうですけど、違うんですか?」
「……違わない」
そこでなぜか、彼は視線を外した。
「杉田さん、俺のことは何か言ってた?」
「おじいちゃんが尊敬する書道の先生だと言ってました。だからてっきり、おじいちゃんと同じくらいか、もっと年上の方かと……」
花岡さんは、うんうんと何度も頷き、満足げな声を出した。
「そうかそうか、尊敬か。まぁ、尊敬してるのは俺のほうなんだけどな。とにかく杉田さんの顔を潰すのは俺もごめんだ。靴脱いで上がれ。家の中、案内する」
「あ、はい」
すごい命令口調。こういうのを俺様っていうんだろうか。三次元で初めて出会ったよ。おじいちゃん曰く変わってる人らしいし、書道家ってこういう人が多いのかな。
靴を脱いで縁側から上がる。今は全開にしているここは、よく見ると大きなサッシ窓がついていて開け閉めできるようになっていた。これが多分、広縁と呼ばれるものだ。
襖の開いた二間続きの和室と、廊下の向こうにも同じような和室が二間。奥に行くほどひんやりとした空気になり、薄暗くなっていくのが日本家屋らしいと思った。どこからか漂ってきた蚊取り線香の匂いが、ふと鼻先を掠めた。
玄関に一番近い和室が書道教室で、隣には生徒さん用のトイレがある。玄関横の書道専門店は、想像していたよりも狭かった。
「書道教室は火、水、金、土の四時から八時。店も同じ曜日に開けてる。店に人は滅多にこないから、ほとんどがネット販売になりつつあるな。店番と、その間に在庫確認と受注、発送メールなんかもやってもらいたい」
家事をしながら店番。私にできるだろうか。
「寝泊まりする部屋は屋根裏な」
廊下にある階段の前に連れて行かれた。屋根裏……蜘蛛の巣が張ってて鼠だらけだったらどうしよう……。いやいやいや、実家の狭くて暑い納戸に比べれば天国、天国。
ぎしぎしと軋む急な階段を花岡さんについて上って行く。上がりきった先で、急に視界が広がった。
「え……!」
驚きのあまりその場で硬直し、次の瞬間大声を上げていた。
「ひ、広~~い!!」
そこは、屋根裏部屋なんて呼んだら申し訳ないくらいに立派な空間だった。立ち上がっても十分高さがある。床は半分が畳、半分が板張りだ。天井は黒い梁が剥き出しで雰囲気がいい。
網戸のついた窓に、押入れ、備えつけの本棚と、その上部にエアコンまでついている。反対側は吹き抜けで、腰の高さくらいの壁があった。オシャレなロフトのようで何の問題もない。そこから見下ろすと、さっき見た奥の和室があった。
「冬場の昼寝に使ってただけで、汚れてはいないと思うけど」
押入れの中を確認する彼に、後ろから訊ねる。
「あの、すごく素敵で贅沢すぎるくらいなんですが、私が使ってもいいんですか?」
「ここしか貸せる部屋ないから、どうぞ」
さっきまでの不安が全部吹き飛んでしまった。これは、これはよすぎる……!
その後、昭和なレトロ感漂う台所を案内され、トイレ、洗面所、お風呂を見せてもらった。お風呂はなんと檜風呂……! 木の色具合が真新しい。
「いい香りですね」
「風呂場とトイレと洗面所はリフォームしたばかりだ」
「私が入ってもいいんでしょうか……?」
「いいから見せてるんだっての」
そりゃそうなんだろうけど、今日知り合ったばかりの赤の他人に、水場やお部屋を使われるのって嫌じゃないの? まぁ、そんなんだったら最初から住み込み家政婦なんて頼まないよね。私にはお金どころか住む場所すらなくなる予定なんだから、ここは流れに身を任せよう。
お庭に面した端の部屋の前にくると、彼が言った。
「そこは俺の仕事部屋だから、絶対に入らないように」
「わかりました」
仕事部屋、ということは、そこで字を書いているのか。どんなふうになっているのか見てみたいけど、我慢だ。
屋根裏部屋の下の和室に戻り、大きな座卓の前に向かい合わせで座った。
「私の履歴書です」
差し出した封筒を受け取った花岡さんは、中から取り出した履歴書にざっと目を通した。
「働いて欲しいのは、書道教室を開ける、火、水、金、土。その日は朝七時には朝飯だから、その準備を。あと掃除とかの家事全般な。夜は書道教室が終わる八時までに夕飯の準備だけしておいてくれればいい。三時から六時は店番をして欲しい。午前十一時から二時までは昼休みだ。あとは、ご自由に」
ということは週四日の勤務で、日、月、木はお休みね。昼休みが意外と長くて驚きだ。
「で、やるの、やらないの」
花岡さんに問われた。
「三食ついてるんですよね?」
「自分で作ればね」
「お部屋は、あの屋根裏部屋を? お休みの日に、そこにいてもいいんですか?」
「別に構わない」
「本当に、あの檜風呂へ入っていいんですか?」
「どうぞ」
「光熱費は……」
「こっちで出す」
魅力的!
「で、悪いんだけど給料は十五万までしか払えないから、不満があるなら今断ってくれ」
「ありません。やります!」
「即答だな」
私の返事に目を丸くした花岡さんは、確認するように言った。
「本来なら住み込みで、この給料じゃ全然少ないんだが、いいのか?」
「構いません。おじいちゃんから聞いていると思いますが、私……プロどころか家政婦の仕事は初めてなんです。だから逆に、そんな人間が入ってもいいんでしょうか? もちろん一生懸命やるつもりではいますが」
「それ以上金は出せないから、かえって都合がいい。やることは俺がきっちり教え込む。このあと募集するのも面倒だから、このままきてくれると助かる」
きっちり教え込む、の言葉が少し引っかかったけれど、これだけの好条件はそうそうないはず。
あの広くて素敵な屋根裏部屋に、檜のお風呂。三食の食費が浮く上に、光熱費もタダ。昼間の休憩時間だって、かなり長い。年金とか保険とかスマホの通信費を引いても、十分貯金ができるだろう。当初の目的通り、半年で新居に移るくらいのお金が貯められるかもしれない。
口はちょっと悪くても、花岡さんはいい人そうだ。イケメンだし、何たっておじいちゃんが尊敬する人だもんね。この若さで給料を十五万も払えるということは、その道ではかなり有名な人なのだろう。
ほとんど気持ちは固まりつつも、最後に一点、確認しておきたいことがあった。
「今さらですが、ここには何人で住んでいらっしゃるんでしょう」
「俺一人だ」
「あ、そうですよね」
改めて目の前にいる彼を見つめて考える。細身に見えて腕に筋肉ついてるし、男なんだから当然力では絶対敵わない。いくら広い家だからって、同じ屋根の下に暮らすのは……
「何だよ」
「えっと……」
「俺と二人きりだからって怖気づいたか?」
「ええ、まぁ」
「その点は心配しなくていいよ。俺は字の汚い女に興味ないから」
「!」
そこね、そこに拘るのね。
って、ショックを受けてる場合じゃない。逆にこれで吹っ切れたんだから、ありがたいと思わなくては……
「間に杉田のおじいちゃんが入ってるから、お互い悪いことはできないだろ。問題は発生しにくいと思うけど」
「それは、そうですね」
「あとで契約書作って渡す」
「ありがとうございます。……あの、花岡さん」
「柚仁でいい。花岡さんとか、気持ち悪い」
彼がぼそっと呟いた。
「じゃあ柚仁さん」
「呼び捨てにしてくれ、頼むから」
俺様なのに自分の名前は呼び捨ててくれなんて、やっぱり少し変わってる。
「でしたら私も日鞠でお願いします。雇われてるほうだけが呼び捨てにするなんて、おかしいですよね」
「……わかった」
彼は履歴書に視線を置いてため息を吐いた。
「ひま」
「え」
三文字くらい、ちゃんと言おうよ。いくら何でも、ひまって。
「ひ・ま・り、です」
言い直した私の顔を、彼は睨んだ。それから咳払いをひとつして、私の名前を呼ぶ。
「日鞠」
「はい。ええと……柚、仁」
じっと見るから余計言いにくいんですけど。
「で、いいんですか? ほんとに」
「ああ、そうしてくれ」
「歳はおいくつなんでしょうか」
「お前の二個上。二十七歳」
お前って……。いやいやいや、家政婦初心者の私を住まわせてくれた上、お給料もいただくんだから、ここはぐっと抑えよう。
最後に柚仁から、できるだけ早くきて欲しい、とありがたいことを言われ、私はよろしくお願いしますと挨拶をした。帰り際にもらった名刺には「花岡柚仁」という名前の上に師範、と印刷されていた。なんだかすごい。
ま、何とかなるでしょ、なーんて、琴美姉に聞かれたら叱られそうな言葉を小さく呟き、私は花岡家をあとにした。
+ + +
「もっと腰入れて進め!」
「う、はいっ」
腕に力を入れて、言われた通りに姿勢を直し、どたどたと廊下を進んで行く。Tシャツにショートパンツという恰好で、四つん這いになって雑巾がけなんて、小学校の掃除の時間以来なんですが。
「雑巾はもっと固く絞るんだよ、なってねぇな~」
「すみません……!」
「もう一度行ってこい!」
絞りなおした雑巾を床に置き、上から両手をついて四つん這いになる。こうなったらもう自棄だ……!
「日鞠行きます!! うぉー!」
勢いをつけて一気に進んだ。明日、筋肉痛確定だわ。
「やればできるじゃんか。その調子でいけー」
遠くから師匠の声が聞こえた。
「返事!」
「あ、あざっす!」
ここは一体何なの? お寺なの? 私、修行の身なの?
面接から半月後の、昨日の午後。私は住み込み家政婦として、ここ花岡家へ入った。
お一人様用月曜午後便パックというので、引っ越し代金は安く済んだ。その日の夕飯はコンビニで買ったものを一人で食べ、素敵な檜のお風呂を初体験。そしてこの家の主の柚仁とはたいして話もせずに、屋根裏部屋に布団を敷いて、私は夢の世界へ。疲れもあってか、緊張の欠片もなく、ぐっすりと眠ってしまった。
目が覚めた今日は火曜日。早速朝から仕事が始まる。
七時に朝ごはんと言われていたので準備のために六時に起床すると、とっくに起きていたらしい彼は台所で腕組みをして私を待っていた。一通り台所の使い方を教わり、普段どんな朝ごはんを食べているのか聞かせてもらう。メニューは土鍋で炊いたごはんにお味噌汁、納豆か焼き魚、そして漬物、という、完全和食だった。私はお鍋でよくごはんを炊いていたので、そこは大丈夫だけど、お味噌汁は自信がない。それでも、柚仁から指導を受けて何とか初日の朝食は完成した。
朝食後の掃除から、私は彼の言っていた「教え込む」の真の意味を知ることになる。
まずは玄関回り。三和土は水を撒いてブラシで擦る。外も水を撒く。次に部屋中のはたきがけをし、三種類の箒を使い分けて掃き掃除だ。掃除機は週に一回。畳は固く絞った雑巾でさっと表面を拭く作業で、これは毎回しなくてもいい。
そしてようやく廊下と広縁の雑巾がけまで辿り着いた。それが今。
これは冗談抜きで、痩せるかもしれない。掃除は書道教室がひらかれる週に四回、私が仕事の日だけとはいうものの相当きつい。柚仁は今までこれを全部一人でこなしていたというから、本気で驚きだ。
「よーし、もういいぞ」
「は、はひ……」
息切れしまくり、汗掻きまくり。あとでシャワーを浴びさせてもらおう。
「体力ねぇなあ。これからまだ風呂掃除とトイレ掃除があるんだぞ」
「……頑張ります」
「あ、洗濯忘れてたな。風呂掃除の前にやろう。お前のもあるなら一緒に洗うか?」
「いいんですか?」
「俺は大丈夫だけど、気になるなら別々でも」
「私もずっとコインランドリーだったので全然大丈夫です」
「あ、そ。そういうところは逞しいね。とりあえずこれから、お前が掃除をやってくれるなら、その分俺は畑仕事に集中できるな」
顎に手を置いた柚仁は、口の端を上げてにやりと笑った。
水回りを綺麗に仕上げたところで十一時になった。何とかギリギリ洗濯も掃除も終わらせることができたので、心おきなく休憩に入れる。
シャワーを借りて汗を流してから台所へ行くと、お昼の用意をしている彼がいた。
「失礼しまーす。シャワーありがとうございましたー」
「んー」
アパートで使っていた小さめの冷蔵庫は台所に置かせてもらった。けれど電気代がもったいないと、柚仁が冷蔵庫を一緒に使わせてくれることになり、私のほうには電源を入れていない。電子レンジも同様だ。ここを出て行くときに必要だと思って捨てはしなかったけど、冷蔵庫って長い期間使わなくても平気なんだろうか。あとで調べてみよう。
ガス台の前に立つ彼は、鼻歌を歌いながら手際よく野菜を炒めていた。
今朝、台所の説明のときに、彼のおばあちゃんの形見の糠床を見せてもらった。他にも、お味噌は甕に入っていたし、お米は産地から直接取り寄せているんだとか。彼は……食べ物にも相当拘りが強いらしい。
何を作っているのか気にはなったけど、お互い自由時間なんだから詮索はしない。私はさっさと屋根裏部屋へ戻ろうと思った。
冷蔵庫で冷やしておいた大きいペットボトルの緑茶を、持ってきたグラスに注ぐ。
「お前、荷物少ないと思ってたけど、食器も少ないのな」
フライパンを揺らしながら柚仁が私に話しかける。
「はい。必要最低限のものだけにしてました」
「マグカップは手作りか?」
「陶芸を勉強中の友人にもらいました。お皿もお揃いなんです」
「へえ」
学生時代の友人には絵以外の創作をする子がたくさんいて、卒業後も交流を続けていた。といっても、今回私はお金がないことを理由にして、逃げるように東京からこっちへ引き揚げてきた。彼らのことを思い出すと、ちくりと胸が痛む。
きっと負け犬みたいに思われているんだろうな――
あれこれ気を遣われるのも疲れるし、これでよかったんだと思うことにする。
屋根裏部屋へ戻り、折り畳み式のテーブルにグラスを置いた。コンビニの袋からロールパンを取り出して口にする。昨日ここへくる前に買っておいてよかったとしみじみ思う。疲れちゃって、お昼を外に買いに行く気力もない。
それにしても……琴美姉にこんなところを見られたら笑われそうだ。甘い考えでやろうとするからダメなんだ、とかなんとか言われて。家事が意外と大仕事だということが、よくわかった。子どもがいたら、もっともっと大変なんだろう。今さらながら、琴美姉も幸香姉も偉いと思う。そりゃ、私のこと見てたら叱りたくもなるよね。
開けた窓から外を眺める。雲が出て、日が陰った。ここからだと海が少しだけ見える。
冷たい緑茶を飲み干して、ごろりと仰向けになり、天井を走るごつごつとした黒い梁を見つめた。
「ここ、あつー……」
これだけ忙しければ、余計なことを考える暇がなくていいのかもしれない。でも休みの日はどうしよう。ずっと前の私だったら迷わず絵を描く時間にあてていた。でも今は……
「勉強だよ、勉強!」
まずはどんな資格を取ろうか。先立つものがなくても、目標だけは決めておこう。スマホを取り出して検索を始めた。
窓から、さぁっと涼しい風が入った。濃い緑と土の匂いも一緒に運ばれてくる。スマホを手に寝転がっていた私は、いつの間にかうとうとしていたらしい。
「あ、雨!?」
飛び起きて一階へ降り、広縁からサンダルを履いて庭へ出た。降り始めたばかりで洗濯物に支障はないようだ。
「はぁ……間に合った」
昼休みの時間も、こうして気をつけていなくちゃダメだとは。
雲が厚くなったせいか部屋が薄暗くなり、やがて弱い雨は本降りへと変わった。洗濯物を畳みながら庭を眺める。
「野菜が嬉しそう」
青々とした葉の陰に揺れる野菜たちは、雨に濡れて皆心地よさそうだった。ぽたぽたと落ちる雫を、乾いた土が美味しそうに飲みこんでいる。古い家だからなのか、屋根を叩く雨の音がとても近くに感じた。蝉の声が止んでいる。
壁にかかる時計は二時を回っていた。
「もう昼休み終わりだったのね。目が覚めてよかった」
畳んだ洗濯物の自分の分を屋根裏部屋へ片づけに行くと、蒸し暑かったそこは雨のお陰ですっかり涼しくなっていた。
戻って柚仁の洗濯物をどうしようかと迷っていた私の耳に、廊下を踏む足音が聞こえる。正座をして顔を上げたタイミングで、彼が部屋に入ってきた。
「日鞠」
「あ……」
柚仁の姿を目にした途端、心臓がどきんと大きな音を立てた。
白いTシャツの上に藍色の作務衣を着込んでいる。仕事部屋で何か書いていたんだろうか。
「俺はこのあと、書道教室の準備がある。今日は初日だし、まだ店番はしなくていい。その代わり、夕飯作りに勤しめ。朝教えたように、メシは土鍋炊きな」
「あ、はい」
「買い物は、この辺でしてきてくれ。これは食費の入った財布だ。お前に預けておく」
プリントアウトされた簡単な地図に、商店街のお店の名前が書き込まれていた。……綺麗な字。
「ありがとう、ございます」
それらを受け取ったあとも、彼にばかり目がいってしまって困った。だって、初めて見る作務衣姿がすごく似合っていたから。見とれていた私に気づいたらしく、柚仁が顔をしかめた。
「何だよ」
「いえ、別に……。書道家っぽいな~、って」
目を泳がせる私の顔を彼が覗き込んだ。すぐそばで目が合って頬が熱くなる。ちょ、ちょっと、近いって……!
「惚れんなよ~?」
「ち、違います! 買い物行ってきます!」
「ああ。迷子になるなよ。玄関の傘持ってけ」
「はい」
預かったお財布と地図を手に、玄関へ走った。
下駄箱から靴を取り出し、三和土に投げるように置く。少し汚れた白いスニーカーへ足を突っ込んだ。
「何なの、あれくらいのことで」
ときめくな、私……!
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