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第3章 氷の侯爵
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雪原の向こうに見えたその屋敷は、息を飲むほど壮大でした。
白銀の大地の中、黒い尖塔がいくつも空を突き刺すように立ち並び、まるで大きな氷の城のようです。冬の太陽の光を受け、屋根の霜が鈍く輝いていました。
グラウベル侯爵家の居城。これが、わたしの新しい“家”になる場所。
馬車が最後の坂を登りきると、石造りの門が開きました。風が雪を巻き上げ、頬を刺すように冷たい。
(わたしは、ここで生きていくのね)
覚悟のように、唇をきゅっと結びました。
*
馬車を降りると、正面の階段の上に一人の男性が立っていました。
黒の軍服に近い深緑の上着。肩の章には王国の軍紋。灰色の瞳が、氷の結晶のように光を反射しています。
彼こそが――アルフォンス・ヴェイル侯爵。
長身で、引き締まった体つき。鋭い目元には浅い戦傷。頬に走る細い傷跡が、まるで彼の生き方そのものを刻んでいるようでした。
けれど、わたしがもっとも印象的だと思ったのは、その静けさ。
声がなくとも人を圧倒するほどの、ひどく深く冷たい静けさです。
わたしはマントを整え、雪の上に裾を引きずらぬよう注意しながら階段を登りました。
「クラリッサ・エリントンでございます。お招きにあずかり、光栄に存じます」
深々と一礼すると、低く短い声が返ってきました。
「王命だから迎えた。愛情を期待するな」
突き放すような声。その響きに心臓が小さく震えました。
それでも、顔を上げたとき、灰色の瞳の奥に一瞬だけ影のようなものを見た気がしました。
哀しみのような、記憶の残滓。
けれどそれはすぐに閉ざされ、冷たい石壁のような無表情に戻ってしまいました。
「はい。……承知しております。わたくしは、与えられた役目を果たすつもりで参りました」
「……そうか」
彼の声にわずかに驚きが混じったのは気のせいでしょうか。
わたしはそのまま丁寧に会釈をし、彼の視線の先を追いました。
「リオネル、客間へ案内しろ」
「かしこまりました、旦那様」
執事の男性が一歩前に出て、柔らかく頭を下げました。白髪混じりの年配の方で、穏やかな声でした。
「こちらへどうぞ、奥様」
「……奥様?」
一瞬、言葉が胸の中で跳ねました。
“奥様”――たったそれだけの呼称なのに、胸が少し熱くなるのを感じました。まだ契約のような婚姻なのに、それでもその響きは心に沁みます。
「リオネル、無駄口を叩くな」
アルフォンス様の低い声。
執事は一礼して引き下がりました。彼は最後まで穏やかに微笑み、廊下を歩き出しました。
*
屋敷の中は静かで、あまりに広い場所でした。
壁の燭台の火は少なく、廊下の石床は氷のように冷たい。
まるで時間までもが凍ってしまったようです。
すれ違う使用人たちはみな瞳を伏せ、口数を極端に減らしていました。
挨拶をしても、小さく会釈するだけ。侯爵の屋敷には、人の声という温度がほとんどありません。
「旦那様は多くを語られませんが、お優しいお方です。ただ……」
客間へ向かう途中、執事のリオネルがぽつりと呟きました。
「……あの戦以来、人となるべく関わらないようにしておいでです」
「戦……」
「ご子息を失われてからです。旦那様の弟君は、侯爵にとって何より大切な方でした」
その言葉に、胸がひゅっと痛みました。
だから、あの灰色の瞳に影があるのだと。
怖い人なのではなく、悲しみを抱えた人なのかもしれない。
廊下の窓の外には、雪が静かに降り続けていました。
白い世界。そこに人の温もりはなく、ただ降り積もる音のない静寂。
(この人の心も、こんな雪に覆われているのだわ)
そんなことを考えて、胸の奥が少しだけ痛くなりました。
*
与えられた部屋は客間というには立派で、王都の屋敷よりずっと広々としていました。
けれど、暖炉の火が消えて久しいのか、冷気がしんしんと床から沁みてきます。
部屋に通されたあと、しばらく暖炉の前に立っていました。使用人が薪をくべ、火がはぜる音が小さく響きます。
『王命だから受け入れた。愛情を期待するな。』
あの言葉が何度も耳の奥で反芻されていました。
けれど不思議と、完全に憎むことも、怯えることもできませんでした。
冷たい瞳の奥に見えた一瞬の影が、忘れられなかったのです。
「……寂しそうな瞳だった」
思わず呟いてしまいました。
聞こえるのは薪のはぜる音と、遠くの風の唸り。
その音に重なるように、また筆を取りました。
母に書く三通目の手紙です。
『彼の瞳は氷のよう。でも、なぜか悲しそうで。
怖いはずなのに、ほんの少しだけ……放っておけないと思ってしまいました。』
インクがゆっくりと滲み、紙の上でかすかに震えました。
胸の鼓動がゆっくりと重なり、そのリズムが少しだけあたたかい。
手紙を書き終えるころ、窓の外の雪は止み、淡い月の光が差し込みました。
その光に照らされた廊下の端に、ひとつの影が見えました。
扉の隙間から、灰色の瞳が一瞬だけのぞいて――すぐに消えます。
(今のは……)
確信はありません。でも、なぜかわかりました。
アルフォンス様が、わたしを見に来られたのだと。
「……やっぱり、冷たい人だけではないのかもしれませんね」
小さく笑ってみました。
笑った瞬間、頬の氷がとけるように温かいものが内側から広がっていくのを感じました。
それはきっと、わたしの中に灯った最初の春の兆しでした。
白銀の大地の中、黒い尖塔がいくつも空を突き刺すように立ち並び、まるで大きな氷の城のようです。冬の太陽の光を受け、屋根の霜が鈍く輝いていました。
グラウベル侯爵家の居城。これが、わたしの新しい“家”になる場所。
馬車が最後の坂を登りきると、石造りの門が開きました。風が雪を巻き上げ、頬を刺すように冷たい。
(わたしは、ここで生きていくのね)
覚悟のように、唇をきゅっと結びました。
*
馬車を降りると、正面の階段の上に一人の男性が立っていました。
黒の軍服に近い深緑の上着。肩の章には王国の軍紋。灰色の瞳が、氷の結晶のように光を反射しています。
彼こそが――アルフォンス・ヴェイル侯爵。
長身で、引き締まった体つき。鋭い目元には浅い戦傷。頬に走る細い傷跡が、まるで彼の生き方そのものを刻んでいるようでした。
けれど、わたしがもっとも印象的だと思ったのは、その静けさ。
声がなくとも人を圧倒するほどの、ひどく深く冷たい静けさです。
わたしはマントを整え、雪の上に裾を引きずらぬよう注意しながら階段を登りました。
「クラリッサ・エリントンでございます。お招きにあずかり、光栄に存じます」
深々と一礼すると、低く短い声が返ってきました。
「王命だから迎えた。愛情を期待するな」
突き放すような声。その響きに心臓が小さく震えました。
それでも、顔を上げたとき、灰色の瞳の奥に一瞬だけ影のようなものを見た気がしました。
哀しみのような、記憶の残滓。
けれどそれはすぐに閉ざされ、冷たい石壁のような無表情に戻ってしまいました。
「はい。……承知しております。わたくしは、与えられた役目を果たすつもりで参りました」
「……そうか」
彼の声にわずかに驚きが混じったのは気のせいでしょうか。
わたしはそのまま丁寧に会釈をし、彼の視線の先を追いました。
「リオネル、客間へ案内しろ」
「かしこまりました、旦那様」
執事の男性が一歩前に出て、柔らかく頭を下げました。白髪混じりの年配の方で、穏やかな声でした。
「こちらへどうぞ、奥様」
「……奥様?」
一瞬、言葉が胸の中で跳ねました。
“奥様”――たったそれだけの呼称なのに、胸が少し熱くなるのを感じました。まだ契約のような婚姻なのに、それでもその響きは心に沁みます。
「リオネル、無駄口を叩くな」
アルフォンス様の低い声。
執事は一礼して引き下がりました。彼は最後まで穏やかに微笑み、廊下を歩き出しました。
*
屋敷の中は静かで、あまりに広い場所でした。
壁の燭台の火は少なく、廊下の石床は氷のように冷たい。
まるで時間までもが凍ってしまったようです。
すれ違う使用人たちはみな瞳を伏せ、口数を極端に減らしていました。
挨拶をしても、小さく会釈するだけ。侯爵の屋敷には、人の声という温度がほとんどありません。
「旦那様は多くを語られませんが、お優しいお方です。ただ……」
客間へ向かう途中、執事のリオネルがぽつりと呟きました。
「……あの戦以来、人となるべく関わらないようにしておいでです」
「戦……」
「ご子息を失われてからです。旦那様の弟君は、侯爵にとって何より大切な方でした」
その言葉に、胸がひゅっと痛みました。
だから、あの灰色の瞳に影があるのだと。
怖い人なのではなく、悲しみを抱えた人なのかもしれない。
廊下の窓の外には、雪が静かに降り続けていました。
白い世界。そこに人の温もりはなく、ただ降り積もる音のない静寂。
(この人の心も、こんな雪に覆われているのだわ)
そんなことを考えて、胸の奥が少しだけ痛くなりました。
*
与えられた部屋は客間というには立派で、王都の屋敷よりずっと広々としていました。
けれど、暖炉の火が消えて久しいのか、冷気がしんしんと床から沁みてきます。
部屋に通されたあと、しばらく暖炉の前に立っていました。使用人が薪をくべ、火がはぜる音が小さく響きます。
『王命だから受け入れた。愛情を期待するな。』
あの言葉が何度も耳の奥で反芻されていました。
けれど不思議と、完全に憎むことも、怯えることもできませんでした。
冷たい瞳の奥に見えた一瞬の影が、忘れられなかったのです。
「……寂しそうな瞳だった」
思わず呟いてしまいました。
聞こえるのは薪のはぜる音と、遠くの風の唸り。
その音に重なるように、また筆を取りました。
母に書く三通目の手紙です。
『彼の瞳は氷のよう。でも、なぜか悲しそうで。
怖いはずなのに、ほんの少しだけ……放っておけないと思ってしまいました。』
インクがゆっくりと滲み、紙の上でかすかに震えました。
胸の鼓動がゆっくりと重なり、そのリズムが少しだけあたたかい。
手紙を書き終えるころ、窓の外の雪は止み、淡い月の光が差し込みました。
その光に照らされた廊下の端に、ひとつの影が見えました。
扉の隙間から、灰色の瞳が一瞬だけのぞいて――すぐに消えます。
(今のは……)
確信はありません。でも、なぜかわかりました。
アルフォンス様が、わたしを見に来られたのだと。
「……やっぱり、冷たい人だけではないのかもしれませんね」
小さく笑ってみました。
笑った瞬間、頬の氷がとけるように温かいものが内側から広がっていくのを感じました。
それはきっと、わたしの中に灯った最初の春の兆しでした。
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