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しおりを挟む阿賀野は、幼い頃から恋だの愛だのについて、特に悩んだことのない人生を送っていた。
恋い焦がれた相手はいないし、共に人生を歩んだらどうなるだろうと考えるほどに愛した人もいなかった。黙っていても誰かから必ず声がかかったし、嫌悪したり興味がない相手ではない限り、頼まれれば付き合うこともあった。追い掛けられ、求められるばかりで、それが当たり前だった。
だがそれも、過去の話だ。
「あれっ社長さん、また来たのか」
「あ、ああ、こんにちは、松前さん」
隠れているわけではないが、見つかってしまったという気持ちになりながら、阿賀野はうららかな日曜日の正午過ぎ、多馬村唯一の食堂である多馬屋から出てきたところで声をかけられて立ち止まった。
手押し一輪車に彩りも鮮やかな野菜をごろごろと乗せて通りかかったのは、直販所の責任者であり、阿賀野達に真柴の家を教えてくれた松前だった。
「またあれか。要のとこか」
「ええ、まあ……はい」
またと言われるとどうにも言葉が鈍くなるが、実際今日で真柴宅への突撃は十度目になる。
さすがに十度目ともなると顔も用事も村民たちには筒抜けで、それどころかのどかな農村には不釣り合いな外車のせいもあってか、見知らぬ老婆にまで「ああ、噂の社長さん」と声を掛けられたりもしていた。
「どうだ、要は手強いだろう」
「手強いですが、手ごたえはありますから」
「ははは、手ごたえか。顔は見せてくれるかい」
「はい、最近はだいぶ近くまで寄っても逃げられなくなりました」
最初こそ数十メートル離れていてもおどおどしていた真柴も、さすがに最近は慣れてきて、今や数メートルまで近寄っても逃げられることはない。なので、今日こそは普通に談笑する距離にまで近寄れるだろうかと、内心期待をしていた。
あんなに嫌がっていた真柴も、菓子を置いて行っても話をしても、近頃は怒ることもない。阿賀野が来ると畑仕事をしていても顔をあげて、どこか照れくさそうにぺこりと軽く会釈する様子は、阿賀野に自信と優越感を抱かせた。
「それはすごいな。俺はあれが小さい頃から知ってるが、昔から人見知りでなあ。オメガだし、いつかはつがいを見つけなきゃいけねえのはわかってんだろうけど、なかなか難しくてさ。……要にも、ぐいぐい押してくれる人が来てくれねえかなって思ってたんだよ」
「要にも?」
松前とはそれほど会話をした事があるわけでもないので、さらりと流してさっさと真柴のところへむこうと思っていた。けれど、つい言葉に引っかかってしまって聞き返すと、さっきまでは朗らかに笑ってしていた松前の皺の刻まれた顔が、はっきりと曇った。
話の流れとして、おそらく他にいたオメガの話も含まれているのだろうが、阿賀野が知っている限り、村にはオメガがいない。アルファが一人だけいたが、それも既に妻を亡くした村長で、あとは全員がベータだった。
知らない誰かの話だろうかと、思わず話に興味を示した阿賀野を察してか、松前はまあ座んなよ、と食堂の軒先に置かれたベンチの片側に座った。
「まずはそうだな、あの家の話からするか……」
空は近く、晴れやかな青に白い雲がたなびいている。
座り馴れた外国製の高級ソファなどではなく塗装の剥げかかった硬いベンチに浅く腰かけ、まだまばら程度の数しか地上にあがっていないセミの鳴き声を環境音にしながら、松前の話は時をさかのぼる。
山の奥にひっそりとたたずむ家と、それを取り囲む広い畑。
外界から隔離されたような真柴の家の成り立ちは、少ししゃがれた男の声で語られ始めた。
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