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2 残酷な現実
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ぼんやりと揺らつく意識の中、クリフォードは目を開こうとした。が、うまく開けられない。
自分がどこにいるのか、何をしているのか。それさえも、思考が追い付かないでいた。
徐々に覚醒していく意識の中で、足先に嫌悪感を覚えた。痛いのに遠い、自分の足ではないような鈍さ。重い毛布の下で何かが分厚く巻かれているのが分かる。濡れた布と薬と、血の匂いが混じっていた。
声を出そうとしても、喉に力が入らず、擦れるだけで音にならない。四肢が重く、胃の中がぐるぐると気持ちが悪い。
次にクリフォードを襲ったのは、身体の節々が軋むような痛み。それが走ると同時に、口から小さな呻き声が漏れ出た。
「目が覚めたか」
横から、男の太いしっかりとした声が、耳に入ってきた。
声のする方へ視線を向けると、白衣の年配の男が立っている。腕まくりした前腕には、古そうで大きな火傷らしき跡が見える。服装からして、治療師なのだろう。ここは治療院なのだと、そこでようやく理解した。
どれくらい眠っていたのか。なぜ自分がここに居るのか。
そう思った途端、脳内を駆け巡ったのは、一人の女性のこと。
「おっ……お嬢、さま、は」
やっと漏れた声は、しゃがれていてうまく発音ができていない。
ここに自分が居ると言うことは、キャローナお嬢様はどうなったのだ?
二人で終わったはずだった。抱き合い、そのまま凍っていくはずだったのに。
寝台の上から視線を巡らせ見ると、彼女の存在がその部屋の中には見当たらない。
ああ、でも……彼女はきっと、邸宅へ戻ったのか? そう思った。
だが、クリフォードの顔を見たまま、治療師は一瞬、目を伏せた。
「……連れの娘は」
クリフォードは上体を起こそうとした。足に鋭い痛みが走り、視界が歪む。
「動くな」
治療師に、肩を押さえつけられ、元の位置へと倒された。
「凍傷だ。足の指が壊死しかけている。三日間、ほぼ意識がなかった。朦朧としている時間もあったが……覚えてないか?」
三日も? そう言われても、何もかもが繋がらないし、記憶もない。
「雪崩れの斜面で見つかったんだ。村の者が慌てて、担いで運んできた。息があったのはお前だけだ」
「は?」
ガサガサな吐息が、思わず吐き出る。
お前だけ。
お前だけだ。
その言葉の意味が、理解できない。
どういうことなんだ? お嬢様は……キャローナ様は、邸宅へ戻られてってことなのか?
思考が全く纏まらないクリフォードの前に、椀を差し出され、水を少しずつゆっくりと流し込まれる。喉が裂けるように痛む。それでも条件反射のように、飲み込んでゆく。口の横から零れ落ちる水を拭うこともせず、身体の反応とは別に、思考はキャローナのことしか考えられなかった。
「……お嬢様は」
治療師は答えない。返事のなさが、部屋の空気を重く、淀んだものにしていった。
「息は、なかった」
そう、治療師が言葉を落とした途端、クリフォードの視界が真っ白に弾けた。
あの日の雪の音、寒さ、痛さの感覚が再び全身を駆け巡る。
「嘘だ…。……嘘だ……息がなかった? 今は、息があるの……か?」
何がどうなっているのか、理解が追い付かない。
クリフォードが混乱している中、部屋の扉が軋み開いた。雪で濡れた外套を叩きながら、体躯のしっかりとした大柄な男が一人入ってきた。
「……ヨハン……?」
それは、クリフォードの幼馴染だった。仕える邸宅の近隣にある小さな町で、子供の頃から日々を共に過ごした親友。彼もまた、領主の元で奉公している身だった。穏やかな気質で、声を荒げたことはクリフォードが知ってる限り一度もない。だが目の前にいる友の顔は、今まで見たことのない硬さで強張っていた。
「目を覚ましたか。生きてて……本当によかった」
クリフォードが、ヨハンと呼んだその男の声には、深い安堵が滲んでいた。
「……お嬢様は」
ヨハンは顔を伏せ、クリフォードが横たえられた寝台横の木椅子に腰かけると、ゆっくり首を振った。
「葬儀は今朝、済んだ」
それだけだった。
ヨハンのその報告は淡々としているのに、現実味がまるでない。
耳に入ってくるのに、するすると抜け落ちてゆく。
だが少しずつ、言葉の意味が脳内で組み立っていくにつれ、身体の機能が抜けていく感覚になる。そして、呼吸はしているが、胸の内も思考も表情も、全てが空っぽになった。
彼の中で世界が、完全に割れて壊れてしまった。
ヨハンは静かに、傍の木机の上に布袋を置いた。ジャリッと鈍く重い音がする。
「寝てる三日の間に、お前に必要なものは揃えた」
「……なんで」
クリフォードの声が、低く掠れる。
「生きるためだ。俺たちが、廃部屋の床下に隠してた金、それを持ってきた。お互い何かあった時は、それを出そうって約束してただろう? それだ。それと」
ヨハンは横で立っていた治療師の方へ、視線を向けた。
「ここで診てもらえるよう頼んで置いた。お前のその足は、どうなるかはまだ分からん。ここに連れ込まれたときは、壊死寸前だった」
治療師はその言葉に大きく頷いた。
ヨハンは、視線をクリフォードに戻し、話を続ける。
「いいか? ……邸へは行くな。今の足じゃ歩けないだろうし、外に出れば凍えて終わりだ」
そこまで言い、クリフォードの肩にその大きな手を置いた。真っ直ぐに、クリフォードを見つめて吐いた声は、短く力強いものだった。
「生きろ。生きて、忘れるな。雪の厳しさと、お前が生かされたことを」
ヨハンの言葉に、クリフォードは目を閉じた。瞼の裏に、雪の白が浮かぶ。
『私のこと、忘れないで』
最後の声がまだ、耳の中で脈打っている。
雪の中で終わるはずだった時間は、まだ刻み続けている。
それが無常にも、罰のようにも、クリフォードに思えた。
自分一人だけが残され、白の中で儚く舞い散った、美しい人が居ないこの世界。
外では雷が鳴り始めていた。
窓の隙間から淡い光が差し込んではいるが、これから空は荒れ、吹雪になるのだろう。
世界はこちらのことなどお構いなしに、知らん顔で未だ続いている。
「……分かった」
クリフォードはもう、それしか言わなかった。
それから暫く、魂が抜け落ちたような、茫然とした時間が過ぎていく。
風が唸り、窓を鳴らし始めた頃。
やっと、喉元から込み上げてくる苦しい嗚咽と、目元から溢れる涙が、クリフォードを責めた。
自分がどこにいるのか、何をしているのか。それさえも、思考が追い付かないでいた。
徐々に覚醒していく意識の中で、足先に嫌悪感を覚えた。痛いのに遠い、自分の足ではないような鈍さ。重い毛布の下で何かが分厚く巻かれているのが分かる。濡れた布と薬と、血の匂いが混じっていた。
声を出そうとしても、喉に力が入らず、擦れるだけで音にならない。四肢が重く、胃の中がぐるぐると気持ちが悪い。
次にクリフォードを襲ったのは、身体の節々が軋むような痛み。それが走ると同時に、口から小さな呻き声が漏れ出た。
「目が覚めたか」
横から、男の太いしっかりとした声が、耳に入ってきた。
声のする方へ視線を向けると、白衣の年配の男が立っている。腕まくりした前腕には、古そうで大きな火傷らしき跡が見える。服装からして、治療師なのだろう。ここは治療院なのだと、そこでようやく理解した。
どれくらい眠っていたのか。なぜ自分がここに居るのか。
そう思った途端、脳内を駆け巡ったのは、一人の女性のこと。
「おっ……お嬢、さま、は」
やっと漏れた声は、しゃがれていてうまく発音ができていない。
ここに自分が居ると言うことは、キャローナお嬢様はどうなったのだ?
二人で終わったはずだった。抱き合い、そのまま凍っていくはずだったのに。
寝台の上から視線を巡らせ見ると、彼女の存在がその部屋の中には見当たらない。
ああ、でも……彼女はきっと、邸宅へ戻ったのか? そう思った。
だが、クリフォードの顔を見たまま、治療師は一瞬、目を伏せた。
「……連れの娘は」
クリフォードは上体を起こそうとした。足に鋭い痛みが走り、視界が歪む。
「動くな」
治療師に、肩を押さえつけられ、元の位置へと倒された。
「凍傷だ。足の指が壊死しかけている。三日間、ほぼ意識がなかった。朦朧としている時間もあったが……覚えてないか?」
三日も? そう言われても、何もかもが繋がらないし、記憶もない。
「雪崩れの斜面で見つかったんだ。村の者が慌てて、担いで運んできた。息があったのはお前だけだ」
「は?」
ガサガサな吐息が、思わず吐き出る。
お前だけ。
お前だけだ。
その言葉の意味が、理解できない。
どういうことなんだ? お嬢様は……キャローナ様は、邸宅へ戻られてってことなのか?
思考が全く纏まらないクリフォードの前に、椀を差し出され、水を少しずつゆっくりと流し込まれる。喉が裂けるように痛む。それでも条件反射のように、飲み込んでゆく。口の横から零れ落ちる水を拭うこともせず、身体の反応とは別に、思考はキャローナのことしか考えられなかった。
「……お嬢様は」
治療師は答えない。返事のなさが、部屋の空気を重く、淀んだものにしていった。
「息は、なかった」
そう、治療師が言葉を落とした途端、クリフォードの視界が真っ白に弾けた。
あの日の雪の音、寒さ、痛さの感覚が再び全身を駆け巡る。
「嘘だ…。……嘘だ……息がなかった? 今は、息があるの……か?」
何がどうなっているのか、理解が追い付かない。
クリフォードが混乱している中、部屋の扉が軋み開いた。雪で濡れた外套を叩きながら、体躯のしっかりとした大柄な男が一人入ってきた。
「……ヨハン……?」
それは、クリフォードの幼馴染だった。仕える邸宅の近隣にある小さな町で、子供の頃から日々を共に過ごした親友。彼もまた、領主の元で奉公している身だった。穏やかな気質で、声を荒げたことはクリフォードが知ってる限り一度もない。だが目の前にいる友の顔は、今まで見たことのない硬さで強張っていた。
「目を覚ましたか。生きてて……本当によかった」
クリフォードが、ヨハンと呼んだその男の声には、深い安堵が滲んでいた。
「……お嬢様は」
ヨハンは顔を伏せ、クリフォードが横たえられた寝台横の木椅子に腰かけると、ゆっくり首を振った。
「葬儀は今朝、済んだ」
それだけだった。
ヨハンのその報告は淡々としているのに、現実味がまるでない。
耳に入ってくるのに、するすると抜け落ちてゆく。
だが少しずつ、言葉の意味が脳内で組み立っていくにつれ、身体の機能が抜けていく感覚になる。そして、呼吸はしているが、胸の内も思考も表情も、全てが空っぽになった。
彼の中で世界が、完全に割れて壊れてしまった。
ヨハンは静かに、傍の木机の上に布袋を置いた。ジャリッと鈍く重い音がする。
「寝てる三日の間に、お前に必要なものは揃えた」
「……なんで」
クリフォードの声が、低く掠れる。
「生きるためだ。俺たちが、廃部屋の床下に隠してた金、それを持ってきた。お互い何かあった時は、それを出そうって約束してただろう? それだ。それと」
ヨハンは横で立っていた治療師の方へ、視線を向けた。
「ここで診てもらえるよう頼んで置いた。お前のその足は、どうなるかはまだ分からん。ここに連れ込まれたときは、壊死寸前だった」
治療師はその言葉に大きく頷いた。
ヨハンは、視線をクリフォードに戻し、話を続ける。
「いいか? ……邸へは行くな。今の足じゃ歩けないだろうし、外に出れば凍えて終わりだ」
そこまで言い、クリフォードの肩にその大きな手を置いた。真っ直ぐに、クリフォードを見つめて吐いた声は、短く力強いものだった。
「生きろ。生きて、忘れるな。雪の厳しさと、お前が生かされたことを」
ヨハンの言葉に、クリフォードは目を閉じた。瞼の裏に、雪の白が浮かぶ。
『私のこと、忘れないで』
最後の声がまだ、耳の中で脈打っている。
雪の中で終わるはずだった時間は、まだ刻み続けている。
それが無常にも、罰のようにも、クリフォードに思えた。
自分一人だけが残され、白の中で儚く舞い散った、美しい人が居ないこの世界。
外では雷が鳴り始めていた。
窓の隙間から淡い光が差し込んではいるが、これから空は荒れ、吹雪になるのだろう。
世界はこちらのことなどお構いなしに、知らん顔で未だ続いている。
「……分かった」
クリフォードはもう、それしか言わなかった。
それから暫く、魂が抜け落ちたような、茫然とした時間が過ぎていく。
風が唸り、窓を鳴らし始めた頃。
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