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アラン王太子の訪問から三日後。私の屋敷には、まるで王都中が興味津々とでも言わんばかりに、招かれざる客がひっきりなしに現れていた。
「ごきげんよう、レティシア様。少しだけお時間を――」
「申し訳ありません、ただいまお嬢様は“療養中”ですので」
メルの冷ややかな切り返しに、来客の顔が強ばるのを窓越しに見て、私はくすりと笑った。
(ふふ、いい気味)
婚約破棄された女に、ここまで関心を寄せるなんて皮肉な話だけど――貴族社会なんてそんなもの。誰かが落ちれば、その跡地を漁ろうと群がる。
中には「慰めるふりをして近づいてくる」男もいたけれど……今さら私にそんな手が通じるわけもない。
「それにしても、アラン殿下……本当に来なくなりましたね」
「来ないほうがありがたいわ。もう会う価値もないもの」
あのとき、あの顔で、あの声で懇願してきたくせに――その直後、何の動きもないあたり、所詮は“プライドだけの男”というわけだ。
(私を選ばなかった代償は、高くつくわよ)
すべてを失ったふりをして、実は私はすでに次の道を歩き始めていた。
その日、私は隠れるようにして王都の書庫に向かっていた。
侯爵家の令嬢が、身分を隠して図書室に通うだなんて不思議に思うかもしれないけれど――実は私、昔から密かに**「領地経営」や「都市開発」**に興味があった。
けれど王太子の婚約者である限り、「将来は政務に関わるなんておこがましい」と押さえつけられていたから、こうしてやっと、自分の興味に触れることができるのだ。
「……ここにあったのね、この古い交易路の記録」
本を手に取った瞬間、背後から低く響く声が聞こえた。
「……珍しいな。この書庫に貴族が来るなんて」
その声に振り返ると、そこには――
「……あなたは?」
黒髪に琥珀色の瞳をもつ男が、こちらを興味深げに見下ろしていた。身なりは質素だが、姿勢や視線の鋭さは、ただ者ではない。
「ああ、俺はこの書庫の管理者のひとり。アイザックだ」
「……管理者?」
「とは名ばかりだけどな。古文書の保管と、修復作業をしてる。……君こそ、何者だ?」
その目はまっすぐで、嫌味もなく、ただ知的な興味に満ちていた。
(珍しいタイプ……)
私は軽く微笑み、答えた。
「……レティシア・グランメル。侯爵家の娘です。今は、ただの自由人ですが」
彼はほんの少しだけ目を見開いたが、すぐに興味を逸らさず、続きを促してきた。
「なるほど、あの“婚約破棄騒動”の……噂は耳にした」
「……ええ、まあ、あれは見世物でしたから」
「見世物か。それにしては、凛とした退場だったらしいじゃないか」
皮肉ではなく、本心からの賞賛だった。そう思えるだけで、少しだけ気が緩む。
「……それで、こんな本を探してる。領地でも始めるのか?」
「ふふ、いいえ。ただの趣味……でも、将来的には、そういう道も面白いかもしれませんわね」
「面白い女だな、君は」
その言葉に、胸が少しだけ熱くなった。
だって――婚約破棄のとき、アランが最後まで口にしなかった言葉だから。
(私は、誰かに“面白い”って思われたかった)
ただ王妃の器としてじゃなく、私自身を、ちゃんと見てくれる人に――
「……アイザックさん。あなたも、開発や経済に詳しいの?」
「少しくらいは。……というか、古文書の修復してると、嫌でも知識はつくよ」
「なら、いろいろ教えてくれないかしら。私、本気で勉強したいの」
彼は一瞬だけ目を細め、それから小さく笑った。
「……いいだろう。退屈しのぎにはちょうどいい」
その日から、私は毎日書庫に通った。アイザックは知識の泉のように何でも知っていて、私の素朴な疑問にもひとつひとつ丁寧に答えてくれる。
「……グランメル侯爵家の南側に、未開発の森林があるんだって? あれ、開拓すれば商路を伸ばせる」
「やっぱり、そう思う? 私も古地図を見てて気づいたのよ」
思考が噛み合うのが心地よかった。
彼は私に「侯爵令嬢だから」と気を遣うこともなく、でも敬意は忘れず接してくれる。――それがたまらなく嬉しかった。
その日の帰り道。メルが私の頬を見て、にやにやしながら言った。
「……お嬢様、最近よく笑うようになりましたね?」
「えっ、そうかしら?」
「アイザック様って人の話をするとき、すごく楽しそうです」
「……うっさいわよ」
私は顔をそむけた。けれど頬が熱くなるのを止められなかった。
(あの人……私を“レティシア”として見てくれてる)
ところが――平穏は、長くは続かなかった。
「レティシア! また、会ってくれないか!」
屋敷の門前に、再びあの男が現れたのだ。
アラン・エヴァンジェル王太子。
彼は、前よりも明らかにやつれていた。髪は乱れ、目の下には薄く影がある。
「頼む……あのとき、言えなかった言葉があるんだ」
「……言わなくていいわ。今さら何を言っても無駄よ」
「それでも……! お前のことが……好きだった。ずっと、気づいていたんだ」
馬鹿な――。
「じゃあ、なぜあの場で私を守らなかったの?」
「……守ろうとした。けど、リリィの涙に惑わされて……周囲の声に……」
「結局、私より“立場”を選んだのよ。あのときのあなたが、あなたの本質よ」
「……それでも、やり直したいんだ」
「無理よ。私はもう、別の未来を歩き始めたの」
私の背中越しに、別の男の影が現れたのは、偶然だろうか。
「こんなところで何をしている。レティシア嬢を困らせるな」
低く落ち着いた声に、アランがぎょっと顔を上げる。
「……誰だ、貴様は」
「アイザック。彼女の、友人だ」
“友人”。けれどその言葉の響きには、静かに燃える何かがあった。
私の胸の奥が、ふっと熱くなる。
(ああ、そうか。私はもう――)
この人の隣にいたいと思ってるのかもしれない。
「ごきげんよう、レティシア様。少しだけお時間を――」
「申し訳ありません、ただいまお嬢様は“療養中”ですので」
メルの冷ややかな切り返しに、来客の顔が強ばるのを窓越しに見て、私はくすりと笑った。
(ふふ、いい気味)
婚約破棄された女に、ここまで関心を寄せるなんて皮肉な話だけど――貴族社会なんてそんなもの。誰かが落ちれば、その跡地を漁ろうと群がる。
中には「慰めるふりをして近づいてくる」男もいたけれど……今さら私にそんな手が通じるわけもない。
「それにしても、アラン殿下……本当に来なくなりましたね」
「来ないほうがありがたいわ。もう会う価値もないもの」
あのとき、あの顔で、あの声で懇願してきたくせに――その直後、何の動きもないあたり、所詮は“プライドだけの男”というわけだ。
(私を選ばなかった代償は、高くつくわよ)
すべてを失ったふりをして、実は私はすでに次の道を歩き始めていた。
その日、私は隠れるようにして王都の書庫に向かっていた。
侯爵家の令嬢が、身分を隠して図書室に通うだなんて不思議に思うかもしれないけれど――実は私、昔から密かに**「領地経営」や「都市開発」**に興味があった。
けれど王太子の婚約者である限り、「将来は政務に関わるなんておこがましい」と押さえつけられていたから、こうしてやっと、自分の興味に触れることができるのだ。
「……ここにあったのね、この古い交易路の記録」
本を手に取った瞬間、背後から低く響く声が聞こえた。
「……珍しいな。この書庫に貴族が来るなんて」
その声に振り返ると、そこには――
「……あなたは?」
黒髪に琥珀色の瞳をもつ男が、こちらを興味深げに見下ろしていた。身なりは質素だが、姿勢や視線の鋭さは、ただ者ではない。
「ああ、俺はこの書庫の管理者のひとり。アイザックだ」
「……管理者?」
「とは名ばかりだけどな。古文書の保管と、修復作業をしてる。……君こそ、何者だ?」
その目はまっすぐで、嫌味もなく、ただ知的な興味に満ちていた。
(珍しいタイプ……)
私は軽く微笑み、答えた。
「……レティシア・グランメル。侯爵家の娘です。今は、ただの自由人ですが」
彼はほんの少しだけ目を見開いたが、すぐに興味を逸らさず、続きを促してきた。
「なるほど、あの“婚約破棄騒動”の……噂は耳にした」
「……ええ、まあ、あれは見世物でしたから」
「見世物か。それにしては、凛とした退場だったらしいじゃないか」
皮肉ではなく、本心からの賞賛だった。そう思えるだけで、少しだけ気が緩む。
「……それで、こんな本を探してる。領地でも始めるのか?」
「ふふ、いいえ。ただの趣味……でも、将来的には、そういう道も面白いかもしれませんわね」
「面白い女だな、君は」
その言葉に、胸が少しだけ熱くなった。
だって――婚約破棄のとき、アランが最後まで口にしなかった言葉だから。
(私は、誰かに“面白い”って思われたかった)
ただ王妃の器としてじゃなく、私自身を、ちゃんと見てくれる人に――
「……アイザックさん。あなたも、開発や経済に詳しいの?」
「少しくらいは。……というか、古文書の修復してると、嫌でも知識はつくよ」
「なら、いろいろ教えてくれないかしら。私、本気で勉強したいの」
彼は一瞬だけ目を細め、それから小さく笑った。
「……いいだろう。退屈しのぎにはちょうどいい」
その日から、私は毎日書庫に通った。アイザックは知識の泉のように何でも知っていて、私の素朴な疑問にもひとつひとつ丁寧に答えてくれる。
「……グランメル侯爵家の南側に、未開発の森林があるんだって? あれ、開拓すれば商路を伸ばせる」
「やっぱり、そう思う? 私も古地図を見てて気づいたのよ」
思考が噛み合うのが心地よかった。
彼は私に「侯爵令嬢だから」と気を遣うこともなく、でも敬意は忘れず接してくれる。――それがたまらなく嬉しかった。
その日の帰り道。メルが私の頬を見て、にやにやしながら言った。
「……お嬢様、最近よく笑うようになりましたね?」
「えっ、そうかしら?」
「アイザック様って人の話をするとき、すごく楽しそうです」
「……うっさいわよ」
私は顔をそむけた。けれど頬が熱くなるのを止められなかった。
(あの人……私を“レティシア”として見てくれてる)
ところが――平穏は、長くは続かなかった。
「レティシア! また、会ってくれないか!」
屋敷の門前に、再びあの男が現れたのだ。
アラン・エヴァンジェル王太子。
彼は、前よりも明らかにやつれていた。髪は乱れ、目の下には薄く影がある。
「頼む……あのとき、言えなかった言葉があるんだ」
「……言わなくていいわ。今さら何を言っても無駄よ」
「それでも……! お前のことが……好きだった。ずっと、気づいていたんだ」
馬鹿な――。
「じゃあ、なぜあの場で私を守らなかったの?」
「……守ろうとした。けど、リリィの涙に惑わされて……周囲の声に……」
「結局、私より“立場”を選んだのよ。あのときのあなたが、あなたの本質よ」
「……それでも、やり直したいんだ」
「無理よ。私はもう、別の未来を歩き始めたの」
私の背中越しに、別の男の影が現れたのは、偶然だろうか。
「こんなところで何をしている。レティシア嬢を困らせるな」
低く落ち着いた声に、アランがぎょっと顔を上げる。
「……誰だ、貴様は」
「アイザック。彼女の、友人だ」
“友人”。けれどその言葉の響きには、静かに燃える何かがあった。
私の胸の奥が、ふっと熱くなる。
(ああ、そうか。私はもう――)
この人の隣にいたいと思ってるのかもしれない。
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