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第1章
第29話:不器用な問いかけ
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ヨハンが昨日までの冷酷な態度とは打って変わり、どこかぎこちない、硬い様子を隠しきれないまま一歩一歩近づいてくる。 「魔力封じの調整をかけ忘れた」などという、彼のような一国の精鋭を束ねる騎士が、それも大罪人を監視する立場の人間が、そんな初歩的で致命的なミスを犯すはずがないことくらい、今の僕にだって分かっていた。けれど、今の僕にはその真意を疑うだけの知性も、ましてや皮肉を言い返すための気力さえも、一欠片も残されてはいなかった。
「……そうですか。なら、よろしくお願いします」
僕は腕の中の動かないカラスを誰かに奪い取られないよう、本能的に庇うようにして胸元へ強く抱き寄せたまま、ゆっくりと彼に対して背を向けた。 無防備に晒された細いうなじ。そのすぐ背後に、ヨハンが放つ圧倒的な熱量を含んだ重圧な気配が迫る。一瞬、鋭い刃でも突き立てられるのではないかと身体が硬直した。
勝手な言動ばかりを繰り返し、領主の面目を潰し続けている僕を、彼は再び激しく咎めるだろうか。それとも、また腕の中のあの子を忌まわしい魔物だと、薄汚いゴミのように罵るのだろうか。 最悪の暴言を想定して身構える僕をよそに、ヨハンは無言のまま、僕の首を絞めつける鉄の首輪に大きな手をかけた。節くれ立った無骨な指先が、死人のように冷え切った僕の肌を不意にかすめる。
(……温かい。信じられないくらい、温かいんだ……)
皮肉なことに、昨日僕の心をあれほどまで無惨に傷つけたはずのその男の指先は、今の僕の全身のどこよりもずっと、生きている実感に満ちた熱を持っていた。 それが魔法をかけるための動作なのか、あるいは本当に何らかの物理的な調整をしているのか。ヨハンの手つきは、荒々しい彼の外見からは想像もつかないほど、驚くほど丁寧に、そして慎重に動いていた。
やがて、首輪の奥から伝わっていた不快な魔力の微かな脈動がスッと消え、周囲には重苦しい沈黙が訪れた。 用が済んだのであれば、冷徹な彼はすぐに僕を突き放して立ち去るはずだ。なのに、ヨハンは僕の背後に立ったまま、まるでその場に縫い付けられたかのように、じっと動かずに気配を留めていた。
不審に思った僕が、重い首を動かして肩越しに彼を恐る恐る振り返る。 ヨハンは、何か飲み込みがたい不快な言葉を必死に抑え込もうとするかのように、何度も何度も口を噤み、やがて喉の奥から絞り出すようにして、ひどく重たい口を開いた。
「……何か、不便なことはないか。……この生活で、足りないものがあるなら言え」
「え……?」
予想だにしなかった、あまりに不器用な問いかけに、僕は呆然として思考が停止した。
「不便なこと」なんて、挙げればキリがない。この冷たい塔での生活のすべてが、奪われることばかりの苦痛で満ちている。けれど、一介の大罪人であり、家畜同然の管理対象であるはずの僕に、本来なら憎しみしか抱いていないはずの管理者が、なぜそんなことを聞くのか。その理由が、僕にはどうしても理解できなかった。
僕は迷った末、昨夜の凍えるような暗闇の中で、ずっと喉元まで出かかっていた切実な悩みを、消え入るような声で打ち明けることにした。
「……火が、使えなくて……困っています。用意されていた火をつけられる道具は全て魔力が必要で…灯りも、暖を取る術も……何もないんです」
「何だと? 火だと……!?」
ヨハンの眉間に、岩を刻んだような深い皺が寄った。 そのあまりに凄まじい剣幕に、僕はまた自分の分を弁えない発言が彼の逆鱗に触れたのだと思い、恐怖で思わず首をすくめて身を縮めた。
「す、すみません! 余計なことを言いました……! 無理を言ってすみません……!」
「…責めたつもりはない 。貴様……火なしで、今までどうやってこの一か月を、この暗闇の中で生活していたというのだ」
ヨハンの声は、怒りというよりも、信じがたい現実を突きつけられたような驚愕に震えていた。 彼にとって、あるいはこの地を生きる住人にとって、火という恩恵の一切ない生活など、地獄以外の何物でもなく、想像することさえ不可能なことだったのかもしれない。
「……水で身体を拭いたり、固くなって凍ったパンをそのまま食べたりしていました……。」
僕が淡々と、もはやそれが当たり前であるかのように答えるほどに、ヨハンの顔色はみるみるうちに険しく、どす黒いものへと変わっていった。 彼はきっと、王都で猛威を振るい、強大な魔法を自在に操っていた頃の、傲慢で凶悪な姿のレリルしか知らなかったのだろう。魔法という牙をすべて取り上げられた今の僕が、これほどまでにか弱く、火種一つさえ熾せずに震え、飢えに喘いでいる存在だとは、今の今まで想像だにしていなかったに違いない。
「……分かった。明日にでも、魔導に頼らずとも火が使える方法を、早急に考えて準備させよう」
ヨハンはそれだけを、吐き捨てるような乱暴な口調で言い残すと、まるで何かに追われているかのような速さで、逃げるように塔から立ち去っていった。 一人残された僕は、ただ呆然と、彼が乱暴に閉めていった鉄の扉を、腕の中の小さな命を抱きしめたまま見つめ続けていた。
「……そうですか。なら、よろしくお願いします」
僕は腕の中の動かないカラスを誰かに奪い取られないよう、本能的に庇うようにして胸元へ強く抱き寄せたまま、ゆっくりと彼に対して背を向けた。 無防備に晒された細いうなじ。そのすぐ背後に、ヨハンが放つ圧倒的な熱量を含んだ重圧な気配が迫る。一瞬、鋭い刃でも突き立てられるのではないかと身体が硬直した。
勝手な言動ばかりを繰り返し、領主の面目を潰し続けている僕を、彼は再び激しく咎めるだろうか。それとも、また腕の中のあの子を忌まわしい魔物だと、薄汚いゴミのように罵るのだろうか。 最悪の暴言を想定して身構える僕をよそに、ヨハンは無言のまま、僕の首を絞めつける鉄の首輪に大きな手をかけた。節くれ立った無骨な指先が、死人のように冷え切った僕の肌を不意にかすめる。
(……温かい。信じられないくらい、温かいんだ……)
皮肉なことに、昨日僕の心をあれほどまで無惨に傷つけたはずのその男の指先は、今の僕の全身のどこよりもずっと、生きている実感に満ちた熱を持っていた。 それが魔法をかけるための動作なのか、あるいは本当に何らかの物理的な調整をしているのか。ヨハンの手つきは、荒々しい彼の外見からは想像もつかないほど、驚くほど丁寧に、そして慎重に動いていた。
やがて、首輪の奥から伝わっていた不快な魔力の微かな脈動がスッと消え、周囲には重苦しい沈黙が訪れた。 用が済んだのであれば、冷徹な彼はすぐに僕を突き放して立ち去るはずだ。なのに、ヨハンは僕の背後に立ったまま、まるでその場に縫い付けられたかのように、じっと動かずに気配を留めていた。
不審に思った僕が、重い首を動かして肩越しに彼を恐る恐る振り返る。 ヨハンは、何か飲み込みがたい不快な言葉を必死に抑え込もうとするかのように、何度も何度も口を噤み、やがて喉の奥から絞り出すようにして、ひどく重たい口を開いた。
「……何か、不便なことはないか。……この生活で、足りないものがあるなら言え」
「え……?」
予想だにしなかった、あまりに不器用な問いかけに、僕は呆然として思考が停止した。
「不便なこと」なんて、挙げればキリがない。この冷たい塔での生活のすべてが、奪われることばかりの苦痛で満ちている。けれど、一介の大罪人であり、家畜同然の管理対象であるはずの僕に、本来なら憎しみしか抱いていないはずの管理者が、なぜそんなことを聞くのか。その理由が、僕にはどうしても理解できなかった。
僕は迷った末、昨夜の凍えるような暗闇の中で、ずっと喉元まで出かかっていた切実な悩みを、消え入るような声で打ち明けることにした。
「……火が、使えなくて……困っています。用意されていた火をつけられる道具は全て魔力が必要で…灯りも、暖を取る術も……何もないんです」
「何だと? 火だと……!?」
ヨハンの眉間に、岩を刻んだような深い皺が寄った。 そのあまりに凄まじい剣幕に、僕はまた自分の分を弁えない発言が彼の逆鱗に触れたのだと思い、恐怖で思わず首をすくめて身を縮めた。
「す、すみません! 余計なことを言いました……! 無理を言ってすみません……!」
「…責めたつもりはない 。貴様……火なしで、今までどうやってこの一か月を、この暗闇の中で生活していたというのだ」
ヨハンの声は、怒りというよりも、信じがたい現実を突きつけられたような驚愕に震えていた。 彼にとって、あるいはこの地を生きる住人にとって、火という恩恵の一切ない生活など、地獄以外の何物でもなく、想像することさえ不可能なことだったのかもしれない。
「……水で身体を拭いたり、固くなって凍ったパンをそのまま食べたりしていました……。」
僕が淡々と、もはやそれが当たり前であるかのように答えるほどに、ヨハンの顔色はみるみるうちに険しく、どす黒いものへと変わっていった。 彼はきっと、王都で猛威を振るい、強大な魔法を自在に操っていた頃の、傲慢で凶悪な姿のレリルしか知らなかったのだろう。魔法という牙をすべて取り上げられた今の僕が、これほどまでにか弱く、火種一つさえ熾せずに震え、飢えに喘いでいる存在だとは、今の今まで想像だにしていなかったに違いない。
「……分かった。明日にでも、魔導に頼らずとも火が使える方法を、早急に考えて準備させよう」
ヨハンはそれだけを、吐き捨てるような乱暴な口調で言い残すと、まるで何かに追われているかのような速さで、逃げるように塔から立ち去っていった。 一人残された僕は、ただ呆然と、彼が乱暴に閉めていった鉄の扉を、腕の中の小さな命を抱きしめたまま見つめ続けていた。
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