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しおりを挟む差し入れたナイフが、すっと柔らかく肉にささっていく。一口大に切り分けたそれを口に運ぶと、ミディアムレアのヒレ肉は舌の上で甘く融けた。
それほど咀嚼に気を遣わずとも、口の中でほろほろと崩れるそれを楽しむ阿賀野の前には、ぶちぶちと文句が止まらない諏訪園がいた。
「まったくさあ、あんたもいい大人なんだから、野菜のひとつやふたつ食べてみなさいよ。グラッセした人参なんて、幼稚園児でも食べられるわよ」
「グラッセしてようとしてまいと、人参である時点で俺は食う気になれない」
「ポテトは食べる癖に、なんなのよ。ああ本当、人生損してる。こんなに美味しい人参が食べられないなんて」
「俺が損してる分、誰かが食べられるだろ」
「ああ言えばこう言うって、あんたのことね」
「お互いさまにな」
「減らずぐちっ」
綺麗に焼かれたヒレ肉には、グラッセされて淡く蜜を纏ったような人参と、軽く揚げられた串切りのポテトが添えられている。ポテトは阿賀野でも食べられるが、人参のグラッセには一切触れておらず、残されてしまう運命のそれに、諏訪園は行儀悪く自分のフォークを刺した。
「で? あんたの家にこれだけ野菜があって、それも全部真柴ファームのもので、あんたが自分で買ったとも思えないんだけど、もしかして貰ったの?」
「いつも貰い物ばかりだからお返しだそうだ」
「貰い物……ああそうね、そういえばあんた、真柴ファームに通いづめてるのよね。ふふ、そんなにお気に召したの?」
ついさっきまでは口を尖らせていた癖に、新しい話題に楽しげに口をたわめる。いわゆるコイバナが大好物である諏訪園には、真柴の家に通っているなど教えてはいないが、おそらくは副島が漏らしてしまったか、須藤が話のタネにでもしたのだろう。
早速ばれていると苦虫を噛んだような気持ちにはなるが、それを顔に出さずに、口腔で崩れていく肉を嚥下した。
「お気に召すとか召さないとか、そういうものじゃない。彼は俺のオメガだ」
「そんなにわかるもんなの? あたしベータだからよくわかんないんだけど」
体格に恵まれ、派手な見た目と大成している能力ゆえにアルファと勘違いされることが多い諏訪園だが、生粋のベータだ。
ベータはオメガの発情期の匂いがわかる。あてられはするものの、アルファほどの強烈なものではなく、多少体が疼く程度だ。当たり前だが、アルファとオメガの間にある運命のつがいに類するものもないため、ベータにとってのオメガは個体差こそあれど、一様にオメガという存在でしかなかった。
「発情期の時は匂いわかるけどさ、それ以外の時もわかるもんなの? 運命のつがいとやらと、その他との違いとか」
「オメガの匂いはなんとなくわかる。ただ、運命のつがいは違う」
一瞬にして理性を乗っ取られるような、強烈な匂い。
これまでに嗅いだオメガの匂いをすべて覚えているわけではないが、すべてがその程度のものだ。
けれど、真柴の匂いは一生忘れないだろう。
今まで似たような形が適当にはまっては抜け落ちていっただけの空白に、まったく同じ密度、同じ形、同じ素材のものがぴったりとはまったような感覚だ。これ以上に適合するものはないし、もはや自分の一部と勘違いするほどだ。だからこそ、必ずしも手に入れなければという獣じみた本能が強く働いてしまうのだ。
「これは俺のものだって思うんだ」
「俺のものねえ……それなら、愛情を糧に野菜嫌いを克服してみなさいよ」
「それとこれとは別だ。野菜なんぞ食えなくても、サプリで補える。嫌いなものを無理して食べるより合理的だ」
「頑固もの」
「真柴ファームの野菜が欲しくないようだな」
「それとこれとは別よお」
軽口をたたきながら、匂いを思い出すだけで一瞬くすぶりかけた性欲を見なかったことにして、唐突な食事会は夜半が過ぎる前には終わった。
本当にいいのね、あたし持って帰っちゃうわよと散々聞きかえしながら、諏訪園は真柴からもらった全部の野菜を箱ごと持って帰った。
部屋には肉を焼いた匂いが残っている。さすがに真柴の匂いはせず、消臭スプレーを噴霧すると肉の匂いも消えた。
匂いさえ消えてしまえば、いつもの自宅だ。動線を考慮して合理的に家具が配置され、不要なものは置いていない。
真柴への執着も、同じものだと阿賀野は思っている。
匂いはすなわちアルファやベータ、オメガを縛る性徴のひとつであり、運命のつがいもその延長線上にあるものだ。運命だなんだと騒がれて珍重されるが、おそらくはそこに存在するのは、自分に一番適したオメガであるという遺伝子上の生存戦略に似た何かなのだろう。元から想いあった恋人同士で運命のつがいならばこの上ない幸運かもしれないが、そんな偶然はそれこそ稀なものだ。
だから、匂いさえなければ阿賀野は真柴をこれほどまでに追いかけまわして手中に収めようということはしないはずなのだ。
仕事にセーブをかけ、僅かなプライベートの時間を削り、セックスどころか接近すら許してくれない相手に往復五時間近くの時間を割いて菓子を運ぶ。阿賀野が今までに極力避けてきた、『非合理』に満ちた行動だらけだ。
「……馬鹿馬鹿しいな」
地位あるアルファでも、運命のつがいを伴侶としている人間は少ない。大体が見つけられず、それ以外の相手で手を打つ。それを責めるものはいないし、いかに身体能力やカリスマ性に恵まれたアルファでも、出来ないことはある。それは、阿賀野も理解している。
けれども、もう止まらないのだ。
匂いはなくなったし、彼からもらった野菜ももうない。
真柴要というオメガに関するものは何一つない、無臭で無機質な自分の家にいるというのに、どこからか真柴邸の周りを取り囲むように広がる畑の土の香りや、それも混じった真柴の匂いがしてくるような気がする。
しかも、それを探してしまう自分もいる。
悪い病にでもかかったような重苦しささえ感じる胸中を持て余して、阿賀野は溜まらずバスルームに飛び込んだ。そのままシャツもスラックスも脱ぎ捨てて、シャワーのカランをひねる。
非合理でも、不必要な行動でも、熱がこもってしまうのだ。
「……呪いじゃないか」
運命などと、ロマンチックじみた言葉で足りるようなものではない。
出逢えるならばと思っていたが、もはや公開すら僅かに滲むほど、真柴の匂いは阿賀野から理性を奪っていく。
タイプでもなければ理想でもない青年の土に汚れたシャツに包まれた裸体を想像して、まるで色恋など一つも知らない少年のように、阿賀野は忸怩たる思いを抱えながら、コバルトブルーのタイルに白い劣情を吐きつけた。
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