【完結】伯爵令嬢の25通の手紙 ~この手紙たちが、わたしを支えてくれますように~

朝日みらい

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第10章 春の芽吹き

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 長い冬がようやく終わりを迎えようとしていました。  
 氷の解ける音があちらこちらで聞こえ、雪の下から土が顔を出しています。  
 冷たい空気に混じって、やわらかい陽の匂いがする朝でした。

 その日の空は淡い水色。  
 屋敷の庭を歩くたび、靴の裏で小さく雪が溶ける音がしました。  
 目を凝らすと、あの時植えた白花の芽が、いくつも土を押しのけて立ち上がっています。

「……咲いたわ」

 思わずしゃがみこみ、ひとつの蕾を指で撫でました。  
 白く細い花びらが太陽の光を受け、まるで光そのもののように透き通っています。  
 胸の中で、何かが音を立てて弾けました。

「奥様、ほんとうに咲きましたね!」  
 ソフィが駆けつけ、顔を輝かせます。

「ええ。みんなの努力のおかげね。……この庭が息を吹き返したのよ」

「旦那様にもぜひご覧いただかないと!」

 嬉しそうなソフィの声に、思わず笑って頷きました。  
 けれどまさか数刻後、本当に彼が現れるとは思いませんでした。



 昼の柔らかい光の中。  
 庭の入口に、深緑の外套をまとったアルフォンス様の姿がありました。  
 灰色の瞳が春の光を映していて、その表情はいつもより穏やかに見えます。

「庭を見たいと言ったら、リオネルがここへ案内した」

「ようこそ、アルフォンス様。この庭、冬を越えて花が咲いたのです」

 わたしが差し出した花を、彼はしばらく黙って見つめていました。  
 そして手を伸ばし、花の茎をそっと掬うように持ち上げます。

「……この庭を“クラリッサの庭”と呼ぼう」

「え……?」

「お前が植え、守り、咲かせた花だ。この庭はお前のものだ」

 唐突な言葉に胸が熱くなりました。  
 彼の表情は相変わらず無愛想でしたが、その声だけが驚くほど穏やかで。

「そんな……でも、わたしは何も――」

「お前が来なければ、この屋敷も領も、今のようにはならなかった。  
 春が来たのは、お前がここにいたからだ」

 その言葉に、どうしても視線を合わせられませんでした。  
 胸の奥が温かすぎて、呼吸が少し苦しいほどです。

「……ありがとうございます」

 かろうじて絞り出した声に、彼が小さく頷きました。  
 次の瞬間、風が吹き、花弁が宙を舞います。  
 その中で、彼が一歩わたしに近づきました。

「手を」

「え?」

「寒いだろう」

 ためらう間もなく、彼の大きな掌がわたしの手を包み込みました。  
 その厚い手のひらから伝わるぬくもり。  
 ほんの少しの距離で、灰色の瞳と視線が絡みます。

 ふいに彼の指先が髪に触れ、風で乱れた一房を直してくれました。

「花びらが、髪に」

「あ……ありがとうございます」

 心臓が早鐘を打つように鳴り、頬が熱を帯びます。  
 今まで幾度も冷たい夜を知ってきたのに、いま感じている温度だけは、どこまでもやさしい。

「……今日の庭は、悪くない」

「ふふ。褒め言葉として、いただいておきます」

 軽く笑うと、彼はわずかに目を見張ってから、肩をすくめるようにして視線を逸らしました。  
 けれどその横顔には確かに笑みがありました。



 その日の夕暮れ、屋敷の窓から庭を見下ろすと、夕陽に白花が金色に染まっていました。  
 まるでわたしたちの手紙が積み上げた小さな奇跡のように、光が風に舞っています。

 机の上には、また新しい封筒。  
 そこに、今日の想いを綴りました。

『十通目。  
 春が訪れました。  
 この庭は、わたしとあの人の歩んだ季節のようです。  
 もう、凍てついた心に触れるのが怖くありません。  
 この人の隣に、ずっといたいと思いました。』

 インクが乾く前に、窓を開けて深く息を吸い込みました。  
 風の中には、花の香りと、どこか懐かしいあたたかさが混じっています。

(――あぁ、やっと、春が来たのね)

 庭の花々が、夕陽の中でやさしく揺れていました。  
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