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1 雪の約束
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雪は、命の音を奪う。
森の外れの斜面は、昼も夜も同じ色で、白が白を重ね積もる。枝も岩も境目を失い、空の境界までもが曖昧になる。風が吹くたび粉雪が舞い、渦を巻くように乱暴に流れ散る。誰かが付ける足跡でさえ、雪は痕跡を消すように直ぐに埋めてゆく。
「ここでいいわ」
女性は振り返らずに言った。
傍に居た青年は、その背中を見つめた。女性が纏う赤い外套の裾が、微かに雪で濡れ湿っている。頭に掛けたフードには雪が積もり、赤が白を含んでいく。それさえも綺麗だと青年は思った。
「お嬢様」
青年が呼びかけると、女性は小さく肩を竦めた。
「その呼び方、もうやめて」
言い方は柔らかいのに、ハッキリとした声色で、反論できる余地は無い。
彼女は昔からそうだった。決めたら曲げない。身分の高低とは別の場所にある頑固さが、彼女の芯を支えている。
青年は唇を噛んだ。なのに、冷えた空気が口の中に入ってきて、鼻の奥までも冷たさが通っていく。
「……キャローナ様」
そう呼び直すと、女性・キャローナは青年の方へ身体を向け、今度は大きく首を振った。
「様もいらない」
青年は、返す言葉を失くした。
従者の立場で、主に対等を望むなど許されないのに、彼女はいつもそこを刺してくる。境界に踏み込み、自分勝手に線を引き直す。青年にとって、それは残酷なことであり、彼女から与えられる優しさでもあった。
キャローナは雪に膝をつき、嵌めていた手袋を外すと、両手で足元の雪を掬った。
青年が慌てて止めようとすると、彼女は柔らかく笑い、雪を落とす。見えた指先が一瞬で赤くなっている。にもかかわらず、彼女はまた雪を掬う。
「ねえ、クリフ」
青年・クリフォードは、あだ名で呼ばれたことに一瞬、言葉を呑む。彼女が自分をクリフと呼ぶとき、いつも何かが起きる。良いことも、悪いことも、だ。
「はい」
「戻りたくないわ」
「……戻りましょう」
クリフォードの声が震える。寒さのせいだけではない。
戻っても、彼女を明日、別の男の手に渡すだけだ。
戻ろうと、彼女にそう言っている自分が薄っぺらく、呆れるほどに空々しく感じた。
「戻ったら、私は笑わなきゃいけない」
キャローナは雪を握ったまま言った。
「祝福を浴びて、知らない人に手を取られて、良妻になりますって顔をする。あなたはその場にいないわ。私は、遠くへ送られる。……もう、きっと、二度と会えない」
クリフォードは拳を握りしめる。手袋の中の冷たくなった指先が、掌の中で食い込んでゆく。締め付けられるように、喉から胸から息苦しく痛む。
「俺は従者です。……あなたの幸せを」
「それ、いつも言うわよね」
キャローナは笑った。笑って、雪の結晶を付けた睫毛を瞬かせ、目を伏せた。
「でも、私の幸せって何?」
彼女の問いかけに、クリフォードは言葉に詰まり、返事はできなかった。
答えた瞬間、自分の願いが混ざってしまう。そうなれば最後、従者ではいられない。
……だからと言って。
彼女を幸せにできるのか?
答えは考えずとも明白だった。
「クリフ」
「はい」
「私はね」
キャローナは小さく息を吸った。彼女の吐く息が、長い睫毛を包む。そしてすぐ消える。だがまた、白い息が彼女の顔を覆う。
「あなたがいない人生を、生きる自信がないの」
彼女にしては珍しい弱音にも思えた。だがそれは、甘えや弱音ではない、彼女が出した結論のように聞こえた。
「……俺は」
守るべき主であるキャローナ。忠誠と義務を全うする。
だが、そういう言葉は今、何の役にも立たない。そんなものでは、彼女を救えない。
「俺は、あなたを守るために生きてきました」
「知ってる。……だから、最後まで隣にいて」
その言い方が、煌めく氷刃のように優しい。
降りしきる雪が、頬を打ち続ける。溶けずにそこへ、冷たいまま残る。
睫毛の上も凍ってきている感覚がある。
「……あなたと離れるのが、怖い」
その場にしゃがみこんだキャローナは、右手をスッとクリフォードへと向けた。
「……本当に」
クリフォードは、自分の声を、どこか遠くに感じた。
差し出された右手を、自身も手袋を外して握り返す。
「……本当に、いいのですか?」
キャローナは顔を上げた。雪の白の中で、青い瞳だけがやけに濃く。
真っ直ぐこちらを見て、太陽のように微笑んだ。
「いい」
その短い言葉に迷いが、一切ない。
「私を失うと、あなたはきっと生きていけない。そして私も、あなたが居ないと生きていけない」
彼女の言葉が胸に突き刺さる。同時に、クリフォードの理性がはじけ飛んだ。従者として守ってきた境界を、自らの手で、一瞬のうちに搔き消したのだ。
気が付けば、クリフォードもその場に腰を下ろし、キャローナをその胸の中に閉じ込めていた。
「クリフ」
「はい」
「一緒に終わろう」
クリフォードは、ゆっくりと瞼を閉じた。
生きろと言えば、彼女は死ぬ。もしかしたらこの先、違う男との素晴らしい人生があるのかもしれない。だが、今の彼女にとって、その選択は死と同じなのだろう。
「……はい」
それは主へではなく、自らが選択した返事だった。
キャローナがもう片方の手を伸ばし、クリフォードの手を握った。主従の形ではないし、恋人の形でもない。ここに居る二人は、もっと身勝手で、それでいて純粋な形だった。
抱きしめ合う二人の力が心なしか強まり、寄り添いあう頬は、温もりよりも冷たさが纏わりついた。
「ねぇ?」
「はい」
「最後に、一つだけ」
「……何で、しょうか?」
「私のこと、忘れない、で」
クリフォードは息を吸った。だんだんと唇の感覚が薄れる。
歯はカチカチと小刻みにぶつかり鳴るのに、うまく口を動かすことが出来ない。
「忘れま、せん」
「約、束よ?」
「約束、します」
これ以上雪に犯させまいと、クリフォードは覆い被さるようにして彼女を抱く。
感覚が徐々になくなっていき、既に寒さという言葉は、脳裏に浮かばなかった。震えることもない。ただ、もう、雪が彼女を穢してゆくことだけは、許せなかった。
「……もし、生まれ変われ、たら、真っさら、で、また……一緒に」
彼の胸の中でキャローナはそう言い、そのまま瞳を閉じた。
真っ白な雪が、全てに終わりを告げる二人を隠すように、降り注いでいった。
森の外れの斜面は、昼も夜も同じ色で、白が白を重ね積もる。枝も岩も境目を失い、空の境界までもが曖昧になる。風が吹くたび粉雪が舞い、渦を巻くように乱暴に流れ散る。誰かが付ける足跡でさえ、雪は痕跡を消すように直ぐに埋めてゆく。
「ここでいいわ」
女性は振り返らずに言った。
傍に居た青年は、その背中を見つめた。女性が纏う赤い外套の裾が、微かに雪で濡れ湿っている。頭に掛けたフードには雪が積もり、赤が白を含んでいく。それさえも綺麗だと青年は思った。
「お嬢様」
青年が呼びかけると、女性は小さく肩を竦めた。
「その呼び方、もうやめて」
言い方は柔らかいのに、ハッキリとした声色で、反論できる余地は無い。
彼女は昔からそうだった。決めたら曲げない。身分の高低とは別の場所にある頑固さが、彼女の芯を支えている。
青年は唇を噛んだ。なのに、冷えた空気が口の中に入ってきて、鼻の奥までも冷たさが通っていく。
「……キャローナ様」
そう呼び直すと、女性・キャローナは青年の方へ身体を向け、今度は大きく首を振った。
「様もいらない」
青年は、返す言葉を失くした。
従者の立場で、主に対等を望むなど許されないのに、彼女はいつもそこを刺してくる。境界に踏み込み、自分勝手に線を引き直す。青年にとって、それは残酷なことであり、彼女から与えられる優しさでもあった。
キャローナは雪に膝をつき、嵌めていた手袋を外すと、両手で足元の雪を掬った。
青年が慌てて止めようとすると、彼女は柔らかく笑い、雪を落とす。見えた指先が一瞬で赤くなっている。にもかかわらず、彼女はまた雪を掬う。
「ねえ、クリフ」
青年・クリフォードは、あだ名で呼ばれたことに一瞬、言葉を呑む。彼女が自分をクリフと呼ぶとき、いつも何かが起きる。良いことも、悪いことも、だ。
「はい」
「戻りたくないわ」
「……戻りましょう」
クリフォードの声が震える。寒さのせいだけではない。
戻っても、彼女を明日、別の男の手に渡すだけだ。
戻ろうと、彼女にそう言っている自分が薄っぺらく、呆れるほどに空々しく感じた。
「戻ったら、私は笑わなきゃいけない」
キャローナは雪を握ったまま言った。
「祝福を浴びて、知らない人に手を取られて、良妻になりますって顔をする。あなたはその場にいないわ。私は、遠くへ送られる。……もう、きっと、二度と会えない」
クリフォードは拳を握りしめる。手袋の中の冷たくなった指先が、掌の中で食い込んでゆく。締め付けられるように、喉から胸から息苦しく痛む。
「俺は従者です。……あなたの幸せを」
「それ、いつも言うわよね」
キャローナは笑った。笑って、雪の結晶を付けた睫毛を瞬かせ、目を伏せた。
「でも、私の幸せって何?」
彼女の問いかけに、クリフォードは言葉に詰まり、返事はできなかった。
答えた瞬間、自分の願いが混ざってしまう。そうなれば最後、従者ではいられない。
……だからと言って。
彼女を幸せにできるのか?
答えは考えずとも明白だった。
「クリフ」
「はい」
「私はね」
キャローナは小さく息を吸った。彼女の吐く息が、長い睫毛を包む。そしてすぐ消える。だがまた、白い息が彼女の顔を覆う。
「あなたがいない人生を、生きる自信がないの」
彼女にしては珍しい弱音にも思えた。だがそれは、甘えや弱音ではない、彼女が出した結論のように聞こえた。
「……俺は」
守るべき主であるキャローナ。忠誠と義務を全うする。
だが、そういう言葉は今、何の役にも立たない。そんなものでは、彼女を救えない。
「俺は、あなたを守るために生きてきました」
「知ってる。……だから、最後まで隣にいて」
その言い方が、煌めく氷刃のように優しい。
降りしきる雪が、頬を打ち続ける。溶けずにそこへ、冷たいまま残る。
睫毛の上も凍ってきている感覚がある。
「……あなたと離れるのが、怖い」
その場にしゃがみこんだキャローナは、右手をスッとクリフォードへと向けた。
「……本当に」
クリフォードは、自分の声を、どこか遠くに感じた。
差し出された右手を、自身も手袋を外して握り返す。
「……本当に、いいのですか?」
キャローナは顔を上げた。雪の白の中で、青い瞳だけがやけに濃く。
真っ直ぐこちらを見て、太陽のように微笑んだ。
「いい」
その短い言葉に迷いが、一切ない。
「私を失うと、あなたはきっと生きていけない。そして私も、あなたが居ないと生きていけない」
彼女の言葉が胸に突き刺さる。同時に、クリフォードの理性がはじけ飛んだ。従者として守ってきた境界を、自らの手で、一瞬のうちに搔き消したのだ。
気が付けば、クリフォードもその場に腰を下ろし、キャローナをその胸の中に閉じ込めていた。
「クリフ」
「はい」
「一緒に終わろう」
クリフォードは、ゆっくりと瞼を閉じた。
生きろと言えば、彼女は死ぬ。もしかしたらこの先、違う男との素晴らしい人生があるのかもしれない。だが、今の彼女にとって、その選択は死と同じなのだろう。
「……はい」
それは主へではなく、自らが選択した返事だった。
キャローナがもう片方の手を伸ばし、クリフォードの手を握った。主従の形ではないし、恋人の形でもない。ここに居る二人は、もっと身勝手で、それでいて純粋な形だった。
抱きしめ合う二人の力が心なしか強まり、寄り添いあう頬は、温もりよりも冷たさが纏わりついた。
「ねぇ?」
「はい」
「最後に、一つだけ」
「……何で、しょうか?」
「私のこと、忘れない、で」
クリフォードは息を吸った。だんだんと唇の感覚が薄れる。
歯はカチカチと小刻みにぶつかり鳴るのに、うまく口を動かすことが出来ない。
「忘れま、せん」
「約、束よ?」
「約束、します」
これ以上雪に犯させまいと、クリフォードは覆い被さるようにして彼女を抱く。
感覚が徐々になくなっていき、既に寒さという言葉は、脳裏に浮かばなかった。震えることもない。ただ、もう、雪が彼女を穢してゆくことだけは、許せなかった。
「……もし、生まれ変われ、たら、真っさら、で、また……一緒に」
彼の胸の中でキャローナはそう言い、そのまま瞳を閉じた。
真っ白な雪が、全てに終わりを告げる二人を隠すように、降り注いでいった。
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