「お前との婚約はなかったことに」と言われたので、全財産持って逃げました

ほーみ

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 潮風の香りがする。

 王都では感じたことのない、塩気を含んだ湿った風。騎士団や宮廷の監視が及ばない、ここリューデン王国の港町ベリスは、自由と混沌が入り混じる街だ。

 私はその空気を肺いっぱいに吸い込むと、小さく笑った。

「いい風ね……今日は儲かりそうだわ」

 


 

 港にほど近い市街地の一角。私は小さな店舗物件を購入し、「エル商会」と名乗ることにした。

 名義はすべて私個人。運営も人脈もゼロからのスタートだったが、金があればなんとかなるのがこの街の良いところ。

 店の看板を掲げた日、さっそく港の仲買人や商人が噂を聞きつけて訪れてきた。

「……ミス・リナ、あんた王都で相当やり手だったって話じゃねえか。なんでこんなとこに?」

「婚約を破棄されて、逃げてきただけよ」

「はは、冗談が上手い!」

 笑われるが、それでいい。真実を信じる者などいないほうが都合が良い。私は地道に、そして確実に根を張っていく。

 

 エル商会が最初に扱ったのは、「レア香辛料」。

 小国ヒュルタから独自ルートで仕入れた乾燥香辛料を、港町の料理人や上流階級向けに売り出すというもの。手始めに仕入れた量は少ないが、品質は王都御用達レベル。数日で完売した。

「やはり、質が物を言うのね」

 噂はすぐに広まる。特にベリスは貿易都市ゆえ、珍しいものへの反応が早い。

 私は次の一手として、地元の鉱石と工芸品の輸出に目をつけた。地元職人たちと交渉し、商品を一括で買い取る代わりにブランド化と流通管理を申し出る。

「金を出すだけじゃなく、ちゃんと価値を上げてくれるなら、乗ってやるよ」

 老舗の職人たちは渋ったが、私が出した試作品と販路計画を見て、頷いた。

 こうしてエル商会は、わずか一月で市街地でも名の知れた存在となった。

 

 

 そんなある日——

「……あんたが“レイナ・エルンスト”か?」

 男の声がした。

 帳簿をつけていた私が顔を上げると、そこには異様な存在感を放つ男が立っていた。

 黒髪に鋭い灰色の目。粗野な服装ながら、身のこなしは明らかに一般人ではない。

「……どちらさまで?」

「名乗る前にそっちが名乗るべきだろ」

 男は私の机の上に、一枚の肖像画を叩きつけた。

 それは——王都時代の私の姿だった。

「……」

「王都から来た情報だ。あんた、王太子の元婚約者だろ。全財産持って逃げたって噂の」

 私は一瞬だけ、表情を止めたが、すぐに笑みを浮かべた。

「王都の噂なんて、当てにならないわ。よくあるでしょ? 身に覚えのない噂話って」

「……嘘がうまいな。だが俺は、**“追う側”**だ。証拠がある限り、逃がす気はない」

 私は椅子から静かに立ち上がると、男の前に一歩踏み出した。

「追って何になるの? 私は何も盗んでない。すべては“名義”上、私のもの。訴えたければ、正規の裁判でも開いてもらって構わないわ」

「そのつもりだ。だが……」

 男の目が細くなる。

「それだけじゃない。“王太子”が今、お前の行方を血眼で探してる。莫大な損失と信用の崩壊。彼はそれをすべて“お前のせい”にしようとしている」

 ……そう来たか。

 私は微笑を崩さず、カウンター越しに目線を合わせる。

「それで、あなたは? 王太子の命令で私を連れ戻しに?」

「違う」

 男はふっと笑った。その笑みは不思議と冷たくなかった。

「俺は、王太子が嫌いなんだ。あんな傲慢な貴族野郎が、自分の失敗を女に擦り付けようとしてるのが気に食わない」

「……じゃあ、なぜここに?」

「興味があるんだよ。全財産抱えて逃げた女に。王都を裏切り、法を逆手に取り、しかも堂々と“商会”を構えてる」

 男は前のめりになり、こう言った。

「——なあ。俺と組まないか?」

 私は思わず目を見張った。

「組む?」

「ああ。俺の名前はカイル。元・王国騎士団所属、今はフリーの“情報屋”だ。俺の持つ情報とコネクション、あんたの商才が合わされば——王都なんか一撃でひっくり返せる」

 


 

 数分後。

 私はカイルに、地図と帳簿の一部を見せていた。

「ここに鉱山があるわ。王都では“採掘不能”とされたけど、実は技術次第で採れる。精錬ルートもすでに確保済みよ」

「こりゃ……本気でやるつもりだな」

「ええ。私はただ逃げた女じゃない。——“王都に復讐するための準備”をしてる女なの」

 私の目は真っすぐカイルを見つめていた。
 王太子との婚約も、王都での立場も、すべては過去のもの。
 私は自由の女として、そしてこれから“王太子の逆鱗”に触れる商人として、歩き出す。

「どう? 一緒に地獄を見に行かない?」

 カイルは目を細め、そして口元を歪めた。

「上等だ。乗った」

 

 ——エル商会は、ここに正式な“裏の顔”を持った。

 



 

 一方その頃、王都——

「なぜレイナの居場所が、まだ掴めぬのだ!」

 エドワルド王太子は玉座の間で吼えていた。

「王都銀行も、貴族評議会も、すべてあの女に手玉に取られたというのか!?」

「殿下……彼女は、恐ろしく頭が切れます。しかも今、隣国で“商会”を開いているとの情報も……」

「商会、だと……?」

「もはや、ただの令嬢ではありません。国際的な商人としての顔が広まりつつあります」

 エドワルドは、拳を強く握った。

「レイナ……僕を裏切ったこと、絶対に後悔させてやる……!」

 その目に浮かぶのは、恋心ではない。
 怒りと支配欲、そして失ったものへの嫉妬。

 だが、彼はまだ気づいていない。

 その思いこそが、彼自身の“破滅”を引き寄せることになると——。
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