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1巻
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私の実家であるローゼル家の次期当主オルファは、今年十歳を迎えた。
昔は貧弱だった身体も、成長と共にしっかりし、最近は特に剣の稽古に精を出しているらしい。そのためか以前は文芸小説を読み耽っていたのに、今は冒険小説に熱を上げているのだとか。それで今回は手紙に添えるプレゼントとしてアルフォンスの白薔薇と共に、発売されたばかりの海賊物語を購入していた。
この海賊物語はシリーズもので、オルファが現在嵌っている作品でもある。
オルファへそのことを書きながら、ついでに今作業をしてくれている新人メイド、セリアの話も書きとめることにした。この海賊物語に出てくる主人公手編みのロープが、手先の器用なセリアなら編めるかもしれないと思ったからだ。
なにしろ以前彼女に髪結いをしてもらったところ、一体どこでどうなってるんだ? と驚くくらい複雑な編み込みをやってみせてくれた。しかも髪結いってほとんどが痛みを伴うものなのに、彼女のは全然痛くなかったからさらに驚いた。
セリアにロープを編めとは言えないけど、一応話題として楽しいので書いておく。
ちなみに、弟のオルファは若干、いやかなりシスコン気味で、私の縁談が決まった時は、お父様を刺し殺さんばかりの勢いだった。
それというのも私は彼にとって、姉であり、母でもあったからだ。
私とオルファも、ヴォルク様と同じく母親がいない。
お母様が亡くなったのは、オルファが六歳の頃だった。闊達な性格に似合わず身体が弱かったお母様は、その年にイゼルマールを襲った流行り病で、呆気なくも天に召された。未だ『暁の炎』という名称で恐れられているその病は、多くの命を奪い去り、一か月を過ぎた頃、まるで奇跡でも起こったかのように気配を消した。消え去った後に、深い爪痕を残して。
幼くして母を亡くしたオルファも私も、大事な人の死を涙が枯れるぐらいに悲しんだ。
けれど、それよりも重症だったのは、私のお父様であるローゼル家当主、オズワルド=ローゼルだった。
お父様の嘆きようは、言葉では表せないほど、恐ろしく深く、闇に満ちていた。
正直、あの頃の私はお母様が亡くなった悲しみ以上に、まるで半身を切り取られたかのように日々嘆き叫ぶお父様の姿に衝撃を受けていた。
……それほどまでに、凄まじい悲しみぶりだったのだ。
お父様は、お母様の亡骸を自室へと運び込み、それから何か月もの間、自室から出てこなかった。
朽ちていくお母様の身体を抱き締めて涙に咽んでいたあの姿は、未だ私の脳裏から離れない。
使用人も親類縁者も狂気の沙汰だと口にして、ローゼル家からは多くの人が離れていった。
けれどなぜか、私はそんなお父様を止める気にはなれなかった。
お父様とお母様は子供の目から見ても、とても仲睦まじい夫婦だった。元々お母様が没落貴族の出身で、階級差もあり、かけおち同然で結婚したという理由もあるんだろう。だからお父様がそうなってしまっても仕方がないと、その頃の私は納得していた。
それになんとなくだけれど、お父様をもし部屋から引きずり出していたなら、お父様の命も潰えてしまうと感じていたから。
しかし、貴族といえども日々泣き暮らして生きていけるほど、世界は甘くない。王都に屋敷を構えているとはいえ、ローゼル家は伯爵の称号を持つ家柄で、領地も領民も少なからず任されている。それを放置することは、どうしても出来なかった。
幼いオルファと、悲嘆の渦中にあるお父様。
動けるのは、私しかいなかった。
……人は、たとえ傷ついている状況でも、自分より酷く打ちひしがれている人間を前にしたら、逆に冷静になれるのかもしれない。実際、あの頃の私がそうだったように思う。
幸い執事のサイディスが、長年お父様の手助けもしてくれていたため、私も彼から教わりながら領地を運営することが出来た。
その時の私の年齢は十六歳。本来ならば社交界にデビューして、花婿となる人を探し始める時期だった。
けれどそれどころではなかったせいで、私は母の死を悲しむ暇もなく、ローゼル家当主代行という役目を担うことになったのだ。ちなみに、いくら深い事情があるとしても、そうやって子供そっちのけで悲嘆に暮れる父を目にした私が、やっぱり殿方は頼りがいのあるマッチョな騎士様タイプでなければ! という、令嬢としてはちょっとアレな嗜好を持ってしまったのもこの頃だ。
その後、半年の月日が経ち、私はオルファの将来を考えて自ら社交界へとデビューした。付添人は、お父様と長く親交のあったセデル子爵にお願いした。
お父様はお母様の埋葬を済ませた後も、ずっと塞ぎ込んで自室に引き籠っていた。
だから私は社交界に出て、付き合いのあった他貴族との関係強化に努めた。結婚なんて二の次だった。いつかオルファが当主となった時、少しでも弟が苦労することのないようにしておくのが、私の目下の目標だったのだ。
母の代わりをしなければ、という使命感にも駆られていた。
しかし、当主代行と催しへの参加、そして弟オルファへの教育となると、その頃の私には両立出来るだけの力も、余裕もなかった。なので私が十七歳の年には夜会などへの参加はやめ、人脈維持についてはその都度、茶会や訪問で繋がりを切らさないように努めることにした。
その頃ローゼル家に近寄って来ていた者達は、あまり長く付き合えるタイプの人々ではなかったから、結果的にはあれでよかったのだと思う。
そうして――私は諦めた。
弟のオルファを育て上げた暁には、私は嫁き遅れのオールドミスとなる。なら、その後は神の家に入りそれなりの日々を送ろうと考えたのだ。別に犠牲になったつもりはなく、自分の意思だった。
それから三年ほどの月日が流れ、オルファが十歳になろうかという今年の中頃、それまで塞ぎ込んでいたはずのお父様が突然部屋から出て来て、かつての笑顔で言った。
「レオノーラ。お前の縁談が決まったよ」と。
苦労と言うほどでもない以前の自分のことを思い返しながら、私は今夜も夜の務めのために待っていた。
……もちろん、そんな色気のある意味ではない。
月が大きく傾きを見せる深夜に、ガチャリ、とドアが開く。
せめて声かけくらいして下さいよと思うのだけど、悲しいかな、相手はこの家のご当主であり、私の旦那様である。文句は言えない。
ああ、帰ってきたんですねー……行く時は見送りしろって言うのに、こうやって遅くなる日は出迎えをするなってイマイチ意味がわからないけど、まあ部屋でのんびり出来るのはありがたい。
「お帰りなさいませヴォルク様」
寝衣のまま、スカートを摘まんで静々と会釈する。
ヴォルク様は既に着替え済みの状態で、朝見た蒼穹色の騎士隊服ではなく深い夜色の普段着姿だった。それもまた格好いいのだから、世の美形の奥様方は毎日ドキドキさせられて大変だろうなと他人事みたいに同情をする。
「……起きていたのか」
私が世の女性に思いを馳せていた間に、ヴォルク様は相変わらずの無表情のまま、それだけ呟いて寝台へもそもそ入っていった。うーん。出来れば帰宅の挨拶が欲しかったんだけど。
「ただいま」って、一度も言ってもらったことないのよね。
それに起きてたのかって、いつも起きてるじゃん、と言いたいです。言えないけど。
だって流石にね。旦那様ほったらかしですかすか寝ていられるわけないじゃないですか。一応伯爵令嬢なんだから、そこらへんの花嫁教育くらい式が決まった時点で叩き込まれましたわよ。
内心ぶつくさ言いつつも、ヴォルク様が入っている寝台に自分も入った。
途端、ヴォルク様がもぞり、と身体を動かす。
というか離れた。私から。
ですよねー……
やたら大きな夫婦用の寝台は、端に寄れば、さほど隣の人を気にせずに寝られますものね。
わかってます。わかってますよー。だって私はお飾りの妻ですからー。
そう心でこくこく頷きながら、私はなんの緊張感も抱かずにおやすみなさいと一言告げて眠りに入った。
しばらくして、隣から視線らしきものを感じたけれど、それには気付かない振りをした。
やがて聞こえてきた規則正しい呼吸音に、そっと瞼を上げて様子を窺う。
視界には見慣れた天井があるけれど、カーテンの隙間から差し込む月光だけでは、その全体像ははっきりしない。
同じ寝台に自分以外の誰かがいるのにも、もう慣れた。その人と背中合わせに寝るのも、最初は緊張したけれど、今となってはそれも感じない。
ヴォルク様は、私には手を出さないと理解したから。
――爵位が付いていれば、別に誰でもよかったんじゃなかろうか、とつくづく思う。
ヴォルク様は代々騎士の家系で由緒正しい家柄ではあるが、元はと言えば平民の出。なので貴族称号は、武勲を立てれば与えられる貴族位としては最下級の男爵である。では、下位貴族の人間が高位貴族と交わるには何が手っ取り早いかと言うと、それはやはり結婚という手段であった。
いわゆる政略結婚にて高位貴族との繋がりをつけていくのだ。今回の私の結婚は、見事なお手本だろう。
お父様の引き籠り生活のせいで、貴族間でのローゼル家の評判はあまりよろしいものとは言えないけれど、王国士隊に属するヴォルク様は、評判よりも爵位に重きを置いたのかもしれない。軍に属する者といえども、爵位とは切っても切れないものがある。
爵位が上であればあるほど、参加出来る催事も多いので、結婚相手には中級以上の家柄を選ぶというのがある意味常識だった。
自らの地位を固める手段として、政略結婚は別段珍しいことではない。
だからたとえ相手に好意がなくとも、義務として、婚姻後はそれなりの関係を結んでいくものなのだけど……
あえて言うなら、私がヴォルク様を好みでなかったのと同じように、恐らく彼も私が好みじゃなかったんだろう。
婚姻証書は提出済み。神の御前で恒久の誓いも済ませ、形式上は完璧な夫婦……ではあるものの。
……真実夫婦では、なかったりするのだ、これが。
まさか初夜までスルーされると思っていなかったから、あれは流石に衝撃だった。
男は好きな女じゃなくても抱けるって噂、嘘じゃないのか。それとも私は女に見えませんか。痛いの嫌いだから別にいいけど。おかげで既婚者なのにまっさらですわよワタクシ。
というわけで、私レオノーラ、正真正銘『お飾りの妻』をしております。
まあ、ここまでお前は俺の好みじゃねえんだよ的な態度を貫かれると、かえって清々しいし、割り切れて楽と言えば楽だ。
……ずっと猫被るのって、しんどいけどね。
それによくある政略結婚ではあったけど、それほど悪いものでもなかった。
求められはしなくとも、酷い扱いを受けているわけでもなければ、恋人と引き裂かれたわけでもない。
むしろ運がいい方なのだから、これからも無難に毎日を送っていけたら――と、そんな風に軽く考えていた。
後から思えば、それは私がヴォルク様のことを「ちゃんと」見ていなかったから、そう思ってしまったのだろう。この時の私は、知らなかった。自分が一緒になった人の、ほんの片鱗さえも。
* * *
――また、別の日。
バルコニーへと続く窓際に立ちながら、もうすぐ帰ってくるであろう彼の顔を思い浮かべる。
思い返せば、顔合わせをした時から、ヴォルク様の表情らしい表情はほとんど見ていない。
日中は仕事でほぼ屋敷にいないし、顔を合わせる機会と言えば、朝の見送りの時と、今のような夜の出迎えの時だけ。朝食は一緒に取っているけれど、その時は食事中ということもあって話しかけることもない。恐らく一日の間で二人きりで過ごしているのは、就寝時を除くと一刻にも満たないのではないだろうか。
私達は、互いについて全く知らない。表情も、考えも、何もかも。
出来れば仲良くなりたいのになー……と思いつつ、まあまだ三か月なんだし、もうちょっと様子を見てみるか、と無理矢理自分の気持ちを浮上させ、実家にいた頃によくオルファと歌っていた曲を口ずさんだ。今夜みたいに白銀の月が美しく煌めく夜には、この曲を歌いたくなる。
軽やかな曲を鼻歌交じりに歌いながら、その場でぐっと両手を上げて伸びをした。
レグナガルド家に嫁いでからというもの、あまり身体を動かす機会がないせいか、以前よりも筋が固まり、なまっている気がする。オルファと共に過ごしていた頃は、庭でじゃれ合ったり剣技の練習なんかも遊びの延長で付き合ったりしていたから、そんなことはなかったけれど。
……やっぱり、淑女の生活っていうのは、私には合わないと思うのよね。
腰を左右に回しつつ、そんなことを考える。貴族令嬢らしくないのは自覚しているものの、これが私という人間だし、それでいいとも思っている。
郷に入っては郷に従えという言葉も理解しているので、我を押し通すつもりもないし、恐らくこのまま、私は努めてお淑やかに、レグナガルド夫人を演じていくのだろう。
……少し寂しい気もするけれど、多くの令嬢が辿る道でもあるから、文句を言えないのはわかっている。
歌で気分を誤魔化しながら、全身の軽い運動を終えたところで、ふと窓へ片手をついた。
硝子越しに広がる夜の静かな光景に、かつてお母様が生きていた時、お父様やオルファと私を含めた家族四人で、屋敷の中庭から星を眺めたことを思い出す。あの頃のオルファはまだ二つか三つで、珍しく許された夜更かしをとても喜んでいたっけ。
「あの頃が、懐かしいなー……」
悲しい気持ちが心に湧いて、無意識に口をついた言葉に、自分でも驚いた。
咄嗟に指先で口元へ触れたところ――突然の声が。
「どうした」
「ひゃっ!」
不意打ちでかけられた声に、声と心臓が同時に跳ねた。慌てて振り向くと、ヴォルク様の見慣れた無表情が私をじっと見つめていた。
「お、お帰りなさい、ませ……?」
思考が追い付かず、とりあえずの言葉を口にする。いつの間に帰ってきたのか、足音も、扉が開いた音も聞こえなかったのに。
気配、しなかったような……?
考えごとをしていたせいで気付かなかったのだろうか? それにしても、普段は絶対気付くのに。
おかしいな、と思いつつヴォルク様の顔を窺うと、彼はなぜか無言のままで微動だにせず私を見ている。
「あの……?」
「歌……」
「うた?」
「今、歌っていただろう」
唐突に指摘されて、何のことやらと戸惑う。けれどその意味に思い至ったところで、羞恥に心が染まり焦る。
は……っ鼻歌! 聞かれてたーーーっ!?
「ええええっと!」
パニックに陥る中、聞いてたならなぜ止めん! と文句めいた言葉が浮かぶ。もちろん口には出来ないけれど、黙って聞かれていたことが恥ずかしすぎて、誤魔化し方を必死で考えた。
「……今の曲は?」
「え」
慌てていると、数歩私の方へ近付いてきたヴォルク様にそう問われ、彼の顔を見上げ驚きの声を漏らす。
普段、私と彼の間に会話らしい会話はほとんどない。大抵は、日々繰り返される最低限の定型文のみだった。
けれど、今のこれは……
会話をしようとしてくれているのかと驚くと同時に、ちょっと嬉しい気持ちもあって、私は彼を見上げたまま答えを口にした。
「この曲の名は、銀の小舟、と言います」
「銀の……?」
正直、曲名を答えるのにも少し恥ずかしい気持ちがあった。夫となった人と同じ色の名を冠した歌を口にしていたと知られるのは、なんだか照れくさい。
この歌はローゼル家でとても慣れ親しんだもの。小さい頃にお母様から教えてもらって、それからずっと歌い続けてきた思い出深い歌だ。
だからヴォルク様の髪の色が銀色だと知った時は、嬉しい気持ちがあった。
彼からすれば他愛のない偶然かもしれないけれど、唐突に告げられた縁談話を嘆くことなく受け入れられたのは、この小さな偶然があったからと言っても過言ではなかった。
「好き……なのか?」
「はい?」
「その、銀の小舟……という歌が」
ヴォルク様が、私へ視線を向けたまま、静かな声音で再び問いかける。彼から質問を投げられること自体珍しいけれど、ここまで会話が続いていることにも、内心かなり驚いていた。
なんだろう。今日のヴォルク様は、普段とちょっと違う気がする。
こうやって話が出来ているのもそうだけど、どこか少し……柔らかい空気を出してくれているような……
少しは歩み寄ってもいい気持ちになってくれたのかと思いながら、私は彼に感謝を込めて笑いかけた。
互いに努力出来るなら、この関係も悪くない。
「はい。私の母から教わったのですが、小さい頃から、ずっと好きです」
そう返すと、心なしかヴォルク様の蒼い瞳が瞠られた気がした。だけど「そうか」と呟いた後には普段と同じ無表情に戻っていたので、気のせいだったのかと思い直す。
――しかし、次の日再び起こった意外な出来事に、私はまた戸惑うことになる。
「あの、これは……?」
帰って早々、旦那様が寝室で渡してきた小さな包みを手に、私は心底困り果てていた。
今日もいつもと同じく、朝ヴォルク様を送り出し、夜は寝室で彼の帰りを待っていたのだけど。
部屋に入るなり手を出すよう指示を受けたかと思ったら、両手を出した次の瞬間には淡い桃色の紙で包まれた物体が、私の掌の上にぽんっと載せられていた。
え、えーっと……?
あんまりにも唐突だったので、驚くよりも呆気にとられ、しばし無言で立ち尽くしてしまった。
ちなみに、この物体をよこした当人は、騎士服から簡素な普段着に着替えた状態で、私の前に無表情で立っている。
なんだ、一体なんなんだ、妙に可愛らしいこの包みは。しかもなんだか、甘い香りがするんだけど気のせいか。
「……開けてみろ」
またもや飛び出した普段とは違う言葉に少々驚きつつも、言われた通りに淡い桃色の包みを開く。
すると、中からころんと三つほどの茶色の星が、その姿を現した。
これって――
「お菓子?」
深い茶色の、甘い匂いを纏ったそれは、紛れもなくチョコレートと呼ばれるお菓子だった。
星の形をしていて、幾筋かの白い模様が流れるようにつけられている。
なんか、流れ星みたいなイメージかな、これ。綺麗だし、可愛い。
でも、なんで……?
掌の上のそれを見た後、これを持ってきたヴォルク様の顔を見上げた。
すると、すっと視線を外した彼が、ぽつりと「土産だ」と呟く。
「お土産……?」
思ってもいなかった言葉が飛び出て、つい復唱すると、なぜかヴォルク様は顔を伏せたまま、足早に寝台へと入ってしまった。
えと、ちょっと待って。お土産って言われても。って、あ、そうか。お土産ってことは食べろってこと?
というか食べないと、今にも私の手の上で溶けそうなんですけどコレ。むしろちょっと溶けてる。
駄目だ。これは食べないと駄目なパターンだ。
既に寝台に入り込んで、なぜか頭まで掛布を被っているヴォルク様を見つつ、とりあえず私はお菓子を食べてしまうことにした。夜中にチョコレートってかなりの罪深さだけど、この場合は仕方ない。何より美味しそうだし、可愛いし。
なんとなく言い訳をしながら、えいっと星の一つを口へ放り込んだ。
濃厚な甘い香りと味が口の中いっぱいに広がって、途端に幸せな気分に包まれる。私も大概単純だな、と思いつつ「おいひい……」と呟くと、寝台から「そうか」とはっきりとした返事が聞こえた。
……起きてるじゃん。
と突っ込みたい衝動に駆られたけれど、今の空気を壊したくないという考えからなんとか思いとどまり、感謝の言葉だけを口にした。
「美味しかったです。ありがとうございます」
私の声が、彼に届いたのかどうかはわからなかったけれど、答えるみたいにもぞりと動いた掛布の感じから、たぶん伝わったのだろうなと思った。
こんな風に暮らすうちにほんの少しだけ、ヴォルク様は以前とは違う表情を見せてくれるようになっていたけれど、夜になると寝台の端と端で眠るのは相変わらず続いていた。妻としての義務を求められないことに正直安堵している部分はある。でも、日々過ごすうちに彼のことを別に嫌いじゃないなと感じ始めていたし、出来れば今よりも話をしたいなとも思っていたので、求められないことにちょっと微妙な気持ちも抱いていた。
……まあ、矛盾してるのはわかってるんだけど。
だから、このまま時間をかけて、今より少しマシ程度の関係を目指すことを、とりあえずの目標にしようと思っていた。
――彼女が、現れるまでは。
* * *
ふと我に返ると、目の前には金髪巨乳美女。
ずいぶん長々と回想に耽ってしまったけれど、そうだった、ヴォルク様の元カノが来ていたんだった。
「貴女は、それでいいの――?」
不安そうに瞳を揺らして、エリシエル様がそう言った。
直感的に、あ、この人いい人だ、と思う。
こちらを窺う様子の中に、心配してくれている気配があったから。
恋敵である私に、ヴォルク様と別れていいのかと聞いてくれるのは、私も彼を好きになっていると思っているせいなんだろう。
でも違うし。全く。
……嫌いじゃないけど。
タイプではなかったけれど、やたら寡黙で無表情でも、不遜な態度を取られたこともなければ、変な要望をされたこともなかった。だからせめて友達にくらいはなれたらいいのになとは考えていた。
好き嫌いで言えば好ましい方だったと思う。
しかし、ヴォルク様自身に想う人がいるなら話は別だ。
私の存在が、たった三か月でも夫婦として過ごした人の幸せの妨げになるのなら、さっさと退場するべきだと思う。
幸い私には帰る家もあれば、弟オルファを育て上げるという仕事もある。
離縁したからといって心が傷つくわけでもない。
なら答えは一つ――銀色の髪をした寡黙な騎士様を、彼が想う人へと返すだけ。
エリシエル様の家は公爵家だし、確実に今よりは幸せになれるはず。何しろ彼女は美女だし、巨乳だし。だって巨乳だし。大事なことなので二回言いました。
若干戸惑っている様子のエリシエル様に大丈夫ですからと声をかけ、私は話が済むまでは客間で待っていてくれるようにと頼んで、一度話を切った。
……そうして今、私は自室でヴォルク様の帰りを待っている。
今日は定刻通りに終わると聞いていたから、そんなに遅くはならないだろう。
昔は貧弱だった身体も、成長と共にしっかりし、最近は特に剣の稽古に精を出しているらしい。そのためか以前は文芸小説を読み耽っていたのに、今は冒険小説に熱を上げているのだとか。それで今回は手紙に添えるプレゼントとしてアルフォンスの白薔薇と共に、発売されたばかりの海賊物語を購入していた。
この海賊物語はシリーズもので、オルファが現在嵌っている作品でもある。
オルファへそのことを書きながら、ついでに今作業をしてくれている新人メイド、セリアの話も書きとめることにした。この海賊物語に出てくる主人公手編みのロープが、手先の器用なセリアなら編めるかもしれないと思ったからだ。
なにしろ以前彼女に髪結いをしてもらったところ、一体どこでどうなってるんだ? と驚くくらい複雑な編み込みをやってみせてくれた。しかも髪結いってほとんどが痛みを伴うものなのに、彼女のは全然痛くなかったからさらに驚いた。
セリアにロープを編めとは言えないけど、一応話題として楽しいので書いておく。
ちなみに、弟のオルファは若干、いやかなりシスコン気味で、私の縁談が決まった時は、お父様を刺し殺さんばかりの勢いだった。
それというのも私は彼にとって、姉であり、母でもあったからだ。
私とオルファも、ヴォルク様と同じく母親がいない。
お母様が亡くなったのは、オルファが六歳の頃だった。闊達な性格に似合わず身体が弱かったお母様は、その年にイゼルマールを襲った流行り病で、呆気なくも天に召された。未だ『暁の炎』という名称で恐れられているその病は、多くの命を奪い去り、一か月を過ぎた頃、まるで奇跡でも起こったかのように気配を消した。消え去った後に、深い爪痕を残して。
幼くして母を亡くしたオルファも私も、大事な人の死を涙が枯れるぐらいに悲しんだ。
けれど、それよりも重症だったのは、私のお父様であるローゼル家当主、オズワルド=ローゼルだった。
お父様の嘆きようは、言葉では表せないほど、恐ろしく深く、闇に満ちていた。
正直、あの頃の私はお母様が亡くなった悲しみ以上に、まるで半身を切り取られたかのように日々嘆き叫ぶお父様の姿に衝撃を受けていた。
……それほどまでに、凄まじい悲しみぶりだったのだ。
お父様は、お母様の亡骸を自室へと運び込み、それから何か月もの間、自室から出てこなかった。
朽ちていくお母様の身体を抱き締めて涙に咽んでいたあの姿は、未だ私の脳裏から離れない。
使用人も親類縁者も狂気の沙汰だと口にして、ローゼル家からは多くの人が離れていった。
けれどなぜか、私はそんなお父様を止める気にはなれなかった。
お父様とお母様は子供の目から見ても、とても仲睦まじい夫婦だった。元々お母様が没落貴族の出身で、階級差もあり、かけおち同然で結婚したという理由もあるんだろう。だからお父様がそうなってしまっても仕方がないと、その頃の私は納得していた。
それになんとなくだけれど、お父様をもし部屋から引きずり出していたなら、お父様の命も潰えてしまうと感じていたから。
しかし、貴族といえども日々泣き暮らして生きていけるほど、世界は甘くない。王都に屋敷を構えているとはいえ、ローゼル家は伯爵の称号を持つ家柄で、領地も領民も少なからず任されている。それを放置することは、どうしても出来なかった。
幼いオルファと、悲嘆の渦中にあるお父様。
動けるのは、私しかいなかった。
……人は、たとえ傷ついている状況でも、自分より酷く打ちひしがれている人間を前にしたら、逆に冷静になれるのかもしれない。実際、あの頃の私がそうだったように思う。
幸い執事のサイディスが、長年お父様の手助けもしてくれていたため、私も彼から教わりながら領地を運営することが出来た。
その時の私の年齢は十六歳。本来ならば社交界にデビューして、花婿となる人を探し始める時期だった。
けれどそれどころではなかったせいで、私は母の死を悲しむ暇もなく、ローゼル家当主代行という役目を担うことになったのだ。ちなみに、いくら深い事情があるとしても、そうやって子供そっちのけで悲嘆に暮れる父を目にした私が、やっぱり殿方は頼りがいのあるマッチョな騎士様タイプでなければ! という、令嬢としてはちょっとアレな嗜好を持ってしまったのもこの頃だ。
その後、半年の月日が経ち、私はオルファの将来を考えて自ら社交界へとデビューした。付添人は、お父様と長く親交のあったセデル子爵にお願いした。
お父様はお母様の埋葬を済ませた後も、ずっと塞ぎ込んで自室に引き籠っていた。
だから私は社交界に出て、付き合いのあった他貴族との関係強化に努めた。結婚なんて二の次だった。いつかオルファが当主となった時、少しでも弟が苦労することのないようにしておくのが、私の目下の目標だったのだ。
母の代わりをしなければ、という使命感にも駆られていた。
しかし、当主代行と催しへの参加、そして弟オルファへの教育となると、その頃の私には両立出来るだけの力も、余裕もなかった。なので私が十七歳の年には夜会などへの参加はやめ、人脈維持についてはその都度、茶会や訪問で繋がりを切らさないように努めることにした。
その頃ローゼル家に近寄って来ていた者達は、あまり長く付き合えるタイプの人々ではなかったから、結果的にはあれでよかったのだと思う。
そうして――私は諦めた。
弟のオルファを育て上げた暁には、私は嫁き遅れのオールドミスとなる。なら、その後は神の家に入りそれなりの日々を送ろうと考えたのだ。別に犠牲になったつもりはなく、自分の意思だった。
それから三年ほどの月日が流れ、オルファが十歳になろうかという今年の中頃、それまで塞ぎ込んでいたはずのお父様が突然部屋から出て来て、かつての笑顔で言った。
「レオノーラ。お前の縁談が決まったよ」と。
苦労と言うほどでもない以前の自分のことを思い返しながら、私は今夜も夜の務めのために待っていた。
……もちろん、そんな色気のある意味ではない。
月が大きく傾きを見せる深夜に、ガチャリ、とドアが開く。
せめて声かけくらいして下さいよと思うのだけど、悲しいかな、相手はこの家のご当主であり、私の旦那様である。文句は言えない。
ああ、帰ってきたんですねー……行く時は見送りしろって言うのに、こうやって遅くなる日は出迎えをするなってイマイチ意味がわからないけど、まあ部屋でのんびり出来るのはありがたい。
「お帰りなさいませヴォルク様」
寝衣のまま、スカートを摘まんで静々と会釈する。
ヴォルク様は既に着替え済みの状態で、朝見た蒼穹色の騎士隊服ではなく深い夜色の普段着姿だった。それもまた格好いいのだから、世の美形の奥様方は毎日ドキドキさせられて大変だろうなと他人事みたいに同情をする。
「……起きていたのか」
私が世の女性に思いを馳せていた間に、ヴォルク様は相変わらずの無表情のまま、それだけ呟いて寝台へもそもそ入っていった。うーん。出来れば帰宅の挨拶が欲しかったんだけど。
「ただいま」って、一度も言ってもらったことないのよね。
それに起きてたのかって、いつも起きてるじゃん、と言いたいです。言えないけど。
だって流石にね。旦那様ほったらかしですかすか寝ていられるわけないじゃないですか。一応伯爵令嬢なんだから、そこらへんの花嫁教育くらい式が決まった時点で叩き込まれましたわよ。
内心ぶつくさ言いつつも、ヴォルク様が入っている寝台に自分も入った。
途端、ヴォルク様がもぞり、と身体を動かす。
というか離れた。私から。
ですよねー……
やたら大きな夫婦用の寝台は、端に寄れば、さほど隣の人を気にせずに寝られますものね。
わかってます。わかってますよー。だって私はお飾りの妻ですからー。
そう心でこくこく頷きながら、私はなんの緊張感も抱かずにおやすみなさいと一言告げて眠りに入った。
しばらくして、隣から視線らしきものを感じたけれど、それには気付かない振りをした。
やがて聞こえてきた規則正しい呼吸音に、そっと瞼を上げて様子を窺う。
視界には見慣れた天井があるけれど、カーテンの隙間から差し込む月光だけでは、その全体像ははっきりしない。
同じ寝台に自分以外の誰かがいるのにも、もう慣れた。その人と背中合わせに寝るのも、最初は緊張したけれど、今となってはそれも感じない。
ヴォルク様は、私には手を出さないと理解したから。
――爵位が付いていれば、別に誰でもよかったんじゃなかろうか、とつくづく思う。
ヴォルク様は代々騎士の家系で由緒正しい家柄ではあるが、元はと言えば平民の出。なので貴族称号は、武勲を立てれば与えられる貴族位としては最下級の男爵である。では、下位貴族の人間が高位貴族と交わるには何が手っ取り早いかと言うと、それはやはり結婚という手段であった。
いわゆる政略結婚にて高位貴族との繋がりをつけていくのだ。今回の私の結婚は、見事なお手本だろう。
お父様の引き籠り生活のせいで、貴族間でのローゼル家の評判はあまりよろしいものとは言えないけれど、王国士隊に属するヴォルク様は、評判よりも爵位に重きを置いたのかもしれない。軍に属する者といえども、爵位とは切っても切れないものがある。
爵位が上であればあるほど、参加出来る催事も多いので、結婚相手には中級以上の家柄を選ぶというのがある意味常識だった。
自らの地位を固める手段として、政略結婚は別段珍しいことではない。
だからたとえ相手に好意がなくとも、義務として、婚姻後はそれなりの関係を結んでいくものなのだけど……
あえて言うなら、私がヴォルク様を好みでなかったのと同じように、恐らく彼も私が好みじゃなかったんだろう。
婚姻証書は提出済み。神の御前で恒久の誓いも済ませ、形式上は完璧な夫婦……ではあるものの。
……真実夫婦では、なかったりするのだ、これが。
まさか初夜までスルーされると思っていなかったから、あれは流石に衝撃だった。
男は好きな女じゃなくても抱けるって噂、嘘じゃないのか。それとも私は女に見えませんか。痛いの嫌いだから別にいいけど。おかげで既婚者なのにまっさらですわよワタクシ。
というわけで、私レオノーラ、正真正銘『お飾りの妻』をしております。
まあ、ここまでお前は俺の好みじゃねえんだよ的な態度を貫かれると、かえって清々しいし、割り切れて楽と言えば楽だ。
……ずっと猫被るのって、しんどいけどね。
それによくある政略結婚ではあったけど、それほど悪いものでもなかった。
求められはしなくとも、酷い扱いを受けているわけでもなければ、恋人と引き裂かれたわけでもない。
むしろ運がいい方なのだから、これからも無難に毎日を送っていけたら――と、そんな風に軽く考えていた。
後から思えば、それは私がヴォルク様のことを「ちゃんと」見ていなかったから、そう思ってしまったのだろう。この時の私は、知らなかった。自分が一緒になった人の、ほんの片鱗さえも。
* * *
――また、別の日。
バルコニーへと続く窓際に立ちながら、もうすぐ帰ってくるであろう彼の顔を思い浮かべる。
思い返せば、顔合わせをした時から、ヴォルク様の表情らしい表情はほとんど見ていない。
日中は仕事でほぼ屋敷にいないし、顔を合わせる機会と言えば、朝の見送りの時と、今のような夜の出迎えの時だけ。朝食は一緒に取っているけれど、その時は食事中ということもあって話しかけることもない。恐らく一日の間で二人きりで過ごしているのは、就寝時を除くと一刻にも満たないのではないだろうか。
私達は、互いについて全く知らない。表情も、考えも、何もかも。
出来れば仲良くなりたいのになー……と思いつつ、まあまだ三か月なんだし、もうちょっと様子を見てみるか、と無理矢理自分の気持ちを浮上させ、実家にいた頃によくオルファと歌っていた曲を口ずさんだ。今夜みたいに白銀の月が美しく煌めく夜には、この曲を歌いたくなる。
軽やかな曲を鼻歌交じりに歌いながら、その場でぐっと両手を上げて伸びをした。
レグナガルド家に嫁いでからというもの、あまり身体を動かす機会がないせいか、以前よりも筋が固まり、なまっている気がする。オルファと共に過ごしていた頃は、庭でじゃれ合ったり剣技の練習なんかも遊びの延長で付き合ったりしていたから、そんなことはなかったけれど。
……やっぱり、淑女の生活っていうのは、私には合わないと思うのよね。
腰を左右に回しつつ、そんなことを考える。貴族令嬢らしくないのは自覚しているものの、これが私という人間だし、それでいいとも思っている。
郷に入っては郷に従えという言葉も理解しているので、我を押し通すつもりもないし、恐らくこのまま、私は努めてお淑やかに、レグナガルド夫人を演じていくのだろう。
……少し寂しい気もするけれど、多くの令嬢が辿る道でもあるから、文句を言えないのはわかっている。
歌で気分を誤魔化しながら、全身の軽い運動を終えたところで、ふと窓へ片手をついた。
硝子越しに広がる夜の静かな光景に、かつてお母様が生きていた時、お父様やオルファと私を含めた家族四人で、屋敷の中庭から星を眺めたことを思い出す。あの頃のオルファはまだ二つか三つで、珍しく許された夜更かしをとても喜んでいたっけ。
「あの頃が、懐かしいなー……」
悲しい気持ちが心に湧いて、無意識に口をついた言葉に、自分でも驚いた。
咄嗟に指先で口元へ触れたところ――突然の声が。
「どうした」
「ひゃっ!」
不意打ちでかけられた声に、声と心臓が同時に跳ねた。慌てて振り向くと、ヴォルク様の見慣れた無表情が私をじっと見つめていた。
「お、お帰りなさい、ませ……?」
思考が追い付かず、とりあえずの言葉を口にする。いつの間に帰ってきたのか、足音も、扉が開いた音も聞こえなかったのに。
気配、しなかったような……?
考えごとをしていたせいで気付かなかったのだろうか? それにしても、普段は絶対気付くのに。
おかしいな、と思いつつヴォルク様の顔を窺うと、彼はなぜか無言のままで微動だにせず私を見ている。
「あの……?」
「歌……」
「うた?」
「今、歌っていただろう」
唐突に指摘されて、何のことやらと戸惑う。けれどその意味に思い至ったところで、羞恥に心が染まり焦る。
は……っ鼻歌! 聞かれてたーーーっ!?
「ええええっと!」
パニックに陥る中、聞いてたならなぜ止めん! と文句めいた言葉が浮かぶ。もちろん口には出来ないけれど、黙って聞かれていたことが恥ずかしすぎて、誤魔化し方を必死で考えた。
「……今の曲は?」
「え」
慌てていると、数歩私の方へ近付いてきたヴォルク様にそう問われ、彼の顔を見上げ驚きの声を漏らす。
普段、私と彼の間に会話らしい会話はほとんどない。大抵は、日々繰り返される最低限の定型文のみだった。
けれど、今のこれは……
会話をしようとしてくれているのかと驚くと同時に、ちょっと嬉しい気持ちもあって、私は彼を見上げたまま答えを口にした。
「この曲の名は、銀の小舟、と言います」
「銀の……?」
正直、曲名を答えるのにも少し恥ずかしい気持ちがあった。夫となった人と同じ色の名を冠した歌を口にしていたと知られるのは、なんだか照れくさい。
この歌はローゼル家でとても慣れ親しんだもの。小さい頃にお母様から教えてもらって、それからずっと歌い続けてきた思い出深い歌だ。
だからヴォルク様の髪の色が銀色だと知った時は、嬉しい気持ちがあった。
彼からすれば他愛のない偶然かもしれないけれど、唐突に告げられた縁談話を嘆くことなく受け入れられたのは、この小さな偶然があったからと言っても過言ではなかった。
「好き……なのか?」
「はい?」
「その、銀の小舟……という歌が」
ヴォルク様が、私へ視線を向けたまま、静かな声音で再び問いかける。彼から質問を投げられること自体珍しいけれど、ここまで会話が続いていることにも、内心かなり驚いていた。
なんだろう。今日のヴォルク様は、普段とちょっと違う気がする。
こうやって話が出来ているのもそうだけど、どこか少し……柔らかい空気を出してくれているような……
少しは歩み寄ってもいい気持ちになってくれたのかと思いながら、私は彼に感謝を込めて笑いかけた。
互いに努力出来るなら、この関係も悪くない。
「はい。私の母から教わったのですが、小さい頃から、ずっと好きです」
そう返すと、心なしかヴォルク様の蒼い瞳が瞠られた気がした。だけど「そうか」と呟いた後には普段と同じ無表情に戻っていたので、気のせいだったのかと思い直す。
――しかし、次の日再び起こった意外な出来事に、私はまた戸惑うことになる。
「あの、これは……?」
帰って早々、旦那様が寝室で渡してきた小さな包みを手に、私は心底困り果てていた。
今日もいつもと同じく、朝ヴォルク様を送り出し、夜は寝室で彼の帰りを待っていたのだけど。
部屋に入るなり手を出すよう指示を受けたかと思ったら、両手を出した次の瞬間には淡い桃色の紙で包まれた物体が、私の掌の上にぽんっと載せられていた。
え、えーっと……?
あんまりにも唐突だったので、驚くよりも呆気にとられ、しばし無言で立ち尽くしてしまった。
ちなみに、この物体をよこした当人は、騎士服から簡素な普段着に着替えた状態で、私の前に無表情で立っている。
なんだ、一体なんなんだ、妙に可愛らしいこの包みは。しかもなんだか、甘い香りがするんだけど気のせいか。
「……開けてみろ」
またもや飛び出した普段とは違う言葉に少々驚きつつも、言われた通りに淡い桃色の包みを開く。
すると、中からころんと三つほどの茶色の星が、その姿を現した。
これって――
「お菓子?」
深い茶色の、甘い匂いを纏ったそれは、紛れもなくチョコレートと呼ばれるお菓子だった。
星の形をしていて、幾筋かの白い模様が流れるようにつけられている。
なんか、流れ星みたいなイメージかな、これ。綺麗だし、可愛い。
でも、なんで……?
掌の上のそれを見た後、これを持ってきたヴォルク様の顔を見上げた。
すると、すっと視線を外した彼が、ぽつりと「土産だ」と呟く。
「お土産……?」
思ってもいなかった言葉が飛び出て、つい復唱すると、なぜかヴォルク様は顔を伏せたまま、足早に寝台へと入ってしまった。
えと、ちょっと待って。お土産って言われても。って、あ、そうか。お土産ってことは食べろってこと?
というか食べないと、今にも私の手の上で溶けそうなんですけどコレ。むしろちょっと溶けてる。
駄目だ。これは食べないと駄目なパターンだ。
既に寝台に入り込んで、なぜか頭まで掛布を被っているヴォルク様を見つつ、とりあえず私はお菓子を食べてしまうことにした。夜中にチョコレートってかなりの罪深さだけど、この場合は仕方ない。何より美味しそうだし、可愛いし。
なんとなく言い訳をしながら、えいっと星の一つを口へ放り込んだ。
濃厚な甘い香りと味が口の中いっぱいに広がって、途端に幸せな気分に包まれる。私も大概単純だな、と思いつつ「おいひい……」と呟くと、寝台から「そうか」とはっきりとした返事が聞こえた。
……起きてるじゃん。
と突っ込みたい衝動に駆られたけれど、今の空気を壊したくないという考えからなんとか思いとどまり、感謝の言葉だけを口にした。
「美味しかったです。ありがとうございます」
私の声が、彼に届いたのかどうかはわからなかったけれど、答えるみたいにもぞりと動いた掛布の感じから、たぶん伝わったのだろうなと思った。
こんな風に暮らすうちにほんの少しだけ、ヴォルク様は以前とは違う表情を見せてくれるようになっていたけれど、夜になると寝台の端と端で眠るのは相変わらず続いていた。妻としての義務を求められないことに正直安堵している部分はある。でも、日々過ごすうちに彼のことを別に嫌いじゃないなと感じ始めていたし、出来れば今よりも話をしたいなとも思っていたので、求められないことにちょっと微妙な気持ちも抱いていた。
……まあ、矛盾してるのはわかってるんだけど。
だから、このまま時間をかけて、今より少しマシ程度の関係を目指すことを、とりあえずの目標にしようと思っていた。
――彼女が、現れるまでは。
* * *
ふと我に返ると、目の前には金髪巨乳美女。
ずいぶん長々と回想に耽ってしまったけれど、そうだった、ヴォルク様の元カノが来ていたんだった。
「貴女は、それでいいの――?」
不安そうに瞳を揺らして、エリシエル様がそう言った。
直感的に、あ、この人いい人だ、と思う。
こちらを窺う様子の中に、心配してくれている気配があったから。
恋敵である私に、ヴォルク様と別れていいのかと聞いてくれるのは、私も彼を好きになっていると思っているせいなんだろう。
でも違うし。全く。
……嫌いじゃないけど。
タイプではなかったけれど、やたら寡黙で無表情でも、不遜な態度を取られたこともなければ、変な要望をされたこともなかった。だからせめて友達にくらいはなれたらいいのになとは考えていた。
好き嫌いで言えば好ましい方だったと思う。
しかし、ヴォルク様自身に想う人がいるなら話は別だ。
私の存在が、たった三か月でも夫婦として過ごした人の幸せの妨げになるのなら、さっさと退場するべきだと思う。
幸い私には帰る家もあれば、弟オルファを育て上げるという仕事もある。
離縁したからといって心が傷つくわけでもない。
なら答えは一つ――銀色の髪をした寡黙な騎士様を、彼が想う人へと返すだけ。
エリシエル様の家は公爵家だし、確実に今よりは幸せになれるはず。何しろ彼女は美女だし、巨乳だし。だって巨乳だし。大事なことなので二回言いました。
若干戸惑っている様子のエリシエル様に大丈夫ですからと声をかけ、私は話が済むまでは客間で待っていてくれるようにと頼んで、一度話を切った。
……そうして今、私は自室でヴォルク様の帰りを待っている。
今日は定刻通りに終わると聞いていたから、そんなに遅くはならないだろう。
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