逆転の花嫁はヤンデレ王子に愛されすぎて困っています

蜂蜜あやね

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セイラン王国王都の郊外、風に揺れる草原を抜けた先に広がるのは王家の森――
 代々の王たちが神への祈りとともに守り続けてきた、静かな緑の海だった。
 その森の手前で、二人の子どもの声が響く。
「アシュレイ、早く! ほら、置いていくわよ!」
 陽光を受けてきらきらと輝く金の髪。
 軽やかに駆け抜ける少女は、まだ十二歳になったばかりのリリアンヌ・クラウド――通称リリー。
 セイラン王国屈指の名門、クラウド公爵家の娘だ。
 背筋はまっすぐに伸び、碧い瞳は自信に満ちている。
 その姿はまさしく“完璧な公爵令嬢”の名にふさわしかった。
 後ろを走る少年が、慌てた声を上げる。
「リリー、待って……そんなに早く走らないで!」
 銀の髪を風になびかせる少年――アシュレイ・ロンド。
 現国王グラニフ・ロンドの一人息子にして、リリーの幼なじみ。
 同い年でありながら、どこか儚げな印象を与える。
 繊細な紫紺の瞳は、常に彼女を追いかけていた。
 彼らの父――モールス・クラウド公爵と国王グラニフは若き日よりの旧友だった。
 互いを“悪友”と呼び合うほどの親密な仲であり、家族ぐるみでの付き合いも深い。
 その縁で、王子と公爵令嬢は幼い頃から共に育ったのだ。
 もっとも、関係性としては明らかに“主従”が逆転していた。
 王子であるアシュレイが、いつもリリーの後ろを小走りで追いかける。
 まるで従者のように。
 リリーは足を止め、胸に手を当てて笑った。
「もう、王子なんだからしっかりして。
 そんな調子じゃ、いざってときにわたしが守ってあげられないじゃない」
 「守るのは僕のほうだよ」と言いかけて、アシュレイは苦笑した。
 いつもこうだ。
 彼女のほうが強くて、眩しくて、先に立ってしまう。
 それでも、その背中を追いかけるのが嫌ではなかった。
 風が頬を撫でる。
 湖畔のそばまで来ると、空が開けて一面の青が広がった。
 湖の水面が陽を受けてきらめき、リリーの髪の金と溶け合う。
 その光景を見て、アシュレイは思わず息を呑んだ。
 「ねぇ、アシュレイ。見て、あそこ!」
 リリーが指さした先に、金色の羽毛を持つウサギがいた。
 金毛のラピッドラビット――滅多に人前に現れない珍獣だ。
「すごい……本物だ……」
「追いかけましょう! あんなの滅多に見られないわ!」
「えっ、でも森の奥には入るなって――」
「大丈夫よ!」
 言うが早いか、リリーは靴を脱いだまま森の中へと駆け込んだ。
 泥にまみれ、枝に髪を引っかけながら、それでも迷いなく進む。
 完璧な公爵令嬢の姿など、もうそこにはなかった。
 ただ、好奇心のままに動く少女がいるだけだった。
 アシュレイも慌ててそのあとを追う。
「待ってよ、リリー!」
 けれど、ウサギは早かった。
 小さな影が木々の間をすり抜けるように走り、あっという間に姿を消した。
 やがて二人は、森の奥の開けた場所にたどり着いた。
 静寂。
 風も止まり、鳥の声すら聞こえない。
 リリーが眉をひそめる。
「……ここ、どこ?」
「たぶん、かなり奥まで来ちゃったんだと思う……」
 アシュレイの声が、どこか震えていた。
 リリーは振り返り、無理に笑ってみせる。
「迷ってなんかないわ。ただ、少し道を見失っただけよ」
 そのときだった。
 茂みの向こうに、灰色の大きな石が見えた。
 苔に覆われ、歪な形をした古い石。
 不思議なことに、その表面だけがわずかに光を反射している。
 リリーは好奇心に突き動かされ、近づいた。
 「上からなら道が見えるかもしれない」と軽く笑い、
 ためらいなくその石に足をかけた。
 「リリー、やめたほうが――」
「大丈夫よ、ちょっと登るだけ!」
 ぴょん、と軽く跳ねた瞬間。
 アシュレイの瞳がそれを捉えた。
 石の表面に、古い文字のような線が刻まれていたのだ。
 彼は息をのむ。
 読めない。けれど、それがただの石ではないと直感した。
 「リリー、その石……何か、書いてあるよ!」
「え? どこ? 見えないわよ、アシュレイも登って――」
 リリーの言葉が終わるより早く、石が低く唸った。
 ゴゴゴ……と地鳴りが響き、地面が揺れる。
 リリーはとっさに飛び降りたが、足をもつれて転んだ。
 アシュレイが駆け寄り、咄嗟に抱きとめる。
 その直後、石がゆっくりと傾き、地に崩れ落ちた。
 鈍い音と共に、森の空気が一瞬で変わる。
 周囲の木々がざわめき、葉が逆巻くように空を舞った。
 まるで何かが“目を覚ました”かのように。
 アシュレイの腕の中で、リリーは息を呑む。
 その碧い瞳に、かすかに涙の光が揺れていた。
「リリー……大丈夫?」
「だ、大丈夫……ちょっとびっくりしただけ」
 唇がかすかに震えている。
 完璧な令嬢は、恐怖を見せない。
 そう思い込み、必死に笑顔を作る。
 けれどその笑顔は、ひどく痛々しかった。
 そのとき、森の奥から声が響いた。
「アシュレイ様! リリー様!」
 松明を掲げた従者たちが駆け寄ってくる。
 リリーはほっと息をついた。
 だが、アシュレイだけは――倒れた石の隙間から、淡い光が滲んでいるのを見逃さなかった。
 * * *
 その夜。
 リリーは父モールスにこっぴどく叱られた。
「森の奥に入るなと、何度言えばわかる!」
 雷のような声が部屋に響く。
 リリーは何度も「すみません」と頭を下げた。
 だが、無事に帰ってきたことで、やがて父の怒りも収まる。
「怪我がなくてよかった。それだけは感謝しろ」
 モールスの言葉に、リリーは小さく頷いた。
 夜。
 家の庭で、リリーは木剣を手に立っていた。
 月光を浴びながら、剣を振る。
 風を裂く音が夜気に響く。
 ――いつか父のように。
 ――そして、アシュレイを守れる騎士になるために。
 けれどその腕が、途中で止まった。
 重い。
 まるで鉛でも仕込まれたように、剣が動かない。
 息も妙に苦しい。
「……おかしいな」
 そう呟いたその声は、夜風にかき消された。
 そのとき、月の光がふと陰る。
 雲の影が庭を覆い、リリーの顔に影を落とした。
 その小さな影の下で、彼女の運命は静かに、けれど確実に――
 “逆転”し始めていた。
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