獅子王の運命の番は、捨てられた猫獣人の私でした

天音ねる(旧:えんとっぷ)

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珍しい閉店間際の来客2

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なぜそう言ったのかミミ自身にも分からず、体は恐怖でまだ小刻みに震えているのに、不思議と心は妙に落ち着いていた。
(ここで逃げてはいけない。私はもう、ただ怯えているだけのか弱い少女じゃない、この「森の恵み亭」の店員なのだから)

ミミは一度きゅっと唇を結ぶと、震える足を叱咤し男が座るテーブルへとゆっくりと歩み寄っていく。一歩また一歩と近づくにつれて男が発する威圧感は肌を刺すように強くなり、心臓が早鐘のようにドクン、ドクンと大きく脈打っていた。

テーブルの横に立ったミミは、声が震えないように深呼吸を一つした。
「…いらっしゃいませ。ご注文はお決まりでしょうか」
絞り出した声は自分でも驚くほどか細く、上ずって聞こえた。

男はすぐには答えず、フードの奥の暗闇がただじっとミミを見つめている。その視線は射抜かれるようで、まるで心の一番奥深くにある誰にも見せたことのない柔らかな部分まで、すべてを見透かされているかのようだった。
永遠にも感じられる数秒の沈黙の後、男はゆっくりとその唇を開いた。
「…………温かい、シチューを」

その声にミミはびくりと小さく肩を震わせた。地を這うように低く、けれどただ低いだけでなく古井戸の底から朗々と響き渡るかのような不思議な深みと重みがある。その一言だけで部屋中の空気を震わせるような、あらゆる者の上に立つことを運命づけられた者だけが持つ、王者の声だった。

シチュー。
そのあまりにも懐かしい響きにミミの胸がちくりと痛んだ。かつて愛する人のために心を込めて作り、そして今この店で自分の再生のきっかけとなった大切な料理。

ミミは「…シチュー、ですね」とかろうじて返すのが精一杯で、「パンはお付けしますか?」と続けた。
「…ああ」
短い肯定を受け、ミミは「かしこまりました」と深く頭を下げると、逃げるようにその場を離れる。厨房へと戻るほんの短い距離の間も、ずっと男の視線が背中に突き刺さっているのを感じていた。

厨房に駆け込むとミミは壁に手をついて大きく息をついたが、心臓はまだ破裂しそうなほど激しく高鳴っていた。
「ミミ、大丈夫かい!?」
心配そうな顔でターニャが駆け寄ってくる。
「は、はい…大丈夫です。ご注文は…温かいシチューと、パンを一つ…」
「シチュー…ねぇ」
ターニャはまだ警戒を解いていない目でホールの男をちらりと見やり、「よりによってうちの看板メニューを頼むとは、物好きな客だねぇ」と呟いた。

「…ミミ。あんたはもう奥に引っ込んでな。あたしが運んでいくよ、あんな得体の知れない男に何かあってからじゃ遅いからね」
「いえ」
ミミはターニャの申し出を再び静かに断った。
「私が作ります。そして、私がお持ちします」
「ミミ…?」
「…分かりません。でも、あの人のためのシチューは私が作らなければいけない、そんな気がするんです」

その時のミミの瞳にもう恐怖や怯えの色はなく、ただどこまでも真剣で、何か運命的なものに導かれているかのような強い光が宿っていた。その瞳を見たターニャはそれ以上何も言わず、ただこくりと一度頷くと「…分かったよ。だったら、とびきりうまいのを作ってやんな」とだけ言ってミミの肩をぽんと力強く叩いた。

ミミは大きく深呼吸して寸胴鍋の前に立ち、お玉でゆっくりと鍋の底からシチューをかき混ぜる。ことことと煮込まれたシチューは深い琥珀色で、牛肉は繊維がほろりと崩れるほど柔らかい。ミミは数ある肉の塊から一番形の良いものを選んで深皿へ丁寧に盛り付け、ソースをたっぷり注いで摘みたてのパセリを散らし、オーブンで温め直したふかふかの黒パンを隣に添えた。

それはいつものただのシチューのはずだったが、ミミは自分の人生のすべてを注ぎ込むかのように、この一皿が何かとても特別な意味を持つものに感じられてならなかった。

お盆に乗せたシチューを両手で大切に抱えるようにして再びホールの男の元へ運ぶと、男はミミが来た時とまったく同じ姿勢で静かに座っている。
「お待たせいたしました。ビーフシチューと、黒パンでございます」
ミミができるだけ音を立てないようにそっとテーブルに皿を置いたその時、男がスプーンを取ろうと外套の下から手を伸ばした。

ミミは思わずその手に目を奪われた。大きく骨張った男らしい手にはいくつもの古い傷跡があり、過酷な人生を物語っているにもかかわらず、その手つきは驚くほど優雅で洗練されている。
そしてフードの影がわずかに揺れた一瞬、ミミは見てしまった。暗闇の奥で鋭く燃えるような黄金の光を。それはまるで夜の闇を統べる百獣の王の瞳のようだった。

「…っ!」
息を呑むミミに気づくでもなく、男はただ黙々とシチューを口に運び始めた。
ミミは一礼して足早にカウンターへ戻ったが、彼女の意識はずっとテーブルの男に釘付けになっていた。

男は一言も発さず、ただ静かに、しかし迷いのない動きでスプーンを口へと運び続ける。その食べ方は不思議なほど美しく、行儀がいいというのとはまた違う、一つ一つの所作に無駄のない気品が感じられた。
やがて男は最後の一滴までパンで綺麗に拭うようにして皿を完全に空にした。

そして立ち上がると、シチュー代としては少し多すぎる金額の銀貨を数枚、静かにテーブルへ置いて音もなく店の入り口へと向かう。

カラン。
扉のベルが鳴り男の巨躯が夜の闇へと消えていくと同時に、店内に張り詰めていた圧倒的な威圧感も嘘のようにすうっと消え失せた。
後に残されたのは深い静寂と、空になったシチューの皿と、テーブルに置かれた数枚の銀貨だけ。

「…嵐でも通り過ぎていったみたいだねぇ…」
カウンターの向こうでターニャが呆然と呟いた。
ミミは何も答えられず、まだ少しだけ速く打つ心臓のまま、ただあの男が座っていた空っぽの席を瞬きもせずにじっと見つめていた。
あれは一体誰だったのか、ただの旅人だったのだろうか。
分からない。けれど一つだけ確かなことは、あれはただの客ではなく、今夜の出会いが自分の運命を大きく変えるということ。
そんな抗うことのできない力強い予感がミミの胸を強く締め付けていた。それは絶望の淵から這い上がった彼女の新しい物語が、今まさに扉を開けようとしている合図だった。
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