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「帰ってください。これ以上しつこくするなら、王宮に報告します」
私の言葉に、アランは苦しげに眉をひそめた。けれど、それでも彼の足は止まらない。
「……そんな目で俺を見るな、レティシア。お前は……俺にとって特別だったんだ」
よく言うわ。
あの瞬間、私を捨てたのは誰?
周囲の目におびえ、私の手を振り払ったその時点で、私たちの“絆”なんてものはとっくに断ち切られていた。
だから私は、もう振り向かない。
「アイザックさん、行きましょう。こんな人に、私の時間を使うのは無駄です」
「ああ、レティシア嬢。……俺の馬車で送ろう」
アランの顔が悔しげに歪んだのが、視界の端に見えた。
痛いほどの後悔。けれど、遅すぎる後悔に意味はない。
私の心はもう、別の誰かに向いていたのだから。
その日の夜、私は書斎で、アイザックと共に古地図を広げていた。
「……この地帯、見てください。昔は交易路があったのに、今はすっかり使われていないみたい」
「ここか。確かに、地理的には有利な位置にあるな。街道さえ整備すれば、王都と南部をつなぐ最短経路になる」
彼の指先が、私の指先に軽く触れた。ほんの一瞬だったけれど、胸が小さく跳ねたのを、私は隠せなかった。
(こんなことで、動揺するなんて)
けれど、私は今、心から思える。
私が王太子妃にならなくて、本当に良かった。
王宮という檻の中で、“理想の淑女”を演じ続ける人生よりも――こうして、自分の興味や夢に真剣に向き合える日々のほうが、何倍も尊く感じられる。
「……ねえ、アイザックさん。ひとつ、お願いがあるの」
「何だ?」
「私の領地の開発――一緒に、やってくれない?」
彼は目を見開き、それから、ゆっくりと口元に笑みを浮かべた。
「……面白くなってきたな。君となら、いいものが作れる気がする」
それから数日後、私はグランメル領へと旅立った。父から与えられた、南の小さな町。長らく放置されていたその地を、私は“再生させる”と決めたのだ。
屋敷は古く、町は寂れていた。けれど、私はわくわくしていた。
なにもないからこそ、自分の手で“新しい未来”を創れる――それがたまらなく楽しかった。
「水路がもう少し広がれば、農地の開発もできるはず。あとは、人材の確保ね……」
「職を求めて移住したがってる者は多い。王都にいる孤児たちや、失業した職人たちに声をかければ、協力者は見つかる」
アイザックは、静かに私を支えてくれる。
私の手が震えているときは、そっと支え、言葉がつまるときは、先回りして説明してくれた。
「……こんなに充実感のある日々なんて、想像もしてなかった」
ふと漏らした私の言葉に、彼は静かに頷く。
「君には、こういう未来が似合ってる。誰かの後ろじゃなく、自分の足で立ってる君が、一番魅力的だ」
「……お世辞でも、嬉しいわ」
「お世辞じゃない。本心だ」
不意に心臓が跳ねた。
目を合わせられなくて、私はわざと地図に視線を落としたけれど――頬が熱くなるのを止められなかった。
だが、そんな静かな日々は、またしても破られる。
「レティシア様、王都からの使者が……! アラン殿下がこちらへ向かっているとのことです!」
「……なんですって?」
あれほど「終わった」と言ったのに。
アランはまだ、私を追いかけてくる。
「この領地の再開発が、王宮に伝わったらしい。王太子妃として相応しかった、と声も上がってるそうだ」
「皮肉なものね。婚約破棄されて、やっと“価値”を見出されたなんて」
私の胸に、怒りと冷笑が同時に湧き上がる。
(結局、あの人は“成果”しか見ていない)
私という“人間”ではなく、役に立つかどうかで見ているだけ。
「アランがここに来ても、何も変わらないわ。私は彼を拒絶する。はっきりと」
アイザックは何も言わなかった。けれど、その視線は私を強く見つめていた。
三日後。
ついにアランは、護衛を連れてグランメル領を訪れた。
「レティシア! ここにいたのか……やっと会えた……!」
彼は息を荒げ、目の下に疲労の色を滲ませながらも、こちらに向かって手を伸ばしてきた。
「やり直そう。俺は……ずっと、お前を……」
私はその手を、ぴしゃりと振り払った。
「ここに来ないで。これはあなたの来る場所じゃない」
「……どうしてだ! お前は、王妃になる器だった。それは皆が認めている。俺だって――」
「“王妃”になるために努力してきたの。あなたのためじゃない。私自身の価値のために」
アランの顔から血の気が引いていく。
「私は、あなたの横に立つ未来を捨てたの。もう振り返らないって、何度言えばわかるの?」
「俺は……お前が、他の男と――」
「それが嫌なら、あのとき私を信じてくれればよかった」
私の言葉に、アランの目が見開かれた。
哀れさがにじむ表情。けれど、私はもう同情しない。
そのとき、背後からアイザックの姿が現れた。
「――この場所に、無断で踏み込むな。ここは、レティシア嬢の領地だ。彼女の許しなしに、誰も入ることはできない」
「貴様……またお前か!」
「俺は彼女の“共同開発者”であり、今や補佐官でもある。無礼は見逃せない」
アランの表情が歪んでいく。
「……貴様ごときが、彼女の隣に立てるとでも?」
「立てているよ、事実としてな」
アイザックの言葉に、アランはついに拳を握りしめた。
怒りと嫉妬に顔をゆがめながら、彼は叫んだ。
「お前は俺のものだったんだ……! あの夜まで、ずっと!」
――その瞬間、何かが音を立てて切れた。
私の中に残っていた、わずかな未練さえも。
「……そうね、あの夜までだったわ。今は、私自身の人生を歩いてる。だからもう、あなたは“過去”よ」
その言葉に、アランは崩れ落ちた。
私の言葉に、アランは苦しげに眉をひそめた。けれど、それでも彼の足は止まらない。
「……そんな目で俺を見るな、レティシア。お前は……俺にとって特別だったんだ」
よく言うわ。
あの瞬間、私を捨てたのは誰?
周囲の目におびえ、私の手を振り払ったその時点で、私たちの“絆”なんてものはとっくに断ち切られていた。
だから私は、もう振り向かない。
「アイザックさん、行きましょう。こんな人に、私の時間を使うのは無駄です」
「ああ、レティシア嬢。……俺の馬車で送ろう」
アランの顔が悔しげに歪んだのが、視界の端に見えた。
痛いほどの後悔。けれど、遅すぎる後悔に意味はない。
私の心はもう、別の誰かに向いていたのだから。
その日の夜、私は書斎で、アイザックと共に古地図を広げていた。
「……この地帯、見てください。昔は交易路があったのに、今はすっかり使われていないみたい」
「ここか。確かに、地理的には有利な位置にあるな。街道さえ整備すれば、王都と南部をつなぐ最短経路になる」
彼の指先が、私の指先に軽く触れた。ほんの一瞬だったけれど、胸が小さく跳ねたのを、私は隠せなかった。
(こんなことで、動揺するなんて)
けれど、私は今、心から思える。
私が王太子妃にならなくて、本当に良かった。
王宮という檻の中で、“理想の淑女”を演じ続ける人生よりも――こうして、自分の興味や夢に真剣に向き合える日々のほうが、何倍も尊く感じられる。
「……ねえ、アイザックさん。ひとつ、お願いがあるの」
「何だ?」
「私の領地の開発――一緒に、やってくれない?」
彼は目を見開き、それから、ゆっくりと口元に笑みを浮かべた。
「……面白くなってきたな。君となら、いいものが作れる気がする」
それから数日後、私はグランメル領へと旅立った。父から与えられた、南の小さな町。長らく放置されていたその地を、私は“再生させる”と決めたのだ。
屋敷は古く、町は寂れていた。けれど、私はわくわくしていた。
なにもないからこそ、自分の手で“新しい未来”を創れる――それがたまらなく楽しかった。
「水路がもう少し広がれば、農地の開発もできるはず。あとは、人材の確保ね……」
「職を求めて移住したがってる者は多い。王都にいる孤児たちや、失業した職人たちに声をかければ、協力者は見つかる」
アイザックは、静かに私を支えてくれる。
私の手が震えているときは、そっと支え、言葉がつまるときは、先回りして説明してくれた。
「……こんなに充実感のある日々なんて、想像もしてなかった」
ふと漏らした私の言葉に、彼は静かに頷く。
「君には、こういう未来が似合ってる。誰かの後ろじゃなく、自分の足で立ってる君が、一番魅力的だ」
「……お世辞でも、嬉しいわ」
「お世辞じゃない。本心だ」
不意に心臓が跳ねた。
目を合わせられなくて、私はわざと地図に視線を落としたけれど――頬が熱くなるのを止められなかった。
だが、そんな静かな日々は、またしても破られる。
「レティシア様、王都からの使者が……! アラン殿下がこちらへ向かっているとのことです!」
「……なんですって?」
あれほど「終わった」と言ったのに。
アランはまだ、私を追いかけてくる。
「この領地の再開発が、王宮に伝わったらしい。王太子妃として相応しかった、と声も上がってるそうだ」
「皮肉なものね。婚約破棄されて、やっと“価値”を見出されたなんて」
私の胸に、怒りと冷笑が同時に湧き上がる。
(結局、あの人は“成果”しか見ていない)
私という“人間”ではなく、役に立つかどうかで見ているだけ。
「アランがここに来ても、何も変わらないわ。私は彼を拒絶する。はっきりと」
アイザックは何も言わなかった。けれど、その視線は私を強く見つめていた。
三日後。
ついにアランは、護衛を連れてグランメル領を訪れた。
「レティシア! ここにいたのか……やっと会えた……!」
彼は息を荒げ、目の下に疲労の色を滲ませながらも、こちらに向かって手を伸ばしてきた。
「やり直そう。俺は……ずっと、お前を……」
私はその手を、ぴしゃりと振り払った。
「ここに来ないで。これはあなたの来る場所じゃない」
「……どうしてだ! お前は、王妃になる器だった。それは皆が認めている。俺だって――」
「“王妃”になるために努力してきたの。あなたのためじゃない。私自身の価値のために」
アランの顔から血の気が引いていく。
「私は、あなたの横に立つ未来を捨てたの。もう振り返らないって、何度言えばわかるの?」
「俺は……お前が、他の男と――」
「それが嫌なら、あのとき私を信じてくれればよかった」
私の言葉に、アランの目が見開かれた。
哀れさがにじむ表情。けれど、私はもう同情しない。
そのとき、背後からアイザックの姿が現れた。
「――この場所に、無断で踏み込むな。ここは、レティシア嬢の領地だ。彼女の許しなしに、誰も入ることはできない」
「貴様……またお前か!」
「俺は彼女の“共同開発者”であり、今や補佐官でもある。無礼は見逃せない」
アランの表情が歪んでいく。
「……貴様ごときが、彼女の隣に立てるとでも?」
「立てているよ、事実としてな」
アイザックの言葉に、アランはついに拳を握りしめた。
怒りと嫉妬に顔をゆがめながら、彼は叫んだ。
「お前は俺のものだったんだ……! あの夜まで、ずっと!」
――その瞬間、何かが音を立てて切れた。
私の中に残っていた、わずかな未練さえも。
「……そうね、あの夜までだったわ。今は、私自身の人生を歩いてる。だからもう、あなたは“過去”よ」
その言葉に、アランは崩れ落ちた。
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