逆転の花嫁はヤンデレ王子に愛されすぎて困っています

蜂蜜あやね

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序章

 ――こんなはずじゃなかったのに。
 セイラン王国王都ダレス。
 国王グラニフ・ロンド即位三十周年を祝う記念パレードの日。
 大通りは花と旗で埋め尽くされ、楽団が高らかに行進曲を奏でている。
 空には金と白の紙吹雪が舞い、まさしく祝祭の一日だった。
 その華やかさの片隅で、リリアンヌ・クラウド――通称リリーは焦っていた。
 (ルートが……思い出せない)
 昨日の夜、机に地図を広げて何度も確認した。
 国王の馬車がA通りを通れば、自分はC地区の混雑整理、そのあとF地区へ――。
 完璧に頭に叩き込んだはずなのに、朝になったらすっかり抜け落ちていた。
 初任務。絶対に失敗できない。
 なのに、頭は真っ白で足だけが動く。
「新人さん? そっちは王族の待機区域だから入らないようにね」
 近くの騎士に声をかけられ、慌てて敬礼する。
 だが気づけばもう、その“入ってはいけない”方向へ進んでいた。
 焦りと混乱で道を間違え、迷子になる新人騎士などざらにいる。
 でも――よりによって今日は王族行列の日。失敗すれば一生言われる。
 (落ち着け、落ち着け、まだ取り返せる)
 深呼吸をひとつ。
 それでも指先が冷たい。地図を握る手が震えている。
 なんでこうなるんだろう。昔は何でもできたのに。
 学問も剣術も得意で、「完璧」と呼ばれた時期が確かにあった。
 今はただの“うっかり者の騎士”。
 見た目だけは立派な制服を着ているけれど、中身はいつも空回りだ。
 人混みを抜けようとしたそのとき、陽光を反射する銀色が目に入った。
 護衛の騎士たちが列を作り、その中央で立っていた青年。
 陽を受けて光る銀髪と、紫紺の瞳。
 見間違えようがない。
 (……アシュレイ)
 喉がきゅっと詰まる。
 五年ぶりに見るその姿は、もう少年ではなかった。
 細かった肩が広くなり、立ち姿に王族らしい威厳がある。
 昔は一歩後ろを歩いていたのに、今は彼のほうがずっと遠い場所にいるようだった。
 (やだ、今の私……見られたくない)
 完璧な自分を見せたかった。
 ちゃんと騎士になれたと胸を張って会いたかった。
 でも現実は、持ち場を間違え、地図を逆さに持っている。
 慌てて踵を返した瞬間――。
 「失礼っ……!」
 ぐらり、と足を取られた。
 硬い石畳に爪先をぶつけ、派手に転ぶ。
 痛みよりも、周囲の視線が刺さる。
 顔を上げるのが怖くて、膝を抱えたまま固まった。
 そして。
 「大丈夫?」
 静かな声が頭上から落ちた。
 懐かしくて、でももう違う響き。
 顔を上げると、彼が立っていた。
 陽の光の中、影を落とすように立つその姿は、五年前とはまるで別人だった。
 「……アシュレイ、殿下」
 無意識に敬称がついた。
 呼び捨てにできない距離が、そこにできていた。
 アシュレイは護衛に視線で「下がれ」と命じ、リリーの前にしゃがむ。
 白い手袋の手が差し出される。
 見慣れたはずの仕草なのに、胸の奥が痛くなった。
 「怪我は? 顔、痛くない?」
 昔なら、そんな言葉を掛けられたらすぐに立ち上がれた。
 けれど今は、どうしても手が伸ばせなかった。
 「だいじょうぶです……すみません、私……持ち場を間違えて――」
 「いいよ。僕のところに来てくれたんだから」
 さらりと告げたその一言が、祝祭のざわめきに溶けた。
 からかうでも、叱るでもない。
 ただ穏やかに、しかし拒めないような声音で。
 「……久しぶりだね、リリー」
 短い言葉。
 けれどその響きだけで、胸の奥が強く波打つ。
 (五年……)
 長かった。
 避け続けた時間。
 彼にだけは、今の自分を見られたくなかった。
 でもこうして、よりによって最悪の形で会ってしまった。
 アシュレイは立ち上がり、リリーを見下ろした。
 その瞳の奥に何があるのか、読めない。
 怒っているわけでも、笑っているわけでもない。
 ただ、知っていたように見つめている。
 祝祭の鐘が鳴り響く。
 民衆の歓声が遠くで沸き上がり、紙吹雪が陽を受けて舞った。
 けれど、リリーの世界はその瞬間、彼の声だけで満たされていた。
 ――五年ぶりの再会。
 それが、すべての始まりだった。
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