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アランが去ったのは、夕方を少し過ぎた頃だった。
馬車に乗り込む直前、彼は振り返って、しつこく言った。
「俺は、あきらめない」
まるで執着だけで動いているようなその目に、私はもう何の感情も湧かなかった。ただ、厄介だという思いだけが残る。
「……面倒ね」
「同感だ」
隣でアイザックが吐息混じりに答えた。
「次は王宮から、正式な文書が来るかもしれない。『元婚約者』に対する特例扱い、という名目で」
「わたしを王都に戻そうとするの?」
「あり得る。アラン王太子の失策を補うために、外堀から固めるつもりだろう。君が王都に戻れば、あとは“再婚”を既成事実にするだけで済む」
冗談じゃない。
私はもう“誰かの妃”になるために生きてはいない。
私の人生は、私のもの。王宮のために捧げる気なんて、さらさらない。
「だったら、迎え撃つしかないわね」
私が笑うと、アイザックも口元をわずかにゆるめた。
「その覚悟があるなら、手を貸す」
「最初からそのつもりよ。あなたがいると、百人力だわ」
目を合わせると、アイザックの視線がわずかに揺れる。
「……褒めすぎだ」
「そうかしら?」
「褒められ慣れてないんだ、俺は。だから君に言われると……変に意識してしまう」
その言葉に、思わず心臓が跳ねた。
(変に意識って……それはつまり)
けれど、聞き返す勇気はなかった。
代わりに、私は視線を地図へと戻した。
次の日、王宮からの文が本当に届いた。
『王都での聴聞会への招致』『貴族院より事情聴取の必要』『グランメル領での急速な開発の合法性の確認』
名目こそ“形式的”だが、その意図は明白だった。
「……要するに、レティシア嬢を王都に連れ戻したいわけだな。あくまで“本人の意志”を無視して」
「“善意”を装ってね」
王族らしい姑息なやり方。都合の悪い真実を覆い隠して、体裁だけ整える。
アランにとっても、王家にとっても、私という“元婚約者”が勝手に成功している状況は、面白くないのだろう。
「なら、こちらも手を打つわ。王都には戻らない。むしろ、王宮に対抗できる“外部の後ろ盾”を見つける」
「心当たりは?」
「……ひとつだけ」
それは、亡き母の出身地。
ラングフォード公爵家――王家とは異なる系譜に連なる、自由都市連盟に連なる名家だ。
私は幼い頃、母の里帰りに付き添って、一度だけ訪れた記憶がある。
確か、ラングフォードの現当主は母の従兄。つまり、私にとっては叔父にあたる存在だ。
「もし、彼らの支援を取り付けられれば、王家にも強く出られるはず」
「リスクもあるが……価値はあるな」
私たちは、すぐにラングフォードへの使者を出す手配を始めた。
時間はかかる。けれど、動かなければ奪われるだけ。
それから数日。
町の整備は着々と進み、領民たちの間にも活気が戻ってきていた。
特に水路の再建が功を奏し、農作物の収穫予測が倍に跳ね上がったと聞いたとき、私は思わず手を叩いた。
「やったわ……!」
「君の見立て通りだ。今後も、農業と物流の両面で収益が見込める」
「ありがとう、アイザック。あなたのおかげよ」
「違う。君の判断と行動力の結果だ」
彼はそう言って、そっと微笑んだ。
気づけば、彼の笑顔を見るたびに、胸が苦しくなる。
それが“恋”だということに、私はもうとっくに気づいていた。
でも、口にはできない。
彼には彼の立場がある。私はいま、“王太子に捨てられた女”という肩書きを背負っているのだから。
そして――
その夜。
領内で、不審火が発生した。
火の手が上がったのは、先日建設したばかりの農業倉庫。大切な器具や、秋の種が保管されていた場所だ。
「誰が……!?」
私は夜着のまま駆けつけ、炎の中で立ち尽くすしかなかった。
幸い、火は早めに消し止められたが、被害は大きい。設備は半壊し、再建には時間と金がかかる。
「人為的な放火です」
現場検証に来た衛兵が、静かに告げた。
「松明の残骸と、王都の紙幣が数枚、落ちていました」
王都の紙幣?
それが意味するのは――
「……アラン……っ!」
思わず名前を吐き出していた。
偶然のはずがない。私を脅し、従わせるための“見せしめ”。
私の領地を荒らし、私の力を削ぎ落とすことで、逃げ場をなくすつもりだ。
最低だ。
本当に、最低な男。
「レティシア嬢、大丈夫か?」
声をかけてきたのは、アイザックだった。
彼の衣服には消火活動でできた泥が跳ねていた。目の下には疲労の色が濃く、けれど視線だけは、私を見つめる強さに満ちていた。
「……ごめんなさい。わたしのせいで」
「違う。君は悪くない。悪いのは、こんな卑怯な手を使って君を縛ろうとする連中だ」
アイザックは、私の肩を支えてくれた。
その温もりに、胸の奥がじんわりと熱くなる。
ふと、私は疑問を口にした。
「……ねえ、アイザックさん。どうして、そこまでしてくれるの?」
「それは――」
彼の答えが出る前に、ふたりの間に足音が差し込んできた。
「申し訳ありません! 新たに届いた文書が……王宮より直々に、“王太子殿下の訪問予定”が通達されました!」
また?
今度は、正式に“王家の名”を使ってくる気?
「こんなやり方、許さない……!」
怒りに震える私の背後で、アイザックの表情がわずかに陰った。
「……レティシア嬢。ひとつ、話しておかなければならないことがある」
「え?」
彼は静かに、けれど決然と口を開いた。
「俺の本名は――“イザーク・ルイス・フェルデン”。
フェルデン公爵家の次男だ」
――その名を、私は知っていた。
王家に並ぶ、名門中の名門。
長らく政治から距離を置いていた名家の、かつての次期当主候補。
「え……本当なの……?」
「本当だ。だが俺は、家を捨てた。表の政治とは距離を取り、現場で働く者として自分の力を試す道を選んだ」
なぜ、そんなことを今まで……
「君が“本気”で王家と向き合う覚悟を持った時、俺も全てを明かすと決めていた」
アイザック――イザークは、私の目を真っ直ぐに見て、言った。
「レティシア。君が本気で立ち向かうなら、俺も“本気”で支える。……それが俺の意思だ」
馬車に乗り込む直前、彼は振り返って、しつこく言った。
「俺は、あきらめない」
まるで執着だけで動いているようなその目に、私はもう何の感情も湧かなかった。ただ、厄介だという思いだけが残る。
「……面倒ね」
「同感だ」
隣でアイザックが吐息混じりに答えた。
「次は王宮から、正式な文書が来るかもしれない。『元婚約者』に対する特例扱い、という名目で」
「わたしを王都に戻そうとするの?」
「あり得る。アラン王太子の失策を補うために、外堀から固めるつもりだろう。君が王都に戻れば、あとは“再婚”を既成事実にするだけで済む」
冗談じゃない。
私はもう“誰かの妃”になるために生きてはいない。
私の人生は、私のもの。王宮のために捧げる気なんて、さらさらない。
「だったら、迎え撃つしかないわね」
私が笑うと、アイザックも口元をわずかにゆるめた。
「その覚悟があるなら、手を貸す」
「最初からそのつもりよ。あなたがいると、百人力だわ」
目を合わせると、アイザックの視線がわずかに揺れる。
「……褒めすぎだ」
「そうかしら?」
「褒められ慣れてないんだ、俺は。だから君に言われると……変に意識してしまう」
その言葉に、思わず心臓が跳ねた。
(変に意識って……それはつまり)
けれど、聞き返す勇気はなかった。
代わりに、私は視線を地図へと戻した。
次の日、王宮からの文が本当に届いた。
『王都での聴聞会への招致』『貴族院より事情聴取の必要』『グランメル領での急速な開発の合法性の確認』
名目こそ“形式的”だが、その意図は明白だった。
「……要するに、レティシア嬢を王都に連れ戻したいわけだな。あくまで“本人の意志”を無視して」
「“善意”を装ってね」
王族らしい姑息なやり方。都合の悪い真実を覆い隠して、体裁だけ整える。
アランにとっても、王家にとっても、私という“元婚約者”が勝手に成功している状況は、面白くないのだろう。
「なら、こちらも手を打つわ。王都には戻らない。むしろ、王宮に対抗できる“外部の後ろ盾”を見つける」
「心当たりは?」
「……ひとつだけ」
それは、亡き母の出身地。
ラングフォード公爵家――王家とは異なる系譜に連なる、自由都市連盟に連なる名家だ。
私は幼い頃、母の里帰りに付き添って、一度だけ訪れた記憶がある。
確か、ラングフォードの現当主は母の従兄。つまり、私にとっては叔父にあたる存在だ。
「もし、彼らの支援を取り付けられれば、王家にも強く出られるはず」
「リスクもあるが……価値はあるな」
私たちは、すぐにラングフォードへの使者を出す手配を始めた。
時間はかかる。けれど、動かなければ奪われるだけ。
それから数日。
町の整備は着々と進み、領民たちの間にも活気が戻ってきていた。
特に水路の再建が功を奏し、農作物の収穫予測が倍に跳ね上がったと聞いたとき、私は思わず手を叩いた。
「やったわ……!」
「君の見立て通りだ。今後も、農業と物流の両面で収益が見込める」
「ありがとう、アイザック。あなたのおかげよ」
「違う。君の判断と行動力の結果だ」
彼はそう言って、そっと微笑んだ。
気づけば、彼の笑顔を見るたびに、胸が苦しくなる。
それが“恋”だということに、私はもうとっくに気づいていた。
でも、口にはできない。
彼には彼の立場がある。私はいま、“王太子に捨てられた女”という肩書きを背負っているのだから。
そして――
その夜。
領内で、不審火が発生した。
火の手が上がったのは、先日建設したばかりの農業倉庫。大切な器具や、秋の種が保管されていた場所だ。
「誰が……!?」
私は夜着のまま駆けつけ、炎の中で立ち尽くすしかなかった。
幸い、火は早めに消し止められたが、被害は大きい。設備は半壊し、再建には時間と金がかかる。
「人為的な放火です」
現場検証に来た衛兵が、静かに告げた。
「松明の残骸と、王都の紙幣が数枚、落ちていました」
王都の紙幣?
それが意味するのは――
「……アラン……っ!」
思わず名前を吐き出していた。
偶然のはずがない。私を脅し、従わせるための“見せしめ”。
私の領地を荒らし、私の力を削ぎ落とすことで、逃げ場をなくすつもりだ。
最低だ。
本当に、最低な男。
「レティシア嬢、大丈夫か?」
声をかけてきたのは、アイザックだった。
彼の衣服には消火活動でできた泥が跳ねていた。目の下には疲労の色が濃く、けれど視線だけは、私を見つめる強さに満ちていた。
「……ごめんなさい。わたしのせいで」
「違う。君は悪くない。悪いのは、こんな卑怯な手を使って君を縛ろうとする連中だ」
アイザックは、私の肩を支えてくれた。
その温もりに、胸の奥がじんわりと熱くなる。
ふと、私は疑問を口にした。
「……ねえ、アイザックさん。どうして、そこまでしてくれるの?」
「それは――」
彼の答えが出る前に、ふたりの間に足音が差し込んできた。
「申し訳ありません! 新たに届いた文書が……王宮より直々に、“王太子殿下の訪問予定”が通達されました!」
また?
今度は、正式に“王家の名”を使ってくる気?
「こんなやり方、許さない……!」
怒りに震える私の背後で、アイザックの表情がわずかに陰った。
「……レティシア嬢。ひとつ、話しておかなければならないことがある」
「え?」
彼は静かに、けれど決然と口を開いた。
「俺の本名は――“イザーク・ルイス・フェルデン”。
フェルデン公爵家の次男だ」
――その名を、私は知っていた。
王家に並ぶ、名門中の名門。
長らく政治から距離を置いていた名家の、かつての次期当主候補。
「え……本当なの……?」
「本当だ。だが俺は、家を捨てた。表の政治とは距離を取り、現場で働く者として自分の力を試す道を選んだ」
なぜ、そんなことを今まで……
「君が“本気”で王家と向き合う覚悟を持った時、俺も全てを明かすと決めていた」
アイザック――イザークは、私の目を真っ直ぐに見て、言った。
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