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第2章 政略の命令
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あの晩餐会の翌朝、王都の空はやけに静かでした。
冬の曇り空の下、鳥の鳴き声もなく、ただ屋敷の中で時計の音だけが響いています。昨夜の悪夢が現実に変わり、わたくしの人生は大きく舵を切ろうとしていました。
朝食の席につくと、父が既に背筋を伸ばして座っておられました。執事が淹れた紅茶の香りすら、どこか冷たく感じられます。
「クラリッサ」
「はい、お父さま」
父の声は固く、まるで報告書を読み上げているような抑揚でした。
「……王命だ。お前は、グラウベル辺境侯アルフォンス・ヴェイルに嫁ぐことになった。」
瞬間、手に持っていたスプーンが皿の上に落ち、軽い音を立てました。わたくしは咄嗟にそれを拾おうとしましたが、動きを止めました。
まるで凍りついたように。
「アルフォンス・ヴェイル……ですか?」
「そうだ。二十七歳、王国北端の侯爵領主。戦で功を立て、王に忠誠を誓う優れた軍人だ。」
父の表情はまったく動きません。
仕事の話をする官僚の目そのものでした。娘を嫁がせる父の顔ではなく、命令に従う従者の顔。
「しかし……陛下の勅命だ。エリントン家として背くことは許されない」
どの言葉も、一滴の情もありません。
婚約破棄されたばかりの娘に、慰めの言葉一つもなく。
それが、この家の現実だと改めて理解しました。家の存続、名誉。娘の幸せはその下に並ぶ。いつだって。
母のナタリーが静かに立ち上がり、わたくしの背後に回って肩に手を置きました。
その指先は優しくも、微かに震えています。
「アルフォンス侯爵はとても厳しい方だと聞いているけれど、人の心は見た目だけではわかりません。ね、クラリッサ」
「……はい」
唇の端を持ち上げようとしましたが、鏡に映れば、きっと笑えていない顔をしているでしょう。
「人は見た目より心よ」と、母はかすかに囁きました。
でも、わたしの中では“雪のような氷の目をした男”という噂ばかりが膨らんでいました。
辺境。
雪に閉ざされた土地。
氷の侯爵。
(……わたし、また寒い場所に行くのね)
心の中でそう呟きました。昨日の晩餐会も氷のように冷たかったけれど、今度は本当の雪に包まれる地へ。けれど、逃げ出すという選択はもうありません。
父が立ち上がり、短く告げました。
「明朝には旅立て。書簡も荷も、すでに手配済みだ。」
そうして部屋を出ていく背中を見送りながら、わたくしは手の中に紅茶の温もりを感じていました。けれど、そのぬくもりがなぜか遠くにあるように思えました。
*
出立の朝、庭にはうす白い霜が降りていました。
荷馬車の車輪が凍った泥を鳴らし、使用人たちが忙しなく動き回ります。
見送りに出てくれた母が、毛皮のマントを手にして待っていました。
「冷えるでしょう? これをまとっていきなさい」
「ありがとう、お母さま」
マントを肩に掛けてもらうと、その手がわたくしの髪をそっと撫でました。
幼いころから変わらない仕草に、胸が詰まりました。
「優しい娘でいてね。どんな相手にも優しさを忘れないで。……それがあなたの力になるわ」
「はい。……忘れません」
母の瞳が潤みましたが、それでも笑ってくれました。
その笑顔を見た瞬間、わたくしも涙をこらえて微笑み返しました。
馬車の扉に手をかけたとき、母が声をかけます。
「クラリッサ――手紙を、書くといいわ。辛いときも、嬉しいときもね」
「手紙、ですか?」
「そう。“言えないことを誰かに伝える”のは大切なことよ。文字にするだけでも、心が救われることがあるわ」
静かに頷いて、扉を閉めました。
馬車が動き出す。屋敷がゆっくりと小さくなっていく。
その景色の中で、わたしは小さくつぶやきました。
「……ありがとう。お母さま」
*
王都を離れるにつれ、道はどんどん荒くなり、風は冷たさを増していきました。
窓の外に広がる大地は、次第に雪に覆われ始めます。街道の標識には、「グラウベル領まであと五十マイル」と書かれていました。
馬車の中は薄暗く、かすかな揺れが続きます。
わたしは、小さなランプの光を頼りに便箋を取り出しました。母の言葉を胸に、また手紙を書こうと思ったのです。
『行き先は雪の国。心が凍らぬように気をつけます。
でも、知らない人々の中で、わたしはちゃんとやっていけるでしょうか。
お母さまの教えが、わたしの灯りになりますように。』
書き終えた手紙を膝の上で包みました。指先が冷えて、ペンの跡に少しにじみが残ります。
ふと、向かいに座る御者の助手が笑いかけてきました。
「お嬢さま、雪の国は確かに寒いですが、侯爵様の領地の食堂は温かいスープが絶品ですよ」
「……そうなのですか?」
「ええ。凍えた旅人も、あのスープで息を吹き返すって話です」
わたしは思わず笑ってしまいました。
知らない土地の小さな噂話が、なぜだか心に灯をともしてくれたのです。
「それなら、少し安心しました」
「ええ、旦那様は厳しくても、領民の信頼は厚いですよ。噂ばかりが先走ってるんです」
「そう……なのですね」
少しだけ、胸の重石が軽くなった気がしました。
不安の中にも、小さな希望が顔を出します。
*
日が暮れるころ、馬車は雪原の中で宿営しました。
小さな宿屋の暖炉の火。木の香りに包まれたその部屋で、ひとりベッドの上に腰を下ろします。
毛布の温もりよりも、心の中の静けさが強くて――眠れそうになかったのです。
窓の外、雪がちらちらと舞い落ちていました。
手を伸ばせば掴めそうなほど近くに。
(これから、あの雪の向こうへ行くんだわ)
まだ見ぬ氷の侯爵。
噂では情のない男。
けれど、ほんとうにそうなのでしょうか。
もしかしたら、冷たい顔の奥に、知らない痛みや孤独があるのかもしれない。
王都を離れ、初めて他人の噂だけを信じることに小さな違和感を覚えました。
胸の奥に、少しだけ温かい芽が生まれたようでした。
『見た目より心を――お母さまの言葉を信じてみようかしら』
そう心で呟きながら、眠りに落ちるまでのあいだ、わたしはランプの灯に包まれた便箋を何度も見つめていました。
冬の曇り空の下、鳥の鳴き声もなく、ただ屋敷の中で時計の音だけが響いています。昨夜の悪夢が現実に変わり、わたくしの人生は大きく舵を切ろうとしていました。
朝食の席につくと、父が既に背筋を伸ばして座っておられました。執事が淹れた紅茶の香りすら、どこか冷たく感じられます。
「クラリッサ」
「はい、お父さま」
父の声は固く、まるで報告書を読み上げているような抑揚でした。
「……王命だ。お前は、グラウベル辺境侯アルフォンス・ヴェイルに嫁ぐことになった。」
瞬間、手に持っていたスプーンが皿の上に落ち、軽い音を立てました。わたくしは咄嗟にそれを拾おうとしましたが、動きを止めました。
まるで凍りついたように。
「アルフォンス・ヴェイル……ですか?」
「そうだ。二十七歳、王国北端の侯爵領主。戦で功を立て、王に忠誠を誓う優れた軍人だ。」
父の表情はまったく動きません。
仕事の話をする官僚の目そのものでした。娘を嫁がせる父の顔ではなく、命令に従う従者の顔。
「しかし……陛下の勅命だ。エリントン家として背くことは許されない」
どの言葉も、一滴の情もありません。
婚約破棄されたばかりの娘に、慰めの言葉一つもなく。
それが、この家の現実だと改めて理解しました。家の存続、名誉。娘の幸せはその下に並ぶ。いつだって。
母のナタリーが静かに立ち上がり、わたくしの背後に回って肩に手を置きました。
その指先は優しくも、微かに震えています。
「アルフォンス侯爵はとても厳しい方だと聞いているけれど、人の心は見た目だけではわかりません。ね、クラリッサ」
「……はい」
唇の端を持ち上げようとしましたが、鏡に映れば、きっと笑えていない顔をしているでしょう。
「人は見た目より心よ」と、母はかすかに囁きました。
でも、わたしの中では“雪のような氷の目をした男”という噂ばかりが膨らんでいました。
辺境。
雪に閉ざされた土地。
氷の侯爵。
(……わたし、また寒い場所に行くのね)
心の中でそう呟きました。昨日の晩餐会も氷のように冷たかったけれど、今度は本当の雪に包まれる地へ。けれど、逃げ出すという選択はもうありません。
父が立ち上がり、短く告げました。
「明朝には旅立て。書簡も荷も、すでに手配済みだ。」
そうして部屋を出ていく背中を見送りながら、わたくしは手の中に紅茶の温もりを感じていました。けれど、そのぬくもりがなぜか遠くにあるように思えました。
*
出立の朝、庭にはうす白い霜が降りていました。
荷馬車の車輪が凍った泥を鳴らし、使用人たちが忙しなく動き回ります。
見送りに出てくれた母が、毛皮のマントを手にして待っていました。
「冷えるでしょう? これをまとっていきなさい」
「ありがとう、お母さま」
マントを肩に掛けてもらうと、その手がわたくしの髪をそっと撫でました。
幼いころから変わらない仕草に、胸が詰まりました。
「優しい娘でいてね。どんな相手にも優しさを忘れないで。……それがあなたの力になるわ」
「はい。……忘れません」
母の瞳が潤みましたが、それでも笑ってくれました。
その笑顔を見た瞬間、わたくしも涙をこらえて微笑み返しました。
馬車の扉に手をかけたとき、母が声をかけます。
「クラリッサ――手紙を、書くといいわ。辛いときも、嬉しいときもね」
「手紙、ですか?」
「そう。“言えないことを誰かに伝える”のは大切なことよ。文字にするだけでも、心が救われることがあるわ」
静かに頷いて、扉を閉めました。
馬車が動き出す。屋敷がゆっくりと小さくなっていく。
その景色の中で、わたしは小さくつぶやきました。
「……ありがとう。お母さま」
*
王都を離れるにつれ、道はどんどん荒くなり、風は冷たさを増していきました。
窓の外に広がる大地は、次第に雪に覆われ始めます。街道の標識には、「グラウベル領まであと五十マイル」と書かれていました。
馬車の中は薄暗く、かすかな揺れが続きます。
わたしは、小さなランプの光を頼りに便箋を取り出しました。母の言葉を胸に、また手紙を書こうと思ったのです。
『行き先は雪の国。心が凍らぬように気をつけます。
でも、知らない人々の中で、わたしはちゃんとやっていけるでしょうか。
お母さまの教えが、わたしの灯りになりますように。』
書き終えた手紙を膝の上で包みました。指先が冷えて、ペンの跡に少しにじみが残ります。
ふと、向かいに座る御者の助手が笑いかけてきました。
「お嬢さま、雪の国は確かに寒いですが、侯爵様の領地の食堂は温かいスープが絶品ですよ」
「……そうなのですか?」
「ええ。凍えた旅人も、あのスープで息を吹き返すって話です」
わたしは思わず笑ってしまいました。
知らない土地の小さな噂話が、なぜだか心に灯をともしてくれたのです。
「それなら、少し安心しました」
「ええ、旦那様は厳しくても、領民の信頼は厚いですよ。噂ばかりが先走ってるんです」
「そう……なのですね」
少しだけ、胸の重石が軽くなった気がしました。
不安の中にも、小さな希望が顔を出します。
*
日が暮れるころ、馬車は雪原の中で宿営しました。
小さな宿屋の暖炉の火。木の香りに包まれたその部屋で、ひとりベッドの上に腰を下ろします。
毛布の温もりよりも、心の中の静けさが強くて――眠れそうになかったのです。
窓の外、雪がちらちらと舞い落ちていました。
手を伸ばせば掴めそうなほど近くに。
(これから、あの雪の向こうへ行くんだわ)
まだ見ぬ氷の侯爵。
噂では情のない男。
けれど、ほんとうにそうなのでしょうか。
もしかしたら、冷たい顔の奥に、知らない痛みや孤独があるのかもしれない。
王都を離れ、初めて他人の噂だけを信じることに小さな違和感を覚えました。
胸の奥に、少しだけ温かい芽が生まれたようでした。
『見た目より心を――お母さまの言葉を信じてみようかしら』
そう心で呟きながら、眠りに落ちるまでのあいだ、わたしはランプの灯に包まれた便箋を何度も見つめていました。
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