虚ろな檻と翡翠の魔石

篠雨

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第1章

第31話:その名はレイブン

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 ヨハンが嵐のように慌ただしく去っていった後、主を失ったはずの塔の部屋には、暖炉の中で爆ぜる柔らかな火が静かに灯り続けていた。

 石造りの冷徹な壁に反射し、ゆらゆらと揺れるオレンジ色の光が、これまで死の匂いさえ漂っていた無機質な空間を、初めて「人の体温が通う場所」へと劇的に変えていく。僕は、ヨハンに叩き込まれた手順を反芻しながら、慎重に暖炉の前に厚手の毛布を広げ、その上に、いまだ深い眠りから覚めぬ小さなカラスを、壊れ物を扱うような手つきで運び込んだ。

「あったかいね……。昨日までの寒さが嘘みたいだよ。これならきっと、すぐによくなるから。大丈夫だよ……」

 心地よい温もりに包まれながら、僕はあの子の、濡れて固まっていた羽を一筋ずつ、指先で優しく撫で続けた。 どれくらいの時間が経っただろうか。静寂を支配するパチパチとはぜる薪の音に混じって、ごく僅かな、衣擦れのような羽ばたきの音が耳に届いた。

「……っ!」

 僕は息を呑んで視線を落とした。見ると、あの子がゆっくりと、ひどく重そうに瞼を持ち上げていた。 漆黒の瞳が、まだ焦点の合わぬ様子で不安げに周囲を見渡す。そして、すぐそばで見守っていた僕の姿を捉えた瞬間、すべてを理解したかのように安心した様子で「カァ……」と、小さく掠れた声で鳴いたのだ。

「よかった……! ああ、本当によかった……っ、生きててくれた……!」

 限界まで張り詰めていた心の緊張が、その短い一鳴きを聞いた瞬間に一気に決壊した。 僕はあの子を包み込むようにしてその場に泣き崩れ、溢れる涙を止めることができなかった。あの子は、まだ十分に力の入らない身体を引きずるようにして、僕の肩にそっと冷たい嘴を寄せ、すべてを預けるように寄り添ってくれた。その僅かな重みが、僕にとってはどんな宝物よりも尊く感じられた。

 この子は、死の恐怖に震える僕を助けようとして、その小さな身を挺して傷ついた。 僕もまた、この子を救いたい一心で、凍りつくような氷に縋り付き、無力な自分を呪いながら足掻き続けた。 もう、ただの種類としての「カラス」という呼び名だけでは、僕たちの間に生まれた絆を表すには到底足りない。僕たちの間には、魂を繋ぎ止めるための、確かな名前が必要なのだと強く思った。

 僕は零れる涙を拭い、あの子の澄んだ瞳をまっすぐに見つめて、祈るような心地で問いかけた。

「……名前を、つけてもいいかな?」

 カラスは、僕の言葉の意味を深く理解したかのように、一度だけ短く、肯定するように鳴いた。

「今日から、君の名前は『レイブン』だ。そして、僕はレリル。……よろしくね、レイブン」

 レイブン。 僕がいた元の世界の言葉で「渡りガラス」という意味を持つ響き。

 カラスにカラスという名前をつけるなんて、名付けのセンスがないと笑われるかもしれない。けれど、僕が無理やり押し付けられた新しい名前である「レリル」という不吉な響きに、どことなく似ているその音を、僕たちはこの過酷な運命を共に歩む二人で一つの存在なんだという、消えない印にしたかった。

 レイブンは、その名前がよほど気に入ったのか、それとも僕の想いを受け取ってくれたのか、誇らしげに細い胸を張り、今度は先ほどよりもずっと力強く、空に届くような声で鳴いてみせた。

「ありがとう。……これからよろしく、レイブン」

 パチパチと火の粉が舞い、薪が爆ぜる温かい暖炉の前。 呼べば答えてくれる、名前を呼び合えるかけがえのない存在ができたことで、僕の絶望に満ちた孤独な塔の生活は、本当の意味で終わりを告げた。

  僕とレイブン。一人と一羽が織りなす、誰にも邪魔されない新しい物語が、この場所から静かに始まるのだと。暗闇の中で美しく舞う火の粉を見つめながら、僕は確かな希望と共に、そう確信していた。
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