伯爵令嬢の25通の手紙 ~この手紙たちが、わたしを支えてくれますように~

朝日みらい

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第1章 破棄の晩餐会

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 きらめくシャンデリアの下、まるで真冬の氷の城のように冷たい晩餐会でした。

 煌びやかな音楽と、人々の笑い声。けれどそこに流れるのは、決して温かなものではありません。

 ――今日は、わたくしの婚約者が主催する夜会。  
 そして、わたくしの「終わり」の日でもあるのです。

 侯爵家の跡取りであり、王都でも人気の青年貴族。  
 ルネ・ヴァルモンド様。彼の婚約者であるというだけで注目を浴びてきたわたくし、クラリッサ・エリントンは、胸の奥で重く息を吐き出しました。

 銀の皿に映る自分の顔は、化粧を整えてもまだ頼りなく映っています。  
 こんな華やかな場に立つたびに思うのです。わたくしには、きっと“貴族令嬢としての華”が足りないのだと。

「クラリッサ、もう少し笑ってもいいんじゃない?」
 向かいの席から、友人のセリーヌが囁きました。彼女は薄桃色のドレスをひらめかせ、いかにも社交の花と呼ばれるにふさわしい姿です。

「笑っているつもりなのだけれど……ぎこちないかしら?」
「うん、少しね。でも大丈夫よ。あなたは誠実で優しい人。それをわかる人もいるはず」
 セリーヌはそう言ってくれましたが、その目線の先では、別の令嬢たちが扇子を口元に当て、忍び笑いを浮かべていました。

 ああ、まただわ。  
 今日も、噂されているのです。

 婚約者が冷め切った態度を取っていること。  
 わたくしが地味で、まるで修道女のようだと。

「ご覧なさいよ。あれがルネ様の婚約者ですって」
「信じられないわ。どうしてあの方があんな地味な娘を?」
「令嬢会でも話題よ。ルネ様、きっと近いうちに解消されるって」

 雪のように白い言葉たちが、笑いの中を舞っていました。

 それでも、背筋を伸ばしました。  
 こういう時こそ、家の名に恥じぬように。母がいつも言っていたのです。「クラリッサ、どんなときも笑顔を忘れてはなりません」と。

 その時、ざわめきが広がりました。

 ホールの中央、金色の光を反射する髪を揺らし、ルネ様が静かに立ち上がったのです。ワインの入ったグラスを掲げ、とても柔らかな笑みを浮かべて――でも、その笑みがわたくしには向けられていないことを、痛いほど知っていました。

「今宵はご列席ありがとうございます。さて……皆さまの前で一つだけ、お伝えしたいことがございます」

 わたくしは思わず息を呑みました。直感で、わかってしまったのです。これはきっと、あの噂の“正式な場”なのだと。

「私は……華のある令嬢が好みです。すまないが、クラリッサ。君では退屈だ。」

 一瞬、世界から音が消えました。

 会場を満たしていたヴァイオリンの音も、談笑も、すべて遠ざかっていくようでした。  
 誰かの扇子が小さく閉じられる音が、やけに響きます。

「あらまあ」「まあ、ご可哀想に」「やっぱり」「あの噂、本当だったのね」

 まるで波のように、人々の囁きが押し寄せてきます。  
 けれど、わたくしの唇は――微笑んでいました。

「……承知いたしました。ルネ様。これまでお世話になりました。」

 そう告げる声が、震えなかったのは奇跡でした。  
 グラスを持つ指先は氷のように冷たく、背中の線がぴんと張って痛いほどでした。

 わたくしが頭を下げた瞬間、場に失笑が散り、音楽がどうにか再開しました。  
 ルネ様は、もう何も言わずに視線を逸らしました。隣にいた派手な令嬢が、勝ち誇ったように笑って彼の腕に手を置きます。

 ああ、これが社交界──そして愛の終わりの形なのですね。

 足元が霞むほど視界が揺れて、でも顔だけは崩せません。  
 わたくしの中で、たった一粒の涙がこぼれる代わりに、胸の奥に冷たい火がともりました。

(泣くものですか。わたしは、泣かない。今夜だけは)

 その夜、馬車の中――どこまでも静かな帰路。  
 街の明かりが遠ざかるたびに、心の奥に空洞が広がっていきました。



 屋敷に戻ると、母が待っていました。  
 少し白髪が増えたその姿が見えただけで、胸の奥がじんとしました。

「クラリッサ……無理していない?」
「大丈夫ですわ。少し疲れただけです」

 母は何も言わず、ただそっとわたくしの頬に手を添えました。その温もりが、張り詰めた心をいっぺんに溶かしかけてしまいそうで、唇を噛んで耐えました。

「部屋に戻って、休みなさい」
「ええ。……そうします」

 扉を閉めると同時に、ようやく頬を伝うものがありました。

 机の上の便箋箱を開けて、そっと羊皮紙を取り出します。  
 母が昔、王都の文具市で買ってくれたもの。いつか幸せの手紙を書くためにと。

 手に取ったペンが震えました。  
 でも、書こうと思いました。書くことで、わたしでいられる気がしたからです。

「……母へ」

 そう書き出してから、しばらく手が止まりました。  
 どう言葉をつむげばいいのか、わからなくて。

 それでも、ようやく次の行にインクを落としました。

『恥をかいたけれど、泣かないことを誇りに思いたいです。  
 きっと、これも人生のひとつの通過点なのでしょう。  
 でも今夜は、少しだけ、心が痛いです。』

 インクが滲み、最後の句読点が涙に濡れました。  
 便箋をそっとたたみ、封筒に入れて封をします。  
 暖炉の火が静かにぱちりと弾け、その橙の光が手紙を照らしました。

「……これが、最初の手紙」

 小さくそう呟いてから、わたくしは封を抱きしめました。  
 誰に見せることもない、心からの祈りのような文字たち。  
 手紙を書く――それが、わたしの小さな勇気の証になればと願って。
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