刹那玻璃

刹那玻璃

日本史、世界の神話、三国志など歴史伝承が好きです。 ファンタジーも書きます。 職業は『言の葉使い』とテディベア、チャーム作家。 地元の観光ボランティアガイドの資格有り。読書と手芸が趣味です。

【玉響の夢】約2年ぶりに更新しました。

本当はもっと早く更新したかったこの作品です。

実際、地域の図書館や地元の古くからある古書店、考古館にも調べに行き、それでは足りないと資料で見つけた二ヶ所の『熟田津(にきたつ)』と『来島海峡』に行き、やっぱり船でしまなみ海道近辺の海を船で渡るのは難しいのではないかと。
何故なら当時ではもう、最高齢の斉明天皇です。
出発してすぐ、大田皇女(おおたのひめみこ)は大伯皇女(おおくのひめみこ)を出産。
そんな中で、三大渦潮の一つを海で渡る技術は、あるにしても困難。
そして、難所を知っているのはその地域を縄張りにする一族……後に越智(おち)を名乗る小千(おち)氏です。
小千氏の嫡男、守興(もりおき)と妻、なつが、斉明天皇に仕えたと言うのは地域の伝承ですが、2つの熟田津の1つは、しまなみ海道近辺にありました。

そして、斉明天皇の二人目の子になる中大兄皇子(なかのおおえのみこ)を33歳で出産、その後、間人皇女(はしひとのひめみこ)と大海人皇子(おおあまのみこ)を出産しているので、本当か?と時代を確認しました。
間人皇女と大海人皇子の生年は不明ですが、やはり舒明天皇(じょめいてんのう)との子供。
それでは、大海人皇子を産んだ時は40歳近かったのだろうと思われます。
一番最初の子供である漢皇子(あやのみこ)は、歴史上から消えています。

そして探していた本以外に、もう一冊気になる本が先に手に入り読んでいると、舒明天皇が伊予を訪れ『伊予温湯宮(いよのゆのみや)』を作ったとありました。その地は現在の愛媛県松山市久米地域に発掘された久米官衙遺跡の一角ではないかとされています。亡くなった年、斉明天皇7年1月14日『石湯行宮(いわゆのかりみや)』に到着し滞在して、熟田津(にきたつ)から出発した正確な日付は記入されていませんが、3月25日に「那の大津(なのおおつ)」を旧地名とする、博多津(現在の福岡県福岡市の博多湾)の磐瀬行宮(いわせのかりみや)に到着。5月9日に福岡県朝倉市に作られた朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)に到着。
斉明天皇7年7月24日に崩御。

まだ壊れてもいないであろう『伊予温湯宮』があるのに『石湯行宮』を作ったと言うのも不思議だと思い、『石湯行宮』は『伊予温湯宮』と場所が違うのではないかと考え、  設定が狂わぬように現在頭とメモ書きで必死に整理しております。
登録日 2019.12.30 20:25

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