33 / 208
第1章
第32話:辺境伯の自問自答
しおりを挟む
塔での出来事が、己の想定を遥かに超えて胸の奥底を掻き乱している。執務室で書類を検分していても、演習場で部下を相手に大剣を振るっていても、ふとした瞬間にあの「レリル」の、全てを失ったような絶望の泣き顔が網膜の裏に鮮明に浮かび上がるのだ。
「……チッ、目障りな。実に目障りだ」
苛立ちと共に吐き捨てた言葉は、誰に届くこともなく虚空に消える。 あの大罪人レリルが、魔物に慈悲を乞うなどあり得ない。魔物はこの極北の安寧を脅かす「悪」であり、それを排除することに一点の曇りも迷いもないはずだった。だというのに、あの泥にまみれ、血を流しながらカラスを抱きしめていた男の姿を思い出すたび、俺の胸には名状しがたい、泥のように重く不快な感情が沈殿していく。
気づけば、翌日の昼下がり、俺は誰にも行き先を告げぬまま再び馬を走らせ、あの忌まわしい塔へと向かっていた。 あんな奴の様子など、徴収の日まで放置しておけばいい。だが、あの極限状態のまま死なれて、貴重な魔石の供給源を失っては困る――そんな、自分自身でも薄ら寒い嘘だと確信している理由を盾にして、俺は重い鉄扉を開けた。
一階へと降りてきたレリルの姿を視界に入れた瞬間、俺は思わず息を呑んだ。 陽の光さえ透かしそうなほどに青白い顔、今にも崩れ落ちそうなほどに弱々しく、頼りない足取り。
あの日、あのカラスの看病に没頭するあまり、一睡もせず、喉を通る食事すらまともに取っていないことは、そのやつれきった容貌から容易に察しがついた。
「……昨日、首輪に魔力封じの術をちゃんとかけないまま、出てきてしまったことに気づいた。再調整が必要だ。こっちへ来い」
喉の奥まで出かかった「身体は大丈夫なのか」という、柄にもない案じの言葉を強引に飲み込み、代わりに出たのは、我ながら呆れるほど支離滅裂な言い訳だった。 魔力封じの首輪は、一度嵌めれば永続的に機能する術式だ。元・王宮筆頭魔導師であるレリルほどの男が、これほどまでに稚拙で初歩的な嘘を見抜けないはずがない。
だが、彼は力なく、消え入るような声で「よろしくお願いします」とだけ答え、驚くほど素直に俺に背を向けた。 一切の抵抗の意志を見せず、死を待つ生贄のように細い首筋を無防備に晒す。その、驚くほど白く、儚い「うなじ」が目前に現れた瞬間、俺の心臓は自分でも制御できないほど大きく跳ねた。
ドクン、という不愉快なほどに力強い鼓動に激しい困惑を覚えながら、俺は何も不具合など起きていない首輪に、震えそうになる手を伸ばした。
冷たい鉄の感触。
そして、そのすぐ下にある、熱に浮かされたように熱い、奴の肌。 魔法をかけるふりをして、俺はただ、その細い首元で指先を迷わせるしかなかった。
「……チッ、目障りな。実に目障りだ」
苛立ちと共に吐き捨てた言葉は、誰に届くこともなく虚空に消える。 あの大罪人レリルが、魔物に慈悲を乞うなどあり得ない。魔物はこの極北の安寧を脅かす「悪」であり、それを排除することに一点の曇りも迷いもないはずだった。だというのに、あの泥にまみれ、血を流しながらカラスを抱きしめていた男の姿を思い出すたび、俺の胸には名状しがたい、泥のように重く不快な感情が沈殿していく。
気づけば、翌日の昼下がり、俺は誰にも行き先を告げぬまま再び馬を走らせ、あの忌まわしい塔へと向かっていた。 あんな奴の様子など、徴収の日まで放置しておけばいい。だが、あの極限状態のまま死なれて、貴重な魔石の供給源を失っては困る――そんな、自分自身でも薄ら寒い嘘だと確信している理由を盾にして、俺は重い鉄扉を開けた。
一階へと降りてきたレリルの姿を視界に入れた瞬間、俺は思わず息を呑んだ。 陽の光さえ透かしそうなほどに青白い顔、今にも崩れ落ちそうなほどに弱々しく、頼りない足取り。
あの日、あのカラスの看病に没頭するあまり、一睡もせず、喉を通る食事すらまともに取っていないことは、そのやつれきった容貌から容易に察しがついた。
「……昨日、首輪に魔力封じの術をちゃんとかけないまま、出てきてしまったことに気づいた。再調整が必要だ。こっちへ来い」
喉の奥まで出かかった「身体は大丈夫なのか」という、柄にもない案じの言葉を強引に飲み込み、代わりに出たのは、我ながら呆れるほど支離滅裂な言い訳だった。 魔力封じの首輪は、一度嵌めれば永続的に機能する術式だ。元・王宮筆頭魔導師であるレリルほどの男が、これほどまでに稚拙で初歩的な嘘を見抜けないはずがない。
だが、彼は力なく、消え入るような声で「よろしくお願いします」とだけ答え、驚くほど素直に俺に背を向けた。 一切の抵抗の意志を見せず、死を待つ生贄のように細い首筋を無防備に晒す。その、驚くほど白く、儚い「うなじ」が目前に現れた瞬間、俺の心臓は自分でも制御できないほど大きく跳ねた。
ドクン、という不愉快なほどに力強い鼓動に激しい困惑を覚えながら、俺は何も不具合など起きていない首輪に、震えそうになる手を伸ばした。
冷たい鉄の感触。
そして、そのすぐ下にある、熱に浮かされたように熱い、奴の肌。 魔法をかけるふりをして、俺はただ、その細い首元で指先を迷わせるしかなかった。
102
あなたにおすすめの小説
結婚初夜に相手が舌打ちして寝室出て行こうとした
紫
BL
十数年間続いた王国と帝国の戦争の終結と和平の形として、元敵国の皇帝と結婚することになったカイル。
実家にはもう帰ってくるなと言われるし、結婚相手は心底嫌そうに舌打ちしてくるし、マジ最悪ってところから始まる話。
オメガバースでオメガの立場が低い世界
こんなあらすじとタイトルですが、主人公が可哀そうって感じは全然ないです
強くたくましくメンタルがオリハルコンな主人公です
主人公は耐える我慢する許す許容するということがあんまり出来ない人間です
倫理観もちょっと薄いです
というか、他人の事を自分と同じ人間だと思ってない部分があります
※この主人公は受けです
すべてはあなたを守るため
高菜あやめ
BL
【天然超絶美形な王太子×妾のフリした護衛】 Y国の次期国王セレスタン王太子殿下の妾になるため、はるばるX国からやってきたロキ。だが妾とは表向きの姿で、その正体はY国政府の依頼で派遣された『雇われ』護衛だ。戴冠式を一か月後に控え、殿下をあらゆる刺客から守りぬかなくてはならない。しかしこの任務、殿下に素性を知られないことが条件で、そのため武器も取り上げられ、丸腰で護衛をするとか無茶な注文をされる。ロキははたして殿下を守りぬけるのか……愛情深い王太子殿下とポンコツ護衛のほのぼの切ないラブコメディです
転生したけどやり直す前に終わった【加筆版】
リトルグラス
BL
人生を無気力に無意味に生きた、負け組男がナーロッパ的世界観に転生した。
転生モノ小説を読みながら「俺だってやり直せるなら、今度こそ頑張るのにな」と、思いながら最期を迎えた前世を思い出し「今度は人生を成功させる」と転生した男、アイザックは子供時代から努力を重ねた。
しかし、アイザックは成人の直前で家族を処刑され、平民落ちにされ、すべてを失った状態で追放された。
ろくなチートもなく、あるのは子供時代の努力の結果だけ。ともに追放された子ども達を抱えてアイザックは南の港町を目指す──
***
第11回BL小説大賞にエントリーするために修正と加筆を加え、作者のつぶやきは削除しました。(23'10'20)
**
イケメンチート王子に転生した俺に待ち受けていたのは予想もしない試練でした
和泉臨音
BL
文武両道、容姿端麗な大国の第二皇子に転生したヴェルダードには黒髪黒目の婚約者エルレがいる。黒髪黒目は魔王になりやすいためこの世界では要注意人物として国家で保護する存在だが、元日本人のヴェルダードからすれば黒色など気にならない。努力家で真面目なエルレを幼い頃から純粋に愛しているのだが、最近ではなぜか二人の関係に壁を感じるようになった。
そんなある日、エルレの弟レイリーからエルレの不貞を告げられる。不安を感じたヴェルダードがエルレの屋敷に赴くと、屋敷から火の手があがっており……。
* 金髪青目イケメンチート転生者皇子 × 黒髪黒目平凡の魔力チート伯爵
* 一部流血シーンがあるので苦手な方はご注意ください
すべてを奪われた英雄は、
さいはて旅行社
BL
アスア王国の英雄ザット・ノーレンは仲間たちにすべてを奪われた。
隣国の神聖国グルシアの魔物大量発生でダンジョンに潜りラスボスの魔物も討伐できたが、そこで仲間に裏切られ黒い短剣で刺されてしまう。
それでも生き延びてダンジョンから生還したザット・ノーレンは神聖国グルシアで、王子と呼ばれる少年とその世話役のヴィンセントに出会う。
すべてを奪われた英雄が、自分や仲間だった者、これから出会う人々に向き合っていく物語。
神子の余分
朝山みどり
BL
ずっと自分をいじめていた男と一緒に異世界に召喚されたオオヤナギは、なんとか逃げ出した。
おまけながらも、それなりのチートがあるようで、冒険者として暮らしていく。
途中、長く中断致しましたが、完結できました。最後の部分を修正しております。よければ読み直してみて下さい。
【8話完結】いじめられっ子だった僕が、覚醒したら騎士団長に求愛されました
キノア9g
BL
いじめられ続けた僕は、ある日突然、異世界に転移した。
けれど、勇者として歓迎されたのは、僕を苦しめてきた“あいつ”の方。僕は無能と決めつけられ、誰からも相手にされなかった。
そんな僕に手を差し伸べてくれたのは、冷酷と恐れられる騎士団長・ジグルドだった。
なのに、あいつの命令で、僕は彼に嘘の告白をしてしまう――「ジグルドさんのことが、好きなんです」
それが、すべての始まりだった。
あの日から彼は、僕だけをまっすぐ見つめてくる。
僕を守る手は、やさしく、強くて、どこまでも真剣だった。
だけど僕には、まだ知られていない“力”がある。
過去の傷も、偽りの言葉も超えて、彼の隣にいてもいいのだろうか。
これは、いじめられっ子の僕が“愛されること”を知っていく、嘘と覚醒の物語。
全8話。
あと一度だけでもいいから君に会いたい
藤雪たすく
BL
異世界に転生し、冒険者ギルドの雑用係として働き始めてかれこれ10年ほど経つけれど……この世界のご飯は素材を生かしすぎている。
いまだ食事に馴染めず米が恋しすぎてしまった為、とある冒険者さんの事が気になって仕方がなくなってしまった。
もう一度あの人に会いたい。あと一度でもあの人と会いたい。
※他サイト投稿済み作品を改題、修正したものになります
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる