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三十四
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聖女の素質は、確かにそこにあった
――マリエル覚醒
最初の変化は、恐ろしいほど静かだった。マリエルは、聖女を“辞めたい”と思ったあの日から、神殿に足を向けなくなった。
代わりに通い始めたのは、
王都の外れ――
石畳も割れ、風が冷たく抜ける貧民街の端にある、名もない小さな教会だった。
天井は低く、壁にはひびが入り、祈りの言葉よりも、咳と泣き声の方が多い場所。
迎えたのは、疑いの視線。
「……聖女様、ですか?」
「どうせ、祈るだけでしょう」
子どもたちは距離を取り、大人たちは期待しない。それが普通だった。マリエルは、深く息を吸った。
胸の奥が、ひどく痛んだ。これまで自分が、どれほど“安全な場所”で
どれほど“守られた役”を演じてきたのか――
否応なく突きつけられる。
(……それでも)
逃げなかった。
膝を折り、子どもと同じ目線に立つ。
「名前、教えて。どこが痛い?」
祈らない。
祝詞を唱えない。
ただ、話を聞く。
その手を取った瞬間だった。
――ふわり。
指先から、淡い温もりが流れ出す。
驚くほど自然に。
意識する前に。
傷口が塞がり、子どもの呼吸が、少しだけ楽になる。
「……え?」
マリエル自身が、目を見開いた。
力は、あった。最初から。
ただ――
正しい場所で、正しい向きに使われていなかっただけ。
そこからは、地道な積み重ねだった。
毎日通い、治癒だけで終わらせない。
帳簿を読む。
寄付金の流れを追う。
孤児院の管理者に質問する。
「この支出、必要ですか?」
「このお金、本当に届いてますか?」
最初は、笑われた。
「お嬢様には分からない」
「神殿の決まりです」
だが、引かなかった。
オリビアの声が、頭の奥で響く。
――質問するなら、責任を取る覚悟を持ちなさい。
証拠を集め、数字を揃え、逃げ道を塞いだ。横流しが露見し、不正が正された。
その金で、炊き出しが始まった。
鍋は重く、火は熱く、手は荒れた。それでも、マリエルは前に立った。同じものを食べ、同じ床に座り、同じ時間を生きた。
夜、部屋に戻ると、脚が震え、魔力はほとんど残っていなかった。
(……今日も、やれた)
その感覚だけが、彼女を支えた。
一方で。オリビアの教育は、容赦がなかった。
「体力が足りない」
「判断が遅い」
「感情に飲まれてる」
ある日は、山に置き去り。
水と地図だけ。
「帰ってきなさい。自力で」
迷い、泣き、足を擦りむいても、歩いた。別の日は、聖魔力を封じられた状態で現場を任された。
「今日は魔法禁止。言葉と判断だけでやりなさい」
失敗し、責められ、それでも逃げなかった。
戻るたび、オリビアは短く言う。
「……よし。次」
それだけで、胸の奥が熱くなった。
数ヶ月後。
マリエルの治癒は、明らかに変わった。
速く、深く、持続する。
触れるだけで魔力が流れ、必要な部分にだけ届く。祈りは補助になり、主役ではなくなった。
民が、気づき始める。
「……マリエル様が来ると、違う」
「ちゃんと、助かる」
ある夜。マリエルは、オリビアの庭で膝をついた。
「……姉様」
声が震える。
「私、聖女を辞めようと思ってました」
オリビアは、黙って聞く。
「でも今は……続けたいです。逃げるためじゃなく、やるために」
顔を上げる。
「私に、できることがあるって、初めて、分かりました」
庭の木々が、静かに揺れた。オリビアは、短く言った。
「合格」
その瞬間。マリエルの中で、何かが――音を立てて崩れた。
山で泣いた日も、
魔力を封じられて絶望した夜も、
孤児の前で震えた瞬間も。
すべてが、この一言に収束する。
顔を上げる。夜の庭。木々に囲まれ、浮遊クッションに身を預ける姉。
だらしなくて、
威厳もなくて、
それなのに――
(……勝てない)
力でも、立場でも、聖女としての格でもない。視点が、違う。世界を見下ろすのではなく、世界の仕組みそのものを見ている。
気づけば、言葉が零れていた。
「……お姉さまは」
「……神、ですね」
一瞬の沈黙。
「違うわよ」
オリビアは、欠伸混じりに言う。
「神は、放置するもの。私は、手を出す」
胸が、熱くなる。
マリエルは、額を地面につけた。
祈りではない。
崇拝でもない。
理解した者の、自然な反応だった。
(この人がいる限り、私は迷わない)
木々が、静かに揺れた。それは祝福でも奇跡でもない。
――秩序が、正しい位置に戻った音。
「勘違いしないで。あなたが伸びたのは、あなたが、やったからよ」
マリエルは、顔を上げる。涙は、もう出なかった。
「はい」
短く、強く。オリビアは再び目を閉じる。
(……やっぱり)
(育成、楽しいわね)
その無自覚な一言が、
どれほど多くの人生を作り替えたか――
この時点で、まだ誰も知らなかった。
――マリエル覚醒
最初の変化は、恐ろしいほど静かだった。マリエルは、聖女を“辞めたい”と思ったあの日から、神殿に足を向けなくなった。
代わりに通い始めたのは、
王都の外れ――
石畳も割れ、風が冷たく抜ける貧民街の端にある、名もない小さな教会だった。
天井は低く、壁にはひびが入り、祈りの言葉よりも、咳と泣き声の方が多い場所。
迎えたのは、疑いの視線。
「……聖女様、ですか?」
「どうせ、祈るだけでしょう」
子どもたちは距離を取り、大人たちは期待しない。それが普通だった。マリエルは、深く息を吸った。
胸の奥が、ひどく痛んだ。これまで自分が、どれほど“安全な場所”で
どれほど“守られた役”を演じてきたのか――
否応なく突きつけられる。
(……それでも)
逃げなかった。
膝を折り、子どもと同じ目線に立つ。
「名前、教えて。どこが痛い?」
祈らない。
祝詞を唱えない。
ただ、話を聞く。
その手を取った瞬間だった。
――ふわり。
指先から、淡い温もりが流れ出す。
驚くほど自然に。
意識する前に。
傷口が塞がり、子どもの呼吸が、少しだけ楽になる。
「……え?」
マリエル自身が、目を見開いた。
力は、あった。最初から。
ただ――
正しい場所で、正しい向きに使われていなかっただけ。
そこからは、地道な積み重ねだった。
毎日通い、治癒だけで終わらせない。
帳簿を読む。
寄付金の流れを追う。
孤児院の管理者に質問する。
「この支出、必要ですか?」
「このお金、本当に届いてますか?」
最初は、笑われた。
「お嬢様には分からない」
「神殿の決まりです」
だが、引かなかった。
オリビアの声が、頭の奥で響く。
――質問するなら、責任を取る覚悟を持ちなさい。
証拠を集め、数字を揃え、逃げ道を塞いだ。横流しが露見し、不正が正された。
その金で、炊き出しが始まった。
鍋は重く、火は熱く、手は荒れた。それでも、マリエルは前に立った。同じものを食べ、同じ床に座り、同じ時間を生きた。
夜、部屋に戻ると、脚が震え、魔力はほとんど残っていなかった。
(……今日も、やれた)
その感覚だけが、彼女を支えた。
一方で。オリビアの教育は、容赦がなかった。
「体力が足りない」
「判断が遅い」
「感情に飲まれてる」
ある日は、山に置き去り。
水と地図だけ。
「帰ってきなさい。自力で」
迷い、泣き、足を擦りむいても、歩いた。別の日は、聖魔力を封じられた状態で現場を任された。
「今日は魔法禁止。言葉と判断だけでやりなさい」
失敗し、責められ、それでも逃げなかった。
戻るたび、オリビアは短く言う。
「……よし。次」
それだけで、胸の奥が熱くなった。
数ヶ月後。
マリエルの治癒は、明らかに変わった。
速く、深く、持続する。
触れるだけで魔力が流れ、必要な部分にだけ届く。祈りは補助になり、主役ではなくなった。
民が、気づき始める。
「……マリエル様が来ると、違う」
「ちゃんと、助かる」
ある夜。マリエルは、オリビアの庭で膝をついた。
「……姉様」
声が震える。
「私、聖女を辞めようと思ってました」
オリビアは、黙って聞く。
「でも今は……続けたいです。逃げるためじゃなく、やるために」
顔を上げる。
「私に、できることがあるって、初めて、分かりました」
庭の木々が、静かに揺れた。オリビアは、短く言った。
「合格」
その瞬間。マリエルの中で、何かが――音を立てて崩れた。
山で泣いた日も、
魔力を封じられて絶望した夜も、
孤児の前で震えた瞬間も。
すべてが、この一言に収束する。
顔を上げる。夜の庭。木々に囲まれ、浮遊クッションに身を預ける姉。
だらしなくて、
威厳もなくて、
それなのに――
(……勝てない)
力でも、立場でも、聖女としての格でもない。視点が、違う。世界を見下ろすのではなく、世界の仕組みそのものを見ている。
気づけば、言葉が零れていた。
「……お姉さまは」
「……神、ですね」
一瞬の沈黙。
「違うわよ」
オリビアは、欠伸混じりに言う。
「神は、放置するもの。私は、手を出す」
胸が、熱くなる。
マリエルは、額を地面につけた。
祈りではない。
崇拝でもない。
理解した者の、自然な反応だった。
(この人がいる限り、私は迷わない)
木々が、静かに揺れた。それは祝福でも奇跡でもない。
――秩序が、正しい位置に戻った音。
「勘違いしないで。あなたが伸びたのは、あなたが、やったからよ」
マリエルは、顔を上げる。涙は、もう出なかった。
「はい」
短く、強く。オリビアは再び目を閉じる。
(……やっぱり)
(育成、楽しいわね)
その無自覚な一言が、
どれほど多くの人生を作り替えたか――
この時点で、まだ誰も知らなかった。
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