凍雪の約束

苺迷音

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3 春の背徳、冬の記憶

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 治療院での静かな療養を経て、クリフォードは着実に健康を取り戻していった。ひと月も経つ頃には身体の自由も戻りつつあったが、かつて仕えていた領主の邸へ、彼が足を踏み入れることは二度となかった。



 国境は、真冬になると閉じてしまう。峠は雪で塞がれるが、往来が出来ないという訳でもない。故か、盗賊や野生動物などが出没する。

 だが、雪解けを待たずしてクリフォードは、国境を越えた。
 あの雪の中、命拾いをした代償で、足の中指と小指を失った。残された指も感覚は鈍く、歩くたびに地面を確かめるような独特の足取りが癖になっていた。それは、あの日の出来事を忘れるなと、身体に記憶を刻まれたようでもあった。

 国境を越えてすぐの山の麓に、ひとつの町がある。
 行き交うのは商人と、兵と、そして逃亡者。様々な事情を抱え、脛に傷を持つ者が集うその場所では、他人の過去を詮索する者などほとんどいなかった。

 その町でクリフォードは、ヨハンから渡された金を元手に、古びた小屋を買い小さな食堂酒場を始めた。


 貴族の邸宅において、料理を作るのは厨房の役目だ。だが従者というものは、主の口に入るものすべてに精通していなければならない。茶の淹れ方はもちろん、味の濃淡や食の好みの得手不得手、摂取する量に至るまで。時には軽食を自ら用意することもあった。何より、主が何を求めているか。その機微を読む習慣が、客商売において大きな助けとなった。

 食堂酒場は、季節の変わり目、特に冬が近づくと賑わいを見せた。峠を越える前に腹を満たし、冷え切った身体を温める場所を誰もが求めていたからだ。

 店は思いのほか繁盛し、少しずつ規模を広げ、やがて二階には寝床を設けた。
 
「宿も始めたのか」

 常連客たちはそう笑いながら、いつしかそこへ泊まっていくようになった。

 いつの間にやら食堂酒場は、宿屋と兼用するようになった。

 表に掲げた看板には、華やかな絵も飾りもない。ただの木板に、食堂酒場と文字を刻んだだけの素朴なものだ。  
 客に店名を聞かれ「名は無いよ」と答えているうちに、誰からともなくそこは『麓亭』と呼ばれるようになっていた。

 もうひとつ、クリフォードには依然と違うことがあった。
 
 名前を変えたのだ。
 クリフォードという人間はもう居ない。なぜなら、死んだことにされたのだから。

 治療院でヨハンは、いつものように淡々と

「お前は死んだことにしろ」

 そう告げた。

 もし領主が、娘であるキャローナと共にいた従者が生きていると知れば、必ずや捕らえて拷問にかけるだろう。クリフォード自身はそれでも構わない、自分が生き残ったこと自体が間違いだったのだからと、自嘲気味にヨハンへ返した。

 だが、ヨハンは彼の言葉を断じた。生き残った意味を考えろ、と。

 社会的には死んだことになるのだから、何が違うのかと、その時のクリフォードは思った。

 きっとヨハンも、治療師も、クリフォードの中に生きる意志がないことは察していたのだろう。

「お前の命は二人分だ」

 二人にそう諭され、名を変えて生きる道を選んだ。

 国境の町では『ロアン』と名乗った。短くて呼びやすい、ありふれた名前。

 ロアンは、笑わない男になっていた。
 笑えないわけではない。客に対して口角を上げ、丁寧に頭を下げることはできる。だが、心の底から感情が動くことは、もう無かった。


 どんな過去があろうが、記憶を抱えていようが、暮らしは粛々と続く。

 春には雪が溶け、夏には緑が萌え、秋には山が燃え、冬の備えが始まる。
 季節は頑なまでに誠実で、どれほど月日を重ねようとその流れを変えることは決してない。何度も、何度も冬が訪れ、白銀の世界を運んで来た。



 ある年のこと。食堂酒場に新しい働き手がきた。
 既に数名を雇ってはいたが、その人は自ら働かせてほしいと言ってきた。栗色の髪を肩口で切りそろえ、笑うと頬にえくぼができる、太陽のような女性。名前はマレーナ。

「働かせてください」

 青い瞳が真っ直ぐで、耳心地が良く張りのある声。彼女はその目を逸らさずに、ロアンを見る。この町には様々な人間が集う。だから彼も彼女に、事情を深くは聞かなかった。

「皿洗いでもなんでもします。もちろん掃除も、給仕もできます」

 雇ったその日から彼女は宣言通り、実によく働いた。よく笑い、客に叱られてもへこたれない。ロアンは彼女の声が、店の空気を変えるのを肌で感じていた。

 そしてマレーナは、ロアンの癖のある歩き方に気づいていたらしい。本人はうまく隠しているつもりだったが、彼女はその理由を問うことなく、ただ見守ってくれていたようだった。

 ある晩、客が引けたあとのこと。床をモップで拭きながら、彼女はポツリと言った。

「足、痛みませんか」

 ロアンは、その言葉に皿を拭く手を止めた。

「あぁ、大丈夫だ……気づいていたのか?」

「はい。寒いと余計に、痛みが堪えるかと思って」

「そうだな」

 それだけでその話は終わった。ただ翌日からマレーナは、ロアンの足元に滑り止めの代わりになるようにと藁で編んだマットを敷き、雪の日は入口にもそのマットを二枚重ねて置いてくれた。

 気遣いが、言葉より先に出る女性だった。そしてその気遣いを、決して恩着せがましく見せることはなかった。

 そんな日々が重なった、ある夜のこと。戸締まりを終えた二人は、暖炉の前で温かいミルクを手に腰を下ろした。揺れる炎を見つめながら、ロアンはゆっくりと、心の奥底に沈めていたものを吐き出した。

「……俺は、死んだ人間だ」

 マレーナは、分厚いキルトを膝に掛け直し、不思議そうに首を傾げた。

「生きてるじゃないですか」

「そういう意味じゃない」

「じゃあ、どういう意味ですか?」

 ロアンはすぐには、答えられなかった。言葉にした瞬間、雪の白が身体中を駆け巡り、あの日の痛みが蘇ってしまう。それは肉体的な傷跡ではなく、もっと深い魂を抉られるような痛み。

 マレーナは、黙ってロアンの手を取った。その温もりに驚き、彼が顔を上げると、彼女は穏やかに微笑んでいた。

「じゃあ、死んだ人間でもいいです」

「……」

「生きてる今のあなたが、ここにいるから」

 その言葉に触れた瞬間、ロアンの中にあった硬く冷たい氷塊が、パキッと僅かに欠けた。
 その小さな欠けは、やがて細かなひび割れとなり、そこから熱が溶け出していった。

 それから二人は、自然と愛を語らう間柄になった。急くことなく、ゆっくりと、互いの時間を重ねた。
 ロアンはマレーナを愛し、マレーナもまた、ロアンを心から慈しんでくれていた。
 
 そして、雪解けをまったある年の春。
 ロアンとマレーナは夫婦となった。

 式はささやかなものだった。
 村の司祭が祝福し、客たちが祝杯を上げ、マレーナは宴の間中、大いに笑っていた。ロアンもつられるようにして、口元を緩める。嘘でも誤魔化しでもない、本物の笑みが零れていた。

 幸せだった。

 だが心から笑うには、彼の中にはまだ、消せない雪が降り続いていた。
 あの最期の言葉と共に。
 
 自分だけが春の温かな陽光を浴び、愛する人の手を取っていいのだろうか。
 そんな思いが、足元から這い上がってくる。拭い去れない背徳感が、祝宴の喧騒の中で、彼の心を独りにさせた。

 冬が訪れると宿は忙しさを増し、峠を越える前に泊まる客が増える。
 雪の気配が強くなり、街も人も空気も、全てが冬に染まってゆく。麓亭と呼ばれるその場所へ至る小道には、備え付けられた灯火が何本か立てられてある。その明かりが、落ちてくる雪をぼんやりと照らし、今夜も旅人たちを迎え入れていた。
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