恋と愛とで抱きしめて

鏡野ゆう

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番外編

番外編 第一話

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本編から十年後のお話


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「きゃっ」

 軽い破裂音と共に、封筒が弾けて赤い液体が周囲に飛び散った。

奈緒なお先生?!」

 お茶の用意をしていた看護師の吉永よしながさんが、慌てた様子で駆け寄る。

「あーあ……せっかく洗濯した白衣が汚れちゃった」
「白衣なんてどうでも良いんです! お怪我は?」
「中に入ってた液体が飛び散っただけだから、私は何とも無いです」

 吉永さんは手に持っていたフキンで、顔についていたらしい液体を拭ってくれる。病院には元患者さんの逆恨みや同業者の嫌がらせ等で、たまにこういう悪質なものが届くことがあるけれど、それが自分宛というのは初めてなのでビックリしちゃった。送り主は製薬会社の名前がプリントされているけど、きっとこの会社とは無関係なんだろうなあ……。

「これってやっぱり、事務長に報告しなきゃダメだよね?」
「あの事務長さんは頼りないですからね、ここは直接、理事長先生に報告した方が、よろしいんじゃありませんか?」
「えー……理事長先生に報告したら、絶対に重光しげみつ先生の耳にも入っちゃうよ」

 うちの理事長先生、国会議員の重光先生とは小学校から高校生まで同級生だった、いわゆる竹馬の友ってやつで、今でもプライベートではあだ名で呼び合う仲。理事長先生に報告したら絶対に重光先生に話が伝わって(内部機密とか関係ないんだよね、この人達に)、そんなことになったら確実に信吾しんごさんの耳に入っちゃうよ。

「そんなこと仰って。もし嫌がらせがエスカレートして、お子さんにまで及んだらどうするんですか? 早く報告していらっしゃい。私、今から理事長先生を捕まえておきますから」

 そう言うと、吉永さんはこちらの返事を待たずに奥に引っ込んで、内線で何処かに連絡を入れている。吉永さんは長年、ここの病院で救命救急の師長さんをしていた超ベテランさん。私がここで働き始めたと同時に、愁訴外来しゅうそがいらいに来てくれて、今までの経験を活かし、患者さんだけではなく私にアドバイスをしてくれる、ありがたい知恵袋さん的な存在だ。なので私も私の上司の山口やまぐち先生も頭が上がらない。多分それは理事長先生も同じだと思うけど。

「むー……吉永さん、問答無用だなんて酷いよー」
「なに呑気なこと仰ってるんですか。さ、それは洗濯に回しておきますから早く脱いで。さっさと理事長先生のところに行ってください。理事長室で待ってらっしゃいますから」
「えー……」
「えーじゃありません。朝の患者さんは山口先生にお願いします。もう院内にはいらっしゃるし」

 うわー、完全に仕切られてるよう。そして私から無理やり白衣を引き剥がすと、破裂して赤く染まった封筒が入ったビニール袋を押し付け、部屋から押し出した。

「そんな押さなくても行きますってば」

 私はトコロテンじゃないですよ?と言っても、まったく聞く耳を持ってもらえない。仕方ないので、そのまま理事長室へと向かう。途中で山口先生とすれ違ったので、簡単に事情を話しておいた。

 そして理事長室。

森永もりなが先生のところに嫌がらせなんて、初めてのことだね。愁訴外来しゅうそがいらいは患者さんにもおおむね好評だから、まさかこんなものが届くとは思わなかったよ」

 ビニール袋に入った封筒を眺めながら、呟く理事長先生。

「あのう、できたら内密に処理していただきたいんですけど」
「え、そうなの?」
「そうなの?って、まさかもう何処かに連絡しちゃったとかです?」
「うん。君のことはよろしく頼むねって、重光君から言われていたからね、ちゃんと報告したよ?」

 ああああ、口止めをお願いする時間も無かったぁ。でも警察に連絡するより先に、重光先生に連絡しちゃうところが理事長先生らしいよね……ふぅ。

「それと……」
「まだ何かあるんですか?」
「息子の知り合いに刑事さんがいてさ、今、大腸の内視鏡検査で来てるんだけどどうかな、彼に捜査を頼んでみない? 知り合いだから便宜を図ってくれると思うけど」
「はあ……」

 封筒が破裂したよりも何気にダメージが大きいよ、理事長先生。それに、内視鏡検査に来ている人に何てことを頼むつもりでいるんだろ……。

「本庁の刑事だから、見た目はともかく優秀だと思うんだよね」
「はあ……」
「検査が終わったらそっちに行くように頼んでおくから。んー……お昼すぎになるかな。あ、チビちゃん達のお迎えがあるんだっけ?」
「延長を頼んでおきます」
「じゃあ昼すぎに刑事さんがいくからよろしくね」
「……分かりました」

 なんだか絶対に封筒よりダメージ大きい。証拠の品は私がそのまま持ち帰って、刑事さんが来た時に渡すことになった。あー……絶対に信吾さんの耳にも入っちゃうよね、もしかしたら今頃、重光先生から連絡行っちゃってるかも。群長になって色々と忙しくしてるから、こんなことで信吾さんにわずらわしい思いをさせたくないのにぃ。

「あ……」

 そう言えば今日は本省に顔を出すって言ってたっけ。なんだか嫌な予感……。そっと心療内科の部屋に入ると、山口先生が三嶋みしまさんちのお爺ちゃんのお話を聞いていた。最近、白内障が酷くてそろそろ手術しないといけないねって話していたんだけど、決心はついたのかな。

「三嶋のお爺ちゃん、おはようございます」
「おや、奈緒先生、用事はすんだんかい?」
「はい」
「そうかそうか。わしは今日は山口先生と男同士の話をしとるんじゃ」
「そうなんですか? だったら先生に、早くお嫁さんをもらうように説得してください。食生活が寂しすぎて涙が出ますから」
「うんうん。それはわしも思ったぞ。では山口先生、これから好みの女性について、いくつか質問を……」

 嫌がる山口先生を三嶋のお爺ちゃんにお任せして、私は吉永さんがいる奥の部屋へ引っ込んだ。

「三嶋さんの人脈は広いから、もしかたら今年中に山口先生のお嫁さん、決まっちゃうかも」
「あらあら、とうとう火をつけちゃったんですね?」
「張り切り出したら、糖尿や白内障でくよくよしなくなると思うけどな」

 お年寄りは人によりけりではあるけど、誰かに頼ってもらうことがとても嬉しいのだ。特に三嶋のお爺ちゃんはその典型。ご家族はとても優しくて、お爺ちゃんの事を皆が好いている。だけど、大事にされすぎて頼ってもらえないというのがお爺ちゃんの目下の悩みで、家族の役に立ちたいのおっていうのが最近の口癖だった。本人は贅沢な悩みじゃ~と笑ってはいるけどね。

「それでいかがでした?」
「うん、今ね、若先生のお知り合いの刑事さんがうちで検査を受けているから、それが終わったらこっちに来てもらうことになっちゃった」

 なんだか気乗りしないけど、仕方ないよね。

「刑事さんですか。若先生にも意外なお知り合いがいらっしゃるんですね」
「みたいですねー」
「どうかしたんですか?」

 ちょっとブルーが入っている私の表情に気がついた吉永さんが、お茶を煎れてくれる。今日のお茶は、山口先生のご実家で作っている緑茶だ。

「うん……理事長先生がね、重光先生にさっそく報告しちゃったみたいなの、今回の件」
「さっきお知らせしたばかりなのに?」
「私が行くまでの間に電話しちゃったらしいよ、どんだけ仲良しなんだか」
「ってことは」
「うちの旦那様の耳にも早々に入るってことですね」
「あらまあ」

 あらまあ、だよねえ。

「忙しいのに申し訳なくて」
「そんなことないですよ、奥様の一大事ですもの」

 いやいや吉永さん、貴女は信吾さんの怖さを知らないから、そんな呑気に笑っていられるのですよ? 怖い人達がいっぱいいる、怖い集団を束ねている超怖い人なんですよ? 私と子供には優しいけど。だから別の意味で心配です。

「……」

 そこでもう一人の怖い存在を思い出した。

「あわわわわ」
「どうしたんですか?」
「え、いや、あ、大丈夫かな、いま新婚旅行中だし……」
「?」

 みゅうさんのことをスッカリ忘れてたよ。こちらも怒らせたら超怖いよ。だってお父さんの元奥さんの実家の病院、本当に跡地になっちゃったんだよ? 院長先生一家は夜逃げ同然だったらしいし。あれって絶対にみゅうさんのしわざだよね? 救いなのはそこで働いていた人も入院していた人も、ちゃんと行き先が決まっていたってことかな。この手際の良さは脱帽モノですよって、弁護士先生も笑っていたなあ。

 そんなみゅうさんは、大学の法医学教室で働いている。結婚しないのかなって思っていたら、今年に入って電撃結婚した。驚いていたら、なおっちほどじゃないわよって笑ってたっけ。お相手は法務省のお役人さんで、一度四人で食事をしたんだけれど、なにやら信吾さんの反応がおかしかったのは気のせいかな。えーと、名前は門田かどたさん。もしかしたら信吾さんと同い年ぐらいじゃないかなあ。私、人の年を当てるのが下手なので、何とも言えないけど。

 とにかく、この件に関しては、みゅうさんが関わってくることはないから少し安心。まあ、新婚旅行から戻ってきた時に解決していなかったら話は別だけど。とにかく今は、自分の旦那様のことだけを心配していれば良いよね。警察に頼むんだから、きっと大人しくしていてくれるはず、だよね?


+++++


 そんなわけで、お昼前にその人はやって来た。検査が終わった直後で、若干くたびれた感じがしないでもないけれど、警視庁の捜査一課の加藤かとうさん。

「警視庁捜査一課の加藤です」
「森永と申します」

 お互いに名刺交換をする。なんだか変な感じだよね。衛星放送でやってる昔のドラマとか見ていると、そんなシーンなんて無かったのに、今の日本では警察官も、相手と名刺を交換する時代なんだよね。

保科ほしな理事長からの依頼でこちらに伺ったんですが、それが届いた封筒ですか」

 加藤さんがビニール袋に入った封筒に目を向けた。

「はい。破裂した後はビニール袋に入れたので、私達以外は誰も触っていませんけど……」
「お預かりしていきますね。それと月並みな質問ですが、森永先生に誰かに恨まれるような、そういった事例に心当たりはおありですか?」
「さあ……特にこれといって」

 こればかりは分からない。自分ではそんなことないって思っていても、知らない内に恨みを買うこともあるだろうし、それほどでもないって私が思っている事でも、相手にとっては大問題だったってこともあるしね。そんなことを考えていると、診察室のドアが乱暴にノックされた。この叩き方は……。

「ちょっと失礼しますね」

 席を離れると、ドアが蹴破られないうちにと慌てて開けた。そこには信吾さん。開けるまでその場で待っていたのは、それなりに遠慮していたんだよね、きっと。そうだよね?

「信吾さん……本当に来ちゃった」
「重光さんから話を聞いて。どちらにしろ、奈緒とチビ達を迎えに来るつもりではいたんだが」

 そう言いながら診察室の中に目をやって、座っている加藤さんの姿を見て目を細める。

「あれは?」
「若先生のお知り合いの刑事さん。たまたまこっちに来ていてね、調べてくれるんだって」
「ほお」

 さすが一課の刑事さんだけあって、信吾さんと目が合っても怯む様子はなかった。信吾さんは私を回れ右させて診察室へと押し戻し、自分もその後に続く。そして私を椅子に座らせると、自分はその後ろに立った。でもさ信吾さん、一課の刑事さんを『あれ』呼ばわりはよくないと思うよ?

「こちらは?」
「私の夫です」
「陸上自衛隊の方ですか」
「そうだが、そちらは?」
「警視庁捜査一課の加藤です。森永さんはどちらの駐屯地の所属でいらっしゃいますか?」
「何故そんなことを?」

 声が怖いよ信吾さん。落ち着こうよ、この人は警察の人だよ?

「奥様関係の怨恨の線で捜査しますが、ご主人が自衛官となると、別の線の可能性も出てきますから」
「こちらのことはこちらで対処する。警察の手は不要だ」

 ひええ、取りつく島もない。家では私にも子供達にも凄く優しいけど、これが信吾さんのお仕事中の姿なんだよね。こういうところを見ると、やっぱり特作の群長さんの片腕なんだなあって実感してしまう。香取かとり君達はきっと慣れっこだろうけど、私は怖いからあまり遭遇したくないかなあ。

「情報交換はしていただけないんでしょうね?」
「妻の身に関わることであるなら、情報交換はやぶさかではない。ただし、本省を通してもらわなければならない。俺の独断では渡せないのでな」
「なるほど。分かりました、しかるべき手続きを取って、情報交換の申し入れをさせていただきます」
「こちらもその心づもりでいよう」

 加藤さんが帰った後、隣の部屋にいた吉永さんが、信吾さんにと言ってお茶とお菓子を出してくれた。信吾さんはお礼を言うと、それまで加藤さんが座っていた椅子にドカリと座って、制帽をテーブルの上に置いた。

「怪我はしてないのか?」
「うん。インクみたいなのが飛び散っただけ」
「そうか。重光さんも詳しくは聞かされていなかったらしくてな。俺も奈緒が持っていた封筒が破裂したとしか聞かされていなかったから、怪我でもしたのかと思った」

 以前に似たような事が起きて、大怪我した人がいるって話を私も聞いたことがある。多分そんな感じだと思って、慌てて来てくれたんだね。

「ねえ、信吾さん絡みの事件かもしれないって本当?」
「可能性がないとは言えないだろ? 奈緒が自衛官と結婚しているというのは、秘密でもないわけだから」
「調べるの?」
「ああ、念の為にな。別に俺が直接調べるわけじゃない。しかるべき部署の人間が調査する」
「そうなの、良かった」
「良かった?」

 私の言葉に首をかしげる。

「うん。だって、忙しい信吾さんの仕事が増えたら申し訳ないもん」
「そんなこと気にするな」
「だって気になるんだもん、仕方ないよ」
「森永先生?」

 遠慮がちに吉永さんが声をかけてくる。

「はい?」
「そろそろお迎えの時間ですよ?」
「あ、そうでした」

 今日は午前中だけの予定だったので、子供達と一緒にお昼ごはんを食べて帰ろうって思ってたんだっけ。

「信吾さん、仕事は?」
「お前達を送り届けてから本省に戻るつもりだが」
「お昼、どこかかで一緒に食べる?」
「この格好では目立つだろ」
「だったら、保育園の横にあるカフェに行こう? あそこなら関係者以外は利用しないし、皆、信吾さんのこと知ってるし」

 後の患者さん達の事は山口先生にお任せして、私達は子供達のいる院内保育園へと向かった。子供達はパパも来ていると知って、大喜びでこちらに駆け寄ってくる。

「いい子にしてたか?」
「「してたぁー」」

 軽々と二人を両手で抱き上げて、ニッコリ笑っている信吾さんを見ていると、さっきの怖い顔が嘘みたい。こうやって見ていると、子煩悩なパパにしか見えないよ。

友里ゆりあゆむ、パパはまたお仕事に戻らなきゃいけないんだけど、その前に皆でお昼ご飯食べようか」
「「たべるぅー」」

 私の問い掛けに、見事にはもって返事をする二人の言葉に笑いながら、院内保育園の隣にあるカフェに四人で入る。今回のことは、改めて保育士の先生にも報告しておかなくちゃいけないなあ。子供達には可哀想だけど、しばらくはお休みにした方が良いのかな?などと悩んでしまう。夜にでも信吾さんと話し合わなくちゃ。
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